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真実の扉

一方、事件の真相を追う『長田 真』は

ようやく捜査の糸口を手にして足を進める。

その道の先に続く、真実の扉を目指して・・・


                 12


[未解決事件 №○○○○

 事件簿名 ≪『れんげ』児童養護施設放火事件≫

 

 この事件は目撃者、重要参考人及び被疑者は未だに不明。

 当時施設にいた職員及び児童34人が火事に巻き込まれて死亡。


 出火原因は施設内一階の食堂に設置されているプロパンガスが漏れ、

 ガスコンロに火を点けた瞬間爆発し引火したとみられる。

 放火と疑ったのはガス栓を故意に開けた形跡があった為。

 そして施設関係者以外の焼遺体を発見。


 遺体の身元は警視庁捜査一課所属警部

 『佐川させん 陽一郎よういちろう』とみられる。

 遺体のDNA鑑定と遺留品の照合により判明。

 この事件の重要参考人として捜査中。


 尚、この施設に関わる職員及び児童の在籍リストは別途参照。]



“八方塞がり”

この言葉がぴったりだった。

周りに味方がおらず、誰も信用できない環境。

しかも、まるで自分の恩師が放火したと思わせるような

手掛かりと痕跡を残した状態と現状。


長田ながた まこと』は、

自分の無力に腹立たしさを覚えた。


この遺体に関わった捜査員も、鑑識官も【消されている】。

このファイルを残した上官も、だ。

これに関わっていた全ての者の身元が、

大きな『組織』の前に【消されている】。

これをどう捉えるのか。


長田の上司で恩師の『佐川 陽一郎』。

『佐川 陽一郎』の伴侶である『佐川 とき』。


彼女が頷かなかった。

この遺体は夫ではない。

違う人間の遺体だと。

もし遺体が恩師なら、逆に事態は安易に進んでいた。

疑いを晴らす方向で捜査すればいい。


謎の遺体。

この遺体が誰なのか。

なぜすり替えられ、鑑識官、捜査員、上官・・・

全ての者が沈黙しなければならなかったのか。

その絶望の中調べていくしかなかった。


『佐川 とき』は『あちら側』と呼ばれるアンダーグラウンドの住人だ。

『あちら側』での名前を、『劉 玉玲』という。

国家公務員である警察官が、非合法の人間と関わりを持つのは

勿論あってはならない。

だが恩師はその女性を人間として真っ直ぐに見つめ、受け入れた。

『劉 玉玲』も同じだったのかもしれない。


相反する立場の中、二人の間に生まれたもの。

それは『真実』だ。

全てを取っ払い、個体の人間として向かい合い、

同じ道を歩む決意をした。


恩師である『佐川 陽一郎』の遺志と、

その『真実』をともにする『劉 玉玲』によって

自分は変わった。


『真実』は、『偽り』という雲の中に身を潜めている。


自分はどうしたい?

ただ、『真実』が知りたい?


・・・そうだな。その欲求が強いのか。


正義という名の下に働く自分たちだが・・・

『偽り』という雲の中に潜んでいる『真実』を、

見通せる人間はどれだけいる?


いや、見通せたとしても・・・

権力という名の下に下っていく者が大半だろう。

上から潰され、無かったことになる。

そうやって雲は増えていく。


・・・考えた。

考えて、行動して、ぶつかり、

また考えて・・・ぶつかった。


1年前に自分の下についたキャリアの女捜査官、

橋口はしぐち 七海ななみ』。


彼女は自分の凝り固まった見方を変えてくれた。


《この別途記載されている在籍リストは、

 施設に養護されている児童全員ですか?

 この放火から助かった児童はいますか?

 もし助かった児童がいるのなら、その児童は今どこに?

 いたとしたら、

 放火に遭う前の情報を得られるかもしれません。》


児童。

そこに目を向けなかった。

『劉 玉玲』もそこには触れなかった。

未来を見通す力を持つ彼女でも、盲目になるのか。

いや、彼女はその力で特定の人間を贔屓することはない。

・・・出来なかったのか。


《『このリストに載っている児童全員』が、

 『施設に養護されている児童全員』と思い込んでいませんか?

 長田警部の言う『組織』が、

 なぜここまで徹底して証拠を【消す】のですか?

