35.ねぇ、忘れさせてあげようか?
「君を捨てるなんてどうせたいした男じゃない。そうだろう?」
「そんな、ちがうわ、」
「私なら君にこんな顔、させないのに」
そのまま彼の身体を抱き寄せた。
椅子に座ったままで彼の首元に腕を回して、やさしく、けれど力強く、抱きしめる。
先ほどの「どうして置いていったの」という台詞から推察するに、浮気をされたか、もしくは、自分が遊びの相手だったか。
この怨霊は傷つき、嘆いている。
傷心に付け込む術なら、心得があった。
本来であればじっくり時間をかけるべきだ。相手を悪く言うのではなく、まずは相手に寄り添う。あなたは悪くありませんよと伝えて、信頼関係を育むことから始めるべきだ。
だが――今回、私はあえて、その逆張りをする。
私の目的は、この怨霊を一時的に無力化することであり――成仏させてやることではないからだ。
視界の隅でサーシャ王子の目を両手で覆って目隠しをしている姫巫女様が見えた気がするが、黙殺した。
抱き寄せた彼の耳元で、そっと囁く。
「ねぇ、忘れさせてあげようか?」
「え、」
「女の子を慰めるのは得意なんだ」
くつくつと、喉を鳴らして笑う。
リチャードの耳の熱が、私にまで伝わってきた。
彼がわずかに身じろぎするが、離さない。
「誰、アンタ……あの人じゃ、ない、」
「誰でもいいさ」
リチャードの中の怨霊が、かすかに正気を取り戻したらしい。
「あの人」ではないのは当たり前だ。私が浮名を轟かせているのはあくまで国内の話であって――一部西の国にも輸出されたかもしれないが――北の国には手出ししていない。
北の国産の怨霊が恨んでいる「あの人」が、私であるはずがないのだ。
怨霊というくらいだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、この恨みはらさでおくべきか。それも分からなくなるくらいに恨みが増幅して、軟派男を手当たり次第に呪っていてもおかしくない。
だが、怨霊になるくらいの深い情念だ。男の方はさておき、女の方はきっと、一途なはず。
そこに付け込んでやれば何かが変わるだろうかと、半ば賭けだったが――どうやら私は賭けに勝ったらしい。
今目の前にいるのは――ただの、一途で初心な、女の子だ。
いや、見た目で言えば初心な男ではあるのだが。
外見にさえ目を瞑れば、軟派系たる私の、格好の獲物であることは、間違いない。
彼の身体を抱きすくめる腕を、さらにきつくして、身体を密着させる。耳を嬲る吐息に、びくりと彼の肩が跳ねた。
「あんな男のことなんかどうでもよくなるくらい……」
吐息をたっぷりと含ませて――色気のある掠れた声を意識しながら、告げる。
「すごいこと、しちゃおうよ」
「ぴっ、」
かくん、とリチャードの身体から力が抜けた。
そのままずるずるへたり込んだ彼の顔を確認すると、頬どころかうなじまで真っ赤にして目を回していた。
崩れ落ちる彼を支えてやりながら、ふぅと息をつく。やれやれ、うまくいったらしい。
学園でもウインク一つでご令嬢をダウンさせてきた。本気を出せば初心な女の子の一人や二人、朝飯前――いや、赤子の手を捻るようなものだ。
ここまで身に着けてきた軟派力を発揮できて大満足である。軟派系の面目躍如と言ったところか。
「エリザベス、貴女って……」
サーシャ王子への目隠しをやめて、姫巫女様がこちらに歩いてきた。
リチャードを見下ろして、そして私を見る。
「罪な男ね」
何故だろう。私の機転で危機を脱したというのに、女の敵を見るような目をしていた。
私は誰の敵でもない。私自身の味方なだけだ。
軽く肩を竦めて、姫巫女様の視線をやり過ごした。





