16.死ぬな
シオリに敗北した後は、本当に散々だった。治癒魔法はもちろんの事使えない。ので、出血を手で抑えて帰った。今掘り返せば焼け石に水だっただろう。
敗北は、今まで味わったこともないほどに苦かった。
今でも覚えてる。激痛で悶えてるヒビキを笑顔で見ていたあの顔を。力を持っていながら何も出来なかった過去の自分に、魔女達の無駄な存命に、
──終止符を打つ。
ヒビキの体はヒビキが命令するよりも先に動いていた。狙いはシオリの胸元に固定している。いや、正直どこでもいい。触れられさえすれば勝ちだ。
速度は十分。少なくとも人間が対応できる速度ではない。一瞬、その言葉では到底届かない。世界の解像度が極限まで高まる。滲む鉄臭さ、過去の屈辱が疲労困憊な体を動かす興奮剤になっていた。
剣先が、シオリに触れた──
呆気なく、簡単に、突き刺さった──
シオリの体が、仰け反った。血を吐いた。やっと反応できたみたいだ。取り巻きたちも今更反応できたのが横目で確認できる。当初の予定はかすり傷ならば神威でも使って無理矢理殺す、というものだった。ただ、剣から伝わる手応えがそれを否定する。
今更、周りの空気が爆発した。なんか赤いお手玉が投げられてきたり、ゴツゴツした尾が迫ってきたり。ただ遅い。世界の解像度が極限まで高まっているヒビキに取って、彼女らは泥濘にハマった鈍亀に過ぎない。
ヒビキは聖剣をシオリから抜き去る。そして、あと2人を殺すため、生還するため、ヒビキは再び剣を振った──
◇◇◇
目を覚ます。雲ひとつない青空。しんと静まり返った場所で、奴は目を覚ました。あれからどれほど時間が経ったのだろうか。手足の感覚は無くなっている。
英雄気取りとの戦闘にヴィザールは敗北した。幸い、アイツがヴィザールの性質を知らなかったが故に助かった。ただ、周りには誰もいない。血を分けてくれる存在がいない。ヴィザールはただ青空を眺めることしか出来なかった。ピリカとゼロともはぐれてしまった。ヴィザールは核を壊されない限り死ぬことはできない。ので、もしかすればここで永遠に生き続けるのかもしれない。それだけは嫌だ。
あのお方はもう居ない。孤独から解放してくれる人はこの場に居ない。声を上げても、どうせ戻ってくるのは英雄気取りのアイツだけだ。
「自害が出来ればどれほど楽でしょうか……」
そう口ずさんだ時、軽やかな足音が地を伝わってヴィザールに響いた。
ヴィザールは、僅かながら希望を抱いた。独り言つのために変形させた口を目玉の形に戻した。角度が変わる。地面が視界の半分を支配した。視界の端に映り込んだのは、埃一つない純白の裾か、あるいは全てを飲み込む純黒の影か。
英雄気取りのアイツとは、明らかに違う気配。
ヴィザールは、その正体を確認しようと意識を研ぎ澄ませた。だが、それは叶わず。ヴィザールが認識する前に、目を塞がれた。何も見えなくなった。これは絶望の延長線上の出来事なのか、救いの手なのか、ヴィザールは分かる術もなかった。
◇◇◇
聖剣を抜き去った後、ヒビキは命の終焉に似た何かを感じ取った。あれほど憎く、あれほど忌々しかった背中。それが今、ちょっと力を出しただけで呆気なく崩れ去った。
だが、感傷に浸っている暇はない。現在、ヒビキは道化師が展開した煙幕によって視界を遮られている。本来ならこんなもの無意味なのだが、疲労の関係上、無駄に能力を使うことが許されない。故に、どこから攻撃が来るか分からない。
どちらも重傷を負わせたはずなのだが、血が垂れる音が一切聞こえない。片方が治癒魔法を習得しているのならばかなり面倒臭い。
さっきの赤い手玉のせいで体がチクチク痛い。何となく爆発する所までは予想は出来たが、避けられるわけではない。
ヒビキは血痰を吐いた。体に異常が出始めている。視界の端がチカチカと明滅し、高まっていた解像度が、逆に情報のノイズとなって脳を締め付け始めた。
「クッソ……」
そう呟いた時、煙幕の向こう側から女の嘲笑が聞こえた。甲高い声だった。多分、道化師のアイツだろう。
「お疲れ♪ シオリちゃんは貰ってくよ〜☆」
霧の向こうで、何かが置かれる音がした。ヒビキは足を踏み出そうとするも、膝が裏切ったように崩れ落ちる。それと同時、空気が、引き絞られた。
煙幕の中で、何かが吸われた。風ではない。流れでもない。もっと原始的な、圧そのものが一点へ収束していく感覚。ヒビキの耳が、不自然な静寂を拾う。音が消えた。いや、音が奪われた。
次の瞬間、
爆ぜた。