 この施設に、その『組織』が隠していた

 世に出せない『真相』があるということです。

 知られてはまずい確かなものが。

 児童がノーマークだとしたら、今も生きている可能性があります。

 事件の手掛かりを持つ児童がいるかもしれません。

 調べましょう。》


                 *


9月7日。

午後10時を過ぎた頃。

この日の東京は曇天で、月の姿は見受けられない。

幾分暑さも和らぎ、涼しい風が高層ビル街を吹き抜ける。

首都高速を抜け、渋谷区を走る一台の白いハイブリッド車。

その車の運転席には若い女が、

助手席には30代後半の男が座っていた。

女のショートボブの黒髪は後方に流れ、

切れ長の目は前方を見通している。

Yシャツの袖をまくり、そこから露出する腕は透き通るように白い。

ハンドルを握る左手首に付けた銀細工の腕時計は、

静かに時を刻んでいる。

男は精悍な顔立ちだが、いつもの鋭い眼光は陰りをみせている。

体格が良く、逞しい胸板はカッターシャツの上からでも把握できた。

車窓にスクロールするネオンの景色を、目で追うように眺めている。


「・・・雲を掴むようなものですが・・・」


ぽつりと言葉をこぼす女。


「これで何も掴めなかったら、また振り出しですね。」


「ないよりはましだ。」


男は即答する。


「動けるだけありがたい。動きたくても、動けない方がつらい。」


男の様子を、女は車を運転しながら感じ取る。

男はひどく疲れている様子だった。

目の下にはクマがあり、

シートに身を沈めるその姿は覇気がない。


― 無理もない。


女はため息をつく。


― 私が提案した児童の調査。

 困難を極めたが、三人辿り着く事に成功した。

 しかしそのうちの二人は行方不明。

 生存しているのかも分からない。

 今向かっている残り一人の行方も・・・もしかしたら。

 そんな状態で、気力が出るとは思えない。


「・・・橋口。」


男の、ぼそっと投げ掛けるその声音は小さく弱い。


「・・・はい。」


その弱々しい声を、女は壊さないように受け止めて応答する。


「ありがとうな。

 俺の無理な要望に応えてくれて、本当に感謝している。」


「・・・・・・」


男― 長田からの真っ直ぐな言葉に、女― 橋口は首を横に振る。


「私は何も力になれていません。

 ・・・それに、警部の話を聞いていたら私も気になってしまった。

 それだけです。」


「・・・すまない。」


「やめてください。・・・謝らないでください。

 そんな警部見たくありません。」


「・・・ははっ。そうだよな・・・」


「・・・そうですよ。」


薄くだが笑顔を見せた長田に、橋口もつられて笑う。


― ・・・長田警部は相当疲れている。

 この闇は・・・とても深いのだ。

 先も見えない捜査に、正気でいられる方がおかしい。

 ・・・埋もれている『真実』を、

 引き当てることが出来たら。

 全ての歯車が噛み合い、回り出す。

 ただ、それを私は望むだけだ。


長田と橋口を乗せた車は、とある有料駐車場に停まる。

橋口は後部座席にあるハンドバッグに手を伸ばし、

手帳を取り出す。

それを広げ、確認するように橋口は言葉を紡いだ。


「『紀野きの あつし』。性別は男。

 児童養護施設にいた当時の年齢は14歳。

 両親が無理心中を計り、

 彼はその中息があって救出されました。

 退院をしたその後、施設に保護されているようです。

 養護に至ったのは、親戚と絶縁していた為。

 ・・・施設が放火に遭って、

 行き場を失った彼がどの経緯で生き延びたのか分かりませんが・・・

 今現在ライブハウスのオーナーを勤めています。」


「ライブハウスか・・・何年も行ってないな。」


長田は遠い目をして呟く。


「こんな格好じゃ、浮いちまうかな。」


「・・・遊びに行くわけじゃありませんから大丈夫です。」


「オーナーともなればアポは難しいかもしれんな。」


「その点はクリアしています。

 知り合いに頼んで、

 このライブハウスで今日行われる公演のチケットを入手しました。

 あと、ここは裏で会員制のバーも経営しているそうです。

 その会員証も特別に作ってもらいました。

 グローブボックスに入っています。」


淡々と述べた橋口の言葉に、長田は目を見張らせる。


「・・・手回しいいな。」


「私は『あちら側』の住人ですから。」


さらりと漏らした暴露に、長田はさらに驚いた。

切れ長の目に浮かぶ強い光。

それは薄暗い車内で妖しく輝いた。


「成すべき事をする為には、それ相応の対応が必要です。

 その術を私は知っているだけ。

 ・・・どう思われても仕方ありませんが、

 貴方の目に映っている『橋口 七海』自身は、

 ありのままの姿です。」


「・・・そうか。」


橋口の言い分に、長田は妙に納得していた。

鋭い指摘と着眼点。

約一年間見守ってきた部下の力量を知っていたからだった。

その謎が解けて、改めて橋口の姿を目に映す。

長田は思うままに言葉を告げた。


「俺はお前を認めている。

 何者であっても、その見方は変わらない。」


その言葉に、橋口は微笑んだ。

その微笑みは、柔らかくて優しい。

普段仕事場で見ている彼女からは決して発さないものだった。


「・・・ありがとうございます。最高の褒め言葉です。」


橋口はそう言って会釈をする。

その彼女の笑顔と雰囲気に、

なぜか長田は見てはいけないものを見てしまった気になった。

それに触れないように目を逸らし、グローブボックスに手を伸ばす。

開けると、その中にはライブチケットらしき紙が二枚と、

『LUST』と金の文字で表記された黒いカードが二枚入っている。

それぞれを手に取り、軽く確認すると橋口に一枚ずつ渡す。


「・・・突破できるなら何でも使う。」


言葉の意味を受け止め、橋口は頷く。


「・・・踏み込むぞ。」


短く言い放ち、長田は車のドアを開ける。

生暖かい風が、車内に流れ込んできた。


「はい。」


それに応え、橋口も続くようにドアを開けた。


二人は煌めく街に足を踏み入れ、歩き出す。



ライブハウス・『LUST』。

午後10時から開演されるこのライブハウスは、

観客が演奏とともに踊り楽しむ場として

密かに若者たちの人気を集めていた。

公演される音楽のジャンルは様々で、

入場チケットさえあれば時間や演奏に限らず楽しめる。

今の時刻では、

メタルバンドグループが欲望のままに音楽を発散させている。

それに乗る観客の波。

叫び、腕を振り上げ、歌い狂っていた。

長田と橋口は店に足を踏み入れた瞬間、

その爆音と熱気を全身で受け止める。

観客の波を避けて、二人は会場の後方にある通路を通り抜けていく。

すると奥へ通じる狭い廊下に辿り着き、

爆音が軽減されると長田は息をついた。


「一瞬で耳をやられた。」


そう言いながらも、長田の表情は明るい。

自分の声が遠く感じるのと耳鳴りで、声を張る。


「久しぶりだな、この感じ。」


「警部はこういう系の音楽が好みですか。」


橋口は顔をしかめ、耳鳴りに耐えながら声を張る。


「そうだな。今度はプライベートで行こうかな。楽しそうだ。」


「私は苦手ですね。」


「ははっ。そうだろうな。お前にメタルは合わないよ。」


「それ、偏見ですよ。苦手ですが、嫌いじゃありません。」


「やせ我慢するな。」


「していません。」


頑なに主張する橋口の様子に長田は一笑した後、歩を進める。

短く狭い廊下の突き当りに、黒塗りされたドアが目に入る。

その扉の前に一人の男が立ちはだかるようにいた。

頭は髪の毛一本ないスキンヘッド。肌は浅黒い。

目の表情はサングラスで遮られて窺えない。

盛り上がった二の腕の筋肉と大胸筋を強調する白のタンクトップ。

太い首には金のネックレスが煌めいている。

迷彩色のカーゴパンツは、逞しい太ももではち切れそうだった。

二人がその男の前まで行くと、

何の感情もなく短く言葉が投げられる。


「会員証を。」


男は二人に向かって、ごつごつした大きな手を差し伸べる。

二人はこの先にバーがある事を確信し、無言で会員証を提示した。

男は、ガムを噛んでいる口を動かしながらそれを確認する。

大して調べることなくその会員証をそれぞれに返し、

男は扉を開けた。

扉の向こうに広がる空間は、

ライブハウスの熱狂ぶりとは真逆で人気が無い。

装飾はなく、全体的に黒の彩りが支配していた。

扉が閉まると、音が遮断されてさらに静けさが倍増する。

照度は程よく落とされ、

六席のカウンターチェアにテーブル席は三席。

二人以外の客はおらず、

バーカウンターには一人の青年が佇んでいる。

扉の前にいた屈強の男とは違い、細身である。

見た目は20代前半。

グラスを拭くその手の指には、銀細工の指輪が光っている。

格好はカジュアルで、

藍色のテーラードジャケットにVネックの白いシャツ。

顎に存在する綺麗に整えられた髭が印象強い。


「・・・見かけない顔だな。」


男は一重の細い目を、長田と橋口に向けて言う。


「オーナーと会いたい。」


長田は単刀直入に尋ねた。

挨拶もなく不躾な要望に、青年は訝しげな表情を浮かべる。


「・・・オーナーは俺だが。」


その答えに、長田は鼓動をはね上げる。


「『紀野 篤』だな?」


その告げられた名前に、青年は細い一重の目を大きく広げる。


「・・・何だ、お前らは。」


「お前がいた児童養護施設について、詳しく話を聞きたい。」


青年― 紀野の行動は早かった。

バーカウンターの下から素早く拳銃を取り出し、

長田に銃口を向ける。


「何者だ。素直に言わないと撃つ。」


拳銃の出現で一気に空間が緊迫する。

しかし、長田はその紀野の行動に怯む事はなかった。

銀細工のピアスが三つ光る左耳が紅潮していく。


「・・・何を怯えている?」


拳銃を持つ手が震えているのを、長田は見逃さなかった。


― ・・・この反応。

 普通ならここまで過剰にならない。


「何か知っている事があれば教えてほしい。」


「質問に答えろ。」


紀野は拳銃の引きトリガーに指を掛ける。

長田は冷静に答えた。


「警察だ。お前の命を脅かす存在じゃない。」


紀野はその言葉に驚愕する。

長田は見抜いた。いや、勘に近い。

目の前にいるこの青年は、何か【知っている】。

今まで自分たちが掴めなかった、重要な手掛かりになるものを。

だから包み隠さず、素直に言葉にした。


「あの日遭った出来事、施設での事、何でもいい。

 お前の命は自分が全力で保護する。」


「・・・・・・」


紀野は長田を見据える。

長田の考えている事を、必死で見抜こうとしていた。

長田はただ真摯に、紀野と向き合うように見据える。

しばらく均衡状態は続いた。

それを、橋口は口を挟まず見守る。

ライブハウスの演奏が微かに耳に届く程、

店内は静寂に支配されていた。

その重々しい空間と

長田の気迫と真摯さに負けたのか、紀野は言葉を投げる。


「・・・証明できるものは?」


その問いに、長田は迷う事なく応じた。

カッターシャツの胸ポケットから警察手帳を取り出す。

紀野は警戒して拳銃を構え直す。

長田は警察手帳を開き、証票と記章を見せるように提示した。

それを食い入るように見て、紀野は目を大きく見開いていく。


「・・・長田・・・真・・・・・・」


異常な程拳銃を持つ手が震えている。

その様子に、長田は自分の勘が確信に近いと感じ取った。


「・・・あんたが・・・長田 真か。」


紀野の言葉と反応が、長田の鼓動を強く打たせていく。

陰りを見せていた眼光は、みるみるうちに輝いていった。


「自分の名前を知っているみたいだな。誰に聞いた?」


逸る気持ちを抑えきれず、問い掛ける。

紀野は拳銃を構えていた腕を下ろした。

表情が緩み、心底安堵したように深呼吸をして拳銃をカウンターに置く。

改めるように長田と橋口を見据え、紀野は言葉を紡いだ。


「・・・そこに座れ。話をする。」


指図するように目で二人をカウンター席に促し、

紀野は出入り口の扉に向かって歩いていく。

長田は素直に従い、促されたカウンター席に座る。

橋口も後に続くように、その隣に座った。

紀野は扉を開け、サングラスの男に告げる。


「誰も入れるな。」


「了解。」


扉を閉め、紀野はカウンターに戻っていく。

それを目で追っていると拳銃が目に入り、長田は指摘する。


「・・・銃刀法違反だな。」


紀野の表情は先程とはまるで違い、穏やかだった。


「『あちら側』を渡り歩くには必要なんだよ。護身用だ。」


「気持ちは分かるが、この場では没収する。」


「・・・仕方ないな。」


紀野は素直に応じて拳銃を取り、長田に手渡した。

カウンターの後ろに並ぶウイスキーボトルを手に取り、

問い掛ける。


「飲むか?」


「・・・いや、いい。」


「おねえさんは?」


「・・・私も結構です。」


紀野は綺麗に並んだグラスの棚からウイスキーグラスを取り出す。

カウンター下に設置された冷凍庫の扉を開け、

氷の入った袋を取り出した。


「・・・飲まなきゃやってられねぇよ。」


氷をアイストングでそのグラスに入れ、ウイスキーをダブルで入れる。

そして、それをぐっと飲み干す。


「俺たちはあの時一度死んだ。・・・いや、俺は二度目だな。

 俺の他に二人、生き残っちまった残骸がいる。」


“二人”という言葉に、長田と橋口は顔を見合わせた。

すかさず長田は紀野に問う。


「その二人は生きているのか?」


紀野はちら、と長田に目を向けて頷く。


「ああ。二人は兄弟だ。でも、弟の方は死にかけている。

 心臓が悪くてな。今入院している。

 兄貴の方は・・・」


そう言って、だんっ、と拳をカウンターに叩きつける。


「その弟の入院費用と治療費の為に命を懸けて生き抜いている。

 ・・・くそっ!なんてタイミングなんだよ。

 もっと早くお前に会えていたら・・・」


長田は、息をするのも忘れて問う。


「その兄貴の方は今どこにいる?」


「・・・もうここには来ない。

 『あちら側』の世界に、完全に身を置いちまった。」


「まさか・・・」


橋口は驚愕し、片手で口を押える。

紀野の言い分に心当たりがある様子だった。

長田は紀野が語るにつれて、目を鋭くさせていく。

そして、一番聞きたい質問を再び吐露する。


「紀野。なぜ俺の名前を聞いて話す気になった?

 誰から俺の名前を聞いた?」


紀野は躊躇う様子もなく告げた。


「・・・『佐川 陽一郎』。お前と同じ警察の人間だよ。」


聞きたかった名前を、

ようやく耳にできて長田は高揚する。


― 佐川さん!