鈍い閃光が煙の内側から膨れ上がり、微細な粉塵が一斉に燃え上がる。遅れて、叩きつけるような衝撃波がヒビキの全身を打ち抜いた。地面が抉れ、砕けた石片と燃え残りが弾丸のように飛び散る。これはただの爆発じゃない。充満していた粉塵、その一粒一粒が燃料となって連鎖的に燃え広がる──逃げ場のない、面で襲う破壊。
ヒビキはそれを真正面から受けた。ヒビキだって、言ってしまえば中身は人間だ。爆発を正面から受けて無事でいられるほど頑丈ではない。
5mほど吹っ飛んで、家壁に激突した。己の体を労らなかった結果が液体となり地を赤色に染めた。
粉塵爆発?……喋ってるつもりで息を吐く。
喉を焼く熱と肺から競り上げる鉄の味。極限まで高まっていた感覚は、今では木を蝕む白蟻のようにヒビキの身を毒していた。
頭部の外部損傷、胸部の内出血、骨折。どうしようもない。神威を使って治癒すればいい? いや、それは甘美な罠だ。治癒も疲労を加速させる。そんなもの知るか精神で使えば間違いなくお陀仏だ。
粉塵の幕が、冷たい朝風に吹かれてゆっくりと薄まっていく。もう、アイツらの気配は無くなっていた。追いかけなければ、立ち上がって首を撥ねなければ。だが、もう腕の感覚は冷たさや熱さを感じることすら出来ていなかった。
この手で、確かにシオリの胸を貫いた。あの傷がある限り、彼女は無事ではすまないはずだ。だが、それを見届けることすら今のヒビキには許されていなかった。
力を持っていながら、またしても何も守れず、終わらせることすら出来なかった自分に向けて嘲笑する。
魔女達はあの泥濘のような執念で何処かで生き長らえるのだろうか。
その時だった──
終戦の香りが未だ残ってるこの場所に、堅く、均一な速度の歩音が鳴った。大地そのものが意思を持って歩んでいるかのような、圧倒的な「重み」を伴った響き。
ヒビキは目蓋を押し上げる。
歩音の主はすぐに顔を出した。黒のハビットを着た聖女は粉塵の霧を割り、こちらへと歩を進める。聖女の謎パワーなのか、何処か神々しさがあった。
だが、その神々しい出で立ちとは裏腹に、彼女の動きは異様だった。
倒れ伏したヒビキには目もくれず、彼女はある一点の前でぴたりと足を止めた。そこは、先程までヒビキが追い詰めていた魔女が、聖剣に貫かれ、激しく吐血した場所。
石畳にべっとりと張り付いた、まだ熱を失っていない鮮烈な赤。何を血迷ったか聖女はその場に、祈りを捧げるかのように優雅に膝を突いた。
純黒の裾が、鮮やかな魔女の血を吸って一層深くなっていく。だが、彼女はそれを厭うどころか、愛おしい宝物を見つめるように目を細めた。震える指先が、その血溜まりに触れる。彼女は、掬い上げたその指を、まるで聖餐を授かるかのように恭しく口内へと滑り込ませた。
「……」
ヒビキの喉が、音もなく震えた。
彼女は舌の上でその味を確かめるように転がし、恍惚とした表情を浮かべる。
次の瞬間、彼女の瞳に異様な熱が灯った。
彼女は両手を器の形に丸め、石畳に残されたシオリの血を強引に汲み上げた。「呑む」という表現では生ぬるい。それは、渇きに狂った獣が泥水を啜るような、あるいは飢えた亡者が供物を貪るような、剥き出しの渇望。指の間から溢れ出す赤が、彼女の顎を、首筋を、そして純黒の胸元に深みを足していく。
ゴク、ゴク、と。
静まり返った路地裏に、彼女の喉が鳴る音だけが不気味に響き渡る。
「ッ……ハァ……」
息を荒らげ、恍惚とした目で赤く染った己の手を見つめ続ける聖女。もはや聖女と言っていいのかすら怪しかった。その女は音もなく立ち上がり、ヒビキの方をゴミを見るような目でツイっと一瞥し、スタスタと歩き去って行った。
あの女はなんなんだ、なんなんだったんだ。シオリの血は聖遺物のように貪り、ヒビキを路傍の虫としてすら扱わなかったあの女は。
もう思考回路が崩れてきている。ヒビキは多量出血による眠気に襲われている。鮮明だった世界は、視界の端からモノクロノイズに侵食されていった。
ヒビキに、英雄なんて称号は早すぎたのかもしれない。あの3人すら圧倒することが出来ないヒビキに、英雄は大きすぎたのかもしれない。神威の扱いすらマスターしてないヒビキに、英雄は無理なのかもしれない。
全てが混濁し、境界線が溶け、再結成し、またバラバラになる。ヒビキは、重い瞼を閉じた。底知れない闇に誘われたから。抗うことも諦めた。抗っても苦しいだけだ。
視界が、完全に閉じる。
ヒビキの意識は、底の見えない闇の淵へと、音もなく転落していった。