「今その人はどこにいる!?」


「・・・俺も知らない。だが・・・」


紀野は、身に纏うVネックの白いシャツに

隠れていた銀細工のネックレスを引っ張り出す。

それはロケットペンダントだった。

そのロケット部分を開け、小さな何かを取り出した。


「もしも俺たちを尋ねてくる警察官がいたら、これを渡せと言われていた。

 名前は『長田 真』と聞いている。あんただろ?」


その小さな何かを、長田に差し出す紀野。

震えそうになる手を、必死で抑えながら長田はそれを受け取った。


「・・・これは・・・・・・」


「microSDですね。」


橋口がそれを見て呟く。

紀野はウイスキーボトルの栓を開け、二杯目をグラスに注いだ。


「・・・火事に遭ったその時、

 俺たちは施設の傍にある森で遊んでいたから奇跡的に助かった。

 急に爆発音が聞こえて・・・

 慌てて戻ると、施設は火の海になっていた。

 ・・・俺達はその有様をただ見ることしかできなかった。」


二杯目は一口だけ含んだ。

追憶に浸りながら、紀野は語り続ける。


「火の手が回る中、施設から出てきた男がいた。

 怪我と火傷でよろけながら。

 呆然と見ていた俺たちを見つけて、男はかなり驚いていたな・・・

 まさか難を逃れた俺たちがいるとは思わなかったのだろう。

 しばらく考え込んだ後に男は、


 《人が来る前にこの場所からすぐ離れろ。

  そして、ここで起きた火事の事を絶対に口にするな。

  メディアが何て報じようと、何も言うな。

  もしお前たちを尋ねてくる者がいたら、信用するな。

  隠し通せ。

  お前たちはここで死んだ事にするんだ。

  新たな道を生きろ。

  私の事は誰にも知らせるな。・・・いいな?》


 そう言った後、手帳から名刺を出して・・・

 名刺の裏に住所と名前、そしてあんたの名前を書いて俺たちに渡した。

 

  《ここに書いてある施設に行け。別の養護施設だ。

   お前たちを保護してくれるだろう。

   この名刺を見せれば大丈夫だ。》」


紀野が語る内容に、

長田は言いようのない違和感を覚える。

それは橋口も感じていた。


「・・・警部。」


橋口と目を見合わせた後、長田は頭を項垂れる。


― ・・・“遺体をすり替えた”。

 この推測は間違っていたのか?

 上官や捜査官は別の遺体を佐川さんとして改ざんいる。

 ・・・・・・


考え込む長田に、橋口が見計らって言葉を紡いだ。


「紀野さん。その名刺はまだありますか?」


その質問に、紀野は頷く。


「ここにはないが、保管している。

 間違いなく『佐川 陽一郎』と書かれていた。

 ・・・去り際にそいつは言った。

 

 《万が一、ここに書いた名前の

  『長田 真』という警察官が尋ねてきたら・・・

  その男は味方だ。信頼できる人間だと思え。

  そして・・・これを渡してほしい。

  この難を逃れたお前たちの強運に賭けてみたい。

  これとともに、この言葉をその男に伝えてくれ。


 『自分は身元を隠して捜査を続ける。これを解読してほしい。』》」


長田は掌にあるそのmicroSDを見つめる。


― ・・・これを俺に託して、佐川さんは・・・

 これは、紛れもない真相なのか。

 

 ・・・・・・そうか。


 上官や捜査官はこれを探していたのか。

 これを佐川さんに奪われ、行方を見つけられなくて焦った。

 別の遺体を使い、改ざんしたのか。

 それを『Lotus』に気づかれてしまい・・・【消された】。

 そう考えたら辻褄が合う。

 ・・・『Lotus』はこれを探しているのか。

 

 では、放火したのは誰か?

 なぜ『れんげ』を【消す】必要があったのか。

 

 ・・・一から考え直しだ。

 

 でも、佐川さんは生きている!

 会って話を聞かなくては。


「俺たちは『佐川 陽一郎』に感謝している。

 あのままだったら俺たちは路頭に迷うところだったし、

 殺されていたかもしれない。

 だから、これを必ず『長田 真』に渡そうと思った。

 ・・・危険だと思ったが、俺たちも俺たちなりに調べようとした。

 このまま何も知らず生きるのは、

 火事で亡くなった仲間を忘れるのと同じだ。

 ただ平穏に、幸せに生きる道なんて・・・

 俺たちには逆に荷が重かった。

 『あちら側』で情報を得ようと身を置いたんだが・・・

 何も掴めていない。

 ・・・教えてくれ。なぜ俺たちは狙われた?」


長田は目線を紀野に戻して言う。


「自分たちも捜査中だ。お前がこれを大事に持っていてくれたお陰で、

 道が開ける。深く感謝する。

 ・・・その唯一の、仲間の行方は分からないのか?」


紀野は顔を曇らせて頷く。


「・・・ああ。俺には止められなかった。

 でも、俺と同じだ。狙われた理由を追っている。

 ただ・・・『あちら側』での、身の置き方を間違えた。

 俺は請負人、そいつは『殺し屋』。

 『殺し』は金になるからと、迷わず選んだ。

 俺は内心戸惑ったよ・・・だからせめて、

 依頼を受ける奴等は死んで良い奴等ばかり選んだ。」


「死んで良い人間など、一人もいません。」


紀野の言い分に、橋口は強く否定する。


「命を脅かしていい理由なんて、存在しない。

 それはどんな理由であろうと。」


思いが籠った言葉を受けて、それに彼は何も反論できなかった。

二杯目のウイスキーを飲み干し、紀野は項垂れる。


「・・・そいつは大きい所に雇われたらしい。専属の『殺し屋』として。

 ・・・女の頼みとか何とか言っていたけど、

 本当のところは分からない。」


「大きい所・・・」


長田と橋口は顔を見合わせる。

互いの眼に灯る光。

頭の中に思い浮かんだ答えは一致していた。


「・・・紀野さん。microSDの中身を見ましたか?」


その問い掛けに、紀野は申し訳なさそうに答える。


「見ようとした。それは謝る。でも、見る事が出来なかった。」


「見る事が出来なかった?」


「強力なセキュリティロックがかけられている。

 暗号解読なんて出来ないからな・・・

 下手に触るとメモリーが消去される仕組みになっている。」


― ・・・“解読”。そういう事か。

 セキュリティロックの暗号解読。

 佐川さんはそれを俺に託したのか。

 ・・・この中に、真相があるのは間違いないだろう。



長田が手にした小さな記憶装置。

それは道を切り開く兆しだった。

託された真相の欠片。

それを解読する時間は、刻々と迫っている。



長田は紀野の所在と連絡先を把握し、

保管している名刺を受け取りに出向く約束を果たす。

身の安全と保護の為、内密に進める必要があった。



深夜。

長田と橋口はライブハウスから離れ、警視庁に戻る。

帰路の途中、二人は何も会話をせず互いに思いふけっていた。

車内に流れるラジオの音が、それを取り持つように流れている。

橋口が所定の駐車場に停車させると、長田はシートベルトを外す。


「今夜はご苦労様だった。

 ・・・頼みがあるんだが・・・

 俺は通信機器とかハイテクなものに疎くて・・・

 聞くところお前はそういう類いにかなり詳しいらしいな。

 セキュリティロックの暗号解読をお前にまかせたい。

 よろしく頼む。」


そう言って自分に例のmicroSDを手渡す長田に、

橋口は車内のラジオを消して目を向ける。

何の反応もせず自分を見つめ続ける橋口を、長田はただ見つめ返した。


「・・・・・・?」


「・・・・・・長田警部。」


「・・・どうした?」


瞳で訴えてくる彼女に、彼は尋ねる事しか出来なかった。

意を決したように、橋口は質問を投げつける。


「長田警部は独身ですよね?」


思わぬ変化球をまともに食らう。

その質問に、長田は素直に答える事しか出来なかった。


「・・・独身だが・・・」


「一人暮らしですか?」


「・・・ああ。」


「じゃあ、大丈夫ですね。」


「何が・・・だ?」


「今晩から長田警部の身柄を私の家に拘束します。」


「・・・はぁ??」


突拍子もない宣言に、長田は面食らった。

その様子にもお構いなしに橋口は言葉を並べる。


「その申し出、確かに私が引き受けます。

 ですから解読するまで傍で監視してください。

 長田警部は私を疑っていない。危険です。

 私が不正な行為をしないか見届けてください。」


「・・・ちょ、ちょっと落ち着け。意味が分からない。」


「言ったはずです。私は『あちら側』の住人だと。

 私が何者かも知らず、頼りにするのは危険すぎると言っているのです。

 私がもし『Lotus』の人間だったらどうしますか?

 そのSDを奪い、逃走しますよ。」


「・・・それはない。お前はそんな人間じゃない。」


「それです!常識では言われて嬉しい言葉ですが、

 今後その考えは捨ててください。

 紀野に対峙した時私は、はらはらしましたよ!

 そんな事じゃ、いつか命を落とします。

 命が幾つあっても足りない。

 本当に、危険な相手と向き合っている事を自覚してください。

 私を疑うくらいの気持ちがないと駄目です!

 大事な物をこうして、簡単に私に任せて差し出すなんて・・・」


microSDを長田の前に差し出し、

今までになく感情をぶつけてくる橋口に、

長田はしばらくフリーズする。

睨みつけるくらいに真っ直ぐに見据えてくる彼女を

しばらく見つめていると、次第に感情が込み上げる。

長田は噴き出して笑った。


「心配してくれたのか!俺の身を。

 ・・・本当に悪かった。すまない。そうだな。俺は自覚が足りない。」


そう言われて、はっ、と我に返り、

橋口は少し頬を紅潮させながら言い放つ。


「笑い事じゃありません!

 警部の身柄は確保します。決定事項です。」


「確保・・・俺は被疑者か?」


「これは佐川警部が長田警部に託した大事な物です。

 私はその橋渡しになれればいいと思っています。

 そして、警部と同じく対峙している仲間に繋げたい。

 私は『潜入屋』の役目として、これを解読します。

 それを見届けてください。」


彼はその真剣な彼女の主張に、目を逸らせなかった。

切れ長の目に浮かぶ、闇の光。

彼女の中に秘められている姿を、垣間見た気がした。

彼はその時、彼女が『何者か』を認識する。


「・・・『潜入屋』、か。

 “天意”だな。お前と出逢ったのは。」


向けられる眼差しと、声音に乗せられた言霊。

それを真っ直ぐ受け止めた瞬間、彼女の鼓動は大きく高鳴った。


「分かった。見届けさせてくれ。」


顔が紅潮するのを隠すように、彼女は彼から目を逸らす。

鼓動の音を聞かれるかと心配になり、慌てて言葉を発した。


「長田警部の車を自宅へ置きに行きましょう。

 それとともに身支度を済ませてください。」



                 *


翌朝。日曜日午前7時半頃。

曇天だった東京の空も、澄みきった青い彩りに染まっている。

この時間でも太陽はぎらぎらさせ、気温を上昇させていた。



ひしめき合うように建つ住宅街に、

一軒の新築デザイナーズマンションがある。

その2階の一角に、橋口 七海が住む一室があった。

間取りは1LDKで、リビングが14畳と広々としている。

部屋をあまり見渡さず、

長田は訪問してすぐにリビングにあるカウチソファーを見つけて、

そこで寝る事を要求した。

一気に睡魔と疲労が襲ったのだ。

それとともに、妙な安心感。

自分以外の者がいる所で寝るのはかなり久しぶりだった。

橋口はそれを悟り、特に何も言わず快諾する。

ソファーに座って足を伸ばし、横になると長田はすぐに寝落ちをした。

長いこと得られなかった、休息と熟睡。

心地よさを感じながら朝を迎える。



ザー・・・


水が流れる音が耳に届く。

その音に気づき、長田はゆっくりまぶたを上げた。

白いクロスが張られた清潔感溢れる天井が目に入り、

状況を把握する。


― ・・・・・・ああ・・・そうだった。

 ここは橋口の家だったな・・・


手で目を擦り、身体を伸ばした後

起き上がってリビングを見渡した。

長田のいる場所に近い窓のカーテンは完全に遮光せず、

自然に朝日の光が程よく漏れている。

インテリアも家具もシンプルで、清潔感あふれる空間。

逆に生活感がないようにも思える。

40型液晶テレビがカウチソファーと対面しているのを見て、

ソファーから優雅に鑑賞できる事を想像できた。


― ・・・綺麗なリビングだな・・・

 ・・・俺の部屋とは大違いだ。


お世辞にも綺麗とは言えない自宅の様子を思い比べて、

長田は息をついた。

ふと腹の辺りに掛けてあったタオルケットを見て、

ようやくこの部屋の住人の姿を気に掛ける。


「おはようございます。」


カウンターキッチンの流し台に姿を現す声の主。

その方向を見ると、カウンターキッチンに立つ橋口を捉えた。

七分袖の白いオープンカラーシャツが、

この清楚な部屋に溶け込んでいる。

耳に届いた水の音は、再びキッチンの流し台から聞こえてきた。


「・・・おはよう。」


挨拶の言葉を返すと、橋口は微笑んだ。


「ぐっすり眠れたみたいですね。

 ・・・さっぱりされたらどうですか?シャワーお使いください。

 その間に朝食を用意しておきます。」


長田はその返事を忘れて、キッチンに立つ橋口を見つめる。

表情も、口調も優しい。

いつも目にしている部下としての彼女とは違う姿。

ほんの一時だけ彼は現実を忘れた。


― 誰かに朝飯を作ってもらうなんて・・・何年ぶりだ?

 こうして、朝起きてすぐ挨拶してもらうとか・・・


「・・・警部?」


橋口は、動かない長田に気づいて呼び掛ける。

その呼び掛けで長田は我に返り、ソファーから慌てて立ち上がる。


「ああ、そうだな。さっぱりしてくる。」


ソファーの近くに置いていたレザーのショルダーバッグに手を伸ばす。

必要最小限のものを自宅からかき集め、詰め込んできた。

下着、シャツ、シェーバー・・・


「タオルは、洗面室に用意しているものを使ってくださいね。

 洗面室はリビングを出て左手に見えるドアの所です。」


考えている事が通じているかのように、言葉が掛けられる。


「ありがとう。」


素直にお礼を言って、長田は着替えとシェーバーを持って歩き出す。

その際に、リビングから繋がる唯一の部屋のドアが目に入った。

ドアの向こうは、橋口の部屋。

閉ざされて中は見えないが、

昨日寝落ちする前に長田はそれを確認していた。


― ・・・半ば橋口の強制だったが・・・

 俺の疲れた姿を見て、気を遣われたのかもしれない。

 却って悪いことをした。

 独身者を、女性である自分の家に招くのも勇気がいるだろう。


長田はリビングから出る前に、ふと橋口のいるキッチンに目を向けた。

掃除が行き届いたシンクと、綺麗に並んだ調味料。

長田の身長180㎝くらい高さのあるキッチンボード。

食器や調理器具が収納されているのを想像して、

長田は感心する。


― ・・・料理するんだな。


手際よく、トマトや胡瓜に包丁入れる橋口の姿を見つめる。

少しずつ彼女の生態が判明していくにつれて、

長田の中にある橋口像が書き加えられていく。


― ・・・いかんな。職業病が出てしまった。


自分の為に朝食を作ってくれる彼女を有難く思い、

長田はリビングを出た。

言われた通り、左手にドアが見える。

そのドアノブに手を掛け、

洗面室の中に入ってドアを閉めると、彼は欠伸をする。

ここも綺麗に整理整頓されていて、気持ちが良い。

最新モデルだろうか。

見かけたことがないドラム式洗濯機が設置してあるのを見て、

長田は小さく笑う。


― ・・・洗濯するのにこだわりがありそうだな。

 らしいというか・・・


洗面台の横にあるオープンラックの最上部に、

肌触りが良さそうなバスタオルとフェイスタオルが置かれている。

誘導されるように、手に持った物をそのラックに置いた。

その拍子に洗面台の鏡に映る自分の顔が目に入り、

彼はため息をつく。


― ・・・年取ったな。


一日経つと、口の周りと顎の辺りに生える髭。

それを手で触りながら思う。


― ・・・俺ももう37歳だしな・・・

 大人になってから、あっという間に時間が過ぎる。

 事件を追うようになってから、尚更だ。


電気シェーバー手に取り、電源オンにして髭を剃っていく。


― ・・・橋口は23歳だったな。

 ・・・相手はいないのだろうか。


ふと歯ブラシ立てに目を向けると、そこには一本しかない。


― ・・・相手がいたら、俺を泊めるわけがないよな。

 ・・・・・・俺は対象外・・・だろうな。うん。

 14歳も年が離れたオッサンを、相手にするわけがない。

 橋口には、そうだな・・・釣り合う男が山ほどいる。


髭を剃り終えて、シェーバーの電源を切る。

入れ替わりに、持参した歯ブラシと歯磨き粉を取って歯を磨き出す。


― ・・・若気の至りで彼女を作り、色恋沙汰を大して大事にせず

 何となく過ごし、何となく同棲して過ごし・・・

 気づいたら傍に彼女はいなかった。

 そんな時もあったな。

 どうしているかな、あいつ。

 もう別の相手ととっくに結婚して、幸せな家庭を築いているだろうな。

 ・・・急に思い出した。 


洗面台の蛇口レバーを上げると、シャワー状に水が出る。

用意してあったプラスチックのコップを使わず、

手を受け皿のようにしてその水を受け止め、口をゆすぐ。

ついでに軽く洗顔も済ませた。

フェイスタオルで水気を拭き取った後、

脱衣しようとカッターシャツの胸ポケットから警察手帳を取り出す。

それを広げると、記章と自分の顔が載った写真が目に入る。

写真の裏側に忍び込ませたものを取り出して、じっと見つめた。

1㎝くらいの黒く小さな精密機器。

掌に乗るそれを見つめて、長田は身を引き締める。


― 橋口はこれを俺に返した。


 《肌身離さず持っていてください。

  私に渡すのは解読する時だけ。いいですか?》


 ・・・あいつは若いのに、

 命を懸けた修羅場を潜り抜けてきたんだろうな。


 『信頼して全てを任せる』


 これに対して反論されたのは初めてだ。

 ・・・常識が通用しない相手。

 向き合っている相手は、そういう者たちだと教えられた。


 『信用はするが、信頼するな』


 ・・・無茶苦茶な理屈だが、

 『あちら側』で生きるには必要なのかもしれない。

 

microSDを警察手帳の中に挟み入れる。

それから彼は考え込む事を止め、

着ている物を脱いでバスルームに入っていった。



シャワーを浴びて着替えを済ませた後

リビングに戻ると、珈琲の良い香りが鼻孔をくすぐった。

白のケースメントカーテンも開けられ、

レースカーテンから朝日が程よく差し込んでいる。

その為、リビングはとても明るかった。

カウチソファーのすぐ側に木製のダイニングテーブルがある。

サイズは二人用で、木製の椅子が二脚対面して設置してあった。

その台の上に彩り良い朝食が並べられている。

フレッシュなレタスを、サラダボウルに敷き詰めたトマトと胡瓜のサラダ。

白身が綺麗に丸の形の目玉焼きと、カリカリに焼かれたベーコン。

大豆とひじきの胡麻和え。

少しきつね色にトーストした食パン。

そして何より目を引いたのが、具沢山のミネストローネ。

長田はしばらく、その輝かしい朝食を眺める。


「警部。お座りください。」


長田の様子に、橋口は笑いながら

手に持った二つのマグカップをダイニングテーブルに置く。


「・・・見事だな。」


「たいしたもの作っていませんよ。急でしたから。」


コーヒーメーカーから珈琲の入ったガラス容器を取り出して、

そのマグカップに注いでいく。


「・・・そうだ、橋口。その警部ってやつ、やめてくれないか?

 職務に就いていない所で言われるのは・・・ちょっとな。」


橋口は少し考えて、頷く。


「分かりました。・・・・・・長田さん・・・で構いませんか?」


そう言われて、長田は自然に笑みを浮かべる。


「ああ。それでいい。」


長田が手に持つ洗濯物を見て、橋口は何気なく尋ねる。


「それ、洗濯しますよ?」


「え?・・・いや、いやいやいや。これはいい。」


「遠慮なさらずに。」


「これは流石に頼めない。」


「解読は躊躇いなく頼むのに、ですか?」


「・・・それは、だな。」


皮肉を言われ、長田は苦笑する。

橋口は躊躇うことなく彼が持つ洗濯物に手を掛ける。


「おいっ」


「いいんです。洗濯は自動でやってくれますから手間かかりません。」


― ・・・そうじゃなくて!


言い返せずに口籠る。

洗濯物を持ってリビングを出る橋口を、黙って見送る。


― ・・・調子狂うな・・・


右手を後頭部に持っていきながら、

長田はシェーバーと歯磨きセットだけショルダーバッグに収める。

ふとカウチソファーの上に置いていた自分のスマホに目を向け、

手に取ると待受画面から切り替える。


― ・・・着信?


不在着信のマークが入っているのを確認し、電話番号の主を見る。

橋口はリビングに戻ってくると、その長田の姿を見て声を掛ける。


「そういえば、電話が鳴っていましたよ。」


「・・・とりあえず朝飯から済ませる。」


「すぐに掛けなくていいのですか?」


「ああ。終わってからでも大丈夫だ。」


スマホを再びソファーに置いて、

長田はダイニングテーブルに向かう。


― 『劉 玉玲』からの着信だ。

 こちらから電話しようと思っていた。

 このmicroSDの事もある。

 ・・・彼女には、今までの俺の見方と推測が正しくなかった事を

 伝えなくてはならない。



朝食は穏やかに過ぎていった。

特に何も会話をすることなく、

しかしそれが心地よく感じる空間。

リビングの明るさと充実な朝食がそれを演出していた。

珈琲を一滴残らず飲み干して、長田は手を合わせる。


「ごちそうさまでした。

 ・・・いや、本当に良い朝飯だった。ありがとう。」


「大袈裟ですね。」


そう言いながらも橋口は嬉しそうだった。


「特にミネストローネだな。最高に美味しかった。」


「・・・ふふ。今日が非番で良かったですね。

 きちんと食べておかないと体力が持ちませんし。」


「・・・ああ。そうだな。」


「片付ける間に電話をどうぞ。」


「せめて食器を流し台に持っていくよ。」


「構いません。大丈夫です。」


橋口は立ち上がり、てきぱきとダイニングテーブルの食器を集めて

流し台に持っていく。


「・・・じゃあ、お言葉に甘えて。」


「どうぞ。」


長田も腰を上げて、スマホが置かれているソファーに向かう。

スマホを手に取り、電源を入れて連絡先を検索する。

電話を掛けると、4回コール音が聞こえた後、応答があった。


《・・・もしもし。おはようございます。》


「おはようございます。」


《単刀直入に伝えます。長田警部。おめでとうございます。》


相手の不可解なお祝いの言葉に、長田は首を傾げる。


「・・・あの・・・何が、でしょうか?」


《ほっほっ・・・失礼、こちらの話です。》


「?・・・はぁ・・・」


《お忙しいとは思いますが、会うお時間を頂きたいと思いまして・・・》


まるで見計らったようなタイミングでの申し出に、

断る理由は存在しなかった。


「ちょうど、こちらから電話を差し上げようと思っていたところです。

 いつですか?」


《今日の午後2時頃はどうでしょう?》


「今日の午後2時・・・」


長田は少し考える。


― ・・・解読が順調にいけばいいが・・・

 会うなら、その時に佐川さんの消息を伝えるか。


「用事次第ですが・・・それでよければ。

 こちらで新たな動きがありましたので、

 それをお話ししようと思います。」


《その用事が済み次第で構いません。1日空いておりますので。》


「・・・分かりました。」


《ありがとうございます。それでは後程。》


通話は数分程で終わる。

長田は、すでに通話が切れたスマホを眺めて小さく息をつく。


― ・・・『劉 玉玲』はいつも不可解な言葉を口にする。

 未来を見通しているせいなのか・・・

 たまに会話にならない時がある。


「大丈夫ですよ。その時間に間に合わせます。」


流し台で食器を洗い終えた橋口が、長田の元に歩いてくる。


「聞こえていました。待ち合わせですよね?」


「・・・ああ。」


― 橋口に伝えるべきか。


長田は少し迷ったが、電話の相手を打ち明けた。


「橋口。今の電話の相手は、佐川さんの奥さんからだ。」


それを聞いて、橋口は表情を変える事なく頷いた。


「・・・はい。」


「事態が変わった事を伝えようと思う。

 佐川さんが生きているという事と、microSDの存在と。」


「・・・・・・」


「彼女は有力な協力者だ。

 幼児失踪事件の時から、ずっと一緒に『Lotus』を追っている。」


「・・・知っています。」


「・・・知っている?」


彼と同じく彼女も打ち明けるのに迷っていたが、

長田の打ち明けに後押しされて言葉を紡いでいく。


「彼女は知り合いです。そして、私は彼女の協力者。

 長田さんの身を案じるのは、その為でもあります。」


「・・・そうだったのか。」


「でもそれは、『橋口 七海』としてではなく・・・

 『あちら側』の人間としての繋がり。

 『Lotus』は今、

 『あちら側』にもその脅威をもたらそうとしています。

 ・・・長田さんに出逢い、今に至るのは偶然の産物です。

 それはご理解ください。」


長田は、真っ直ぐに橋口を見つめて頷いた。


「彼女の采配と、“天意”。それが偶然を必然に変える。

 彼女の力はそういうものだ。

 気づけば繋がりを持つ人間が集まっている。最善の形でな。

 ・・・長年の付き合いで、それがよく分かっている。

 気にするな。」


その意見を聞き、彼女は驚きの色を見せた。

自分が気にしていた部分をまるごと包み込んで許すような、

彼の見解。

それを目の当たりにし、安堵すると同時に

彼女の心の奥底でちくちくと痛みが生じた。

この痛みは何だろう?

彼女はその生まれて初めて感じる痛みに、苦しくなった。

そして目の前にいる人物は、

自分よりも遥かに大きい存在である事を理解する。


「・・・橋口?」


無言で見つめ返している彼女の様子に、彼は首を傾げる。

呼び掛けられ、橋口はその痛みを隠すように平静を装った。


「・・・洗濯物を干したら、始めます。」


「・・・ああ。よろしく頼む。」


「コーヒーのおかわり、ありますよ。」


「それもよろしく。」


「はい。」


橋口はキッチンに戻っていく。

長田はカウチソファーに座ると、

ソファーテーブルにスマホを置き、足を伸ばして背を預ける。


― ・・・ゆっくり日曜日を迎えるのは久しぶりだな。


ソファーテーブルに、珈琲を注いだマグカップが置かれる。

それを自然に手に取って、一口含む。


― 少しの時間だが・・・貴重な休息だ。


部屋の温度はエアコンで調整されている為、

まどろむには丁度良かった。

まぶたを閉じソファーの心地よさと日差しの優しさを感じながら、

彼はしばらく穏やかな空間に身を置いた。



「・・・・・・長田さん。準備が整いました。」


耳をくすぐるような、囁きの声。

優しく声を掛けられ、長田はまぶたを上げる。

すると、橋口の覗き込む顔がすぐ目に入り身体を起こした。

カウンターキッチンに置かれている、

ガラス製のデジタル時計は午前9時32分を示している。


― ・・・30分くらい寝ていたかな・・・


軽く背伸びをした後、長田はソファーから立ち上がる。


「よし。こちらも心の準備は出来ている。」


「それでは・・・こちらに。」


橋口はある部屋のドアの前に立つ。

それは彼女の部屋。

長田の中では、開かずの間として認識した場所だった。


「私の部屋は・・・普通じゃありません。

 『仕事』の時と、寝る時だけの部屋です。」


彼女はその部屋のドアを開ける。

普通のドアだったが、長田には開く様子が重く感じた。

飛び込んできた絵は、

長田が想像していた部屋とは全く一致しなかった。

精密機器が空間を埋めるように存在する。

彼の知識で確認できるものは、

部屋の中央に設置されたPCの24インチ液晶ディスプレイと、

パーツが丸見えになっているPCケースがスケルトンタイプの本体。

周辺機器とそのPCに繋がるルーター、ONUモデム

LANケーブルが、さらに左手に設置されたPCに繋がる。

そして中央PCの右手に置かれたノートパソコン。

中央PCは既に立ち上げられており、

ディスプレイ画面には数字の羅列が映し出されている。

部屋の隅っこに脚付きベッドかある以外、

生活感を連想するものが置かれていない。

非現実的な有り様に、長田は言葉を失う。


「ここが・・・私の居場所ですね。」


橋口はそう呟いてその部屋に足を踏み入れる。


「私以外の人間が立ち入るのは、初めてです。

 ・・・ここを見たからには責任取ってもらいますよ。」


責任とは?

疑問に思ったが、彼はあえて深く追求しなかった。

長田も橋口の後を追って部屋に入る。

部屋の中の空間は独特だった。

精密機器の熱と湿度を下げる為に稼働するエアコン。

唯一の窓は遮光カーテンで閉じられ、天井照明の明るさが頼りだった。

中央デスクトップPC前のチェアーに腰を下ろすと、彼女は深呼吸をする。

それが一種の儀式のように思えた。

橋口の表情が変わる。

その表情は、厳かで美しい。


「・・・長田さん。microSDをお願いします。」


穏やかに申し出る橋口の雰囲気を、

長田はその後ろ姿から感知する。

先程まで接していた彼女とは、別人のような厳かさを。

彼は無言で警察手帳からmicroSDを取り出す。

それを彼女は受け取ると、

右手の親指と人差し指で支えるように持つ。

その黒くて小さな精密機器を、射抜くようにじっと見つめた。


「・・・長田さん。」


「・・・どうした?」


「放火事件が遭ったのは、7年前でしたよね?」


「ああ。」


「・・・・・・」


「・・・なぜそれを訊く?」


「・・・とりあえず調べます。」


尋ねた答えが返ってこず、長田はもやもやしたまま行方を見守る。


「・・・あなたは何物なの?」


その代わりに、彼女はそれに語り掛けた。


橋口はデスクの引き出しを開け、

SDカードスロットキャップを取り出す。

それをカードリーダーに挿入し、彼女は画面に向かう。

そこからは、長田はただ傍観するしかなかった。

キーボードを打つ白く細い指。

ピアノを速弾きするように迷いなく動いた。

彼女の瞳は、画面に映し出される解析結果を漏れなく捉えていく。


― ・・・俺にはさっぱり分からないが・・・


橋口の様子を見て、疎い彼にもその凄さは伝わった。

彼女の潜入時間は、それから正午過ぎにまで及んだ。



朝食時で使ったダイニングテーブルの椅子を彼女の後方に置き、

それに腰を下ろして長田はその行方を見守っていた。

橋口は口を開くことなく、ずっとPCの画面と向き合っている。


― あれから数時間、画面に向かったままだ。


声を掛けようと何度も思ったが、

彼女の集中力を削ぐ事になりそうだったのでやめた。

後ろからその様子を、ただ目を逸らさず見守るしかできない。


ふと、小さく息が漏れた。


同時に、彼女はデスクチェアの背もたれに身体を預ける。

それが合図のように思えた。


「・・・少し休憩したらどうだ?」


長田は労うように、橋口に声を掛ける。

彼女は顔を彼の方に向けて小さく微笑む。


「はい。とりあえず暗号解読は出来ました。」


「もう出来たのか?」


「とりあえずは、ですね。

 ただ・・・中を見るのはもう少し時間がかかります。」


「・・・そうか。」


「長田さん。待ち合わせの場所は決まっていますか?」


「ああ。場所はいつも同じ所だ。

 ・・・時間は構わないと言ってくれているから大丈夫だ。」


「ここに呼んでもらえますか?」


「・・・え?」


「『彼女』にも、立ち会ってもらった方がいいと思います。」




彼が手にした真実の扉。

それが彼女の手によって開けられようとしていた。


点と点が結ばれ、線を描いて道を作り出していく。




            To be continued・・・









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