見える幻
いかに個人的に赴いたとは言え、不敬を問われることは避けなければならない。
「確かに、我が国が荒れているのは事実です。それは、そう。王位継承権を持つものが複数いれば、よく聞く話でもあります。そして、クラルヴァイン伯爵は、その争いに図らずも巻き込まれた形になります。その恩賞――なのです。彼は確かに王族を護る義務を果たしておりますが、ことが事だけに、公にはしなかった」
「しかし、やはり……」
「予兆もあり、しかも荒れている国。弟君の姪御を預けるに、抵抗があるの承知しています」
「でしたら、此度の話は」
「ご子息の婚約。ご成婚なさり、家督を譲れば、イレーネ嬢の立場どうなります?」
ぎくりと、ルトガーの体が硬直する。
一番気にしていたことに、ハインツは触れた。
そう、今はまだいい。ルトガーが当主のうちは、イレーネの平穏は護る事が出来る。しかし先々を考えると、いつまでもこのままではいけないことも理解している。
「それは重々分かっております」
「貴方の目に、イレーネ嬢はどう映っているのでしょうか? 噂どおりのご令嬢の姿、なのでしょうか?」
「いいえ、違います」
「ですが、周りはそうではない。――色眼鏡で見るものは、少なくない」
息子の婚約者。次期女主人は、どう思うか。
ただの行き遅れの令嬢とは、きっと見てくれないだろう。
彼女の父親は呪いには半信半疑だったが、彼女はどうだったのか。仮に呪いをただの噂話と見ていても、適齢期の女が屋敷に残るのを嫌煙するはずだ。
己の主人とよからぬ関係を持っていないかと、邪推する可能性はあるのだから。
「私は、オストヴァルト殿の言葉、否定することができません」
――噂を前提条件として見る者はいる。
「ブランケンハイム殿。貴方は、イレーネ嬢に、誰を重ねているのですか?」
「――っ!?」
そんなことはない。ルトガーは確かにイレーネを、イレーネとして見ている。
――兄上。
「そんなことは……」
あるはずがない。ルトガーはそう続けることが出来なかった。
「イレーネ嬢は、弟君のご息女です」
どくり、と心臓が大きな音を立てて跳ねる。
先に逝ってしまった弟。不慮の事故、不幸な出来事。どんな言葉で言い表せばいいのか。残された歳若い娘。弟の娘。姪としてルトガー自身も可愛がっていた。
妻も、息子も、あの事件からイレーネへの対応が変わってしまった。
いいや。――一番変わってしまったのは、きっと。
自分自身――なのだ。
ルトガーは弟が羨ましかった。長兄として家を継ぐ自分とは違い、自由を許された弟が。だが同時に、弟に、自由に憧れる自分の気持ちを重ねていた。
失敗をすれば怒り、何かを成せば共に喜ぶ。
――兄上、見てください! 私の娘です!
「残された者が背負うべきものは、一体なんですか?」
「それは――」
けして広くはない室内だ。視界の片隅に、雨の庭が入る。その先の離れが見える。
――では、兄上の代わりに、立派にお役目を務めてきます。
熱で朦朧とした意識の中で、いつものように笑う弟を見た。心配するなというように。
――せっかくなので、イレーネも連れて行く事にしたのです。
まったく、遊びじゃないんだぞ。と、ルトガーは苦笑とも呻きとも取れない声で呟いた。
それが弟と交わした、最期の言葉だった。
――どうして、兄上ではなかったのですか?
視界の、雨に煙る庭の片隅に――何か、いる。
いや、庭ではない。その先の離れ、二階の窓。
気のせい、いいや、違う、見間違い。
いる、そこに、確かに、はっきりと。
そんなわけが、だが、そこに、いる。
二階の、窓の向こうに、弟が、いる。
「弟はきっと、私を恨んでいるのでしょうね」
「死者が何を思っているのか、生者の私たちには分かりかねます」
急に年老いた表情を醸し出すルトガーに、ハインツの言葉はにべもなかった。
だが、紛れもない事実でもある。
弟は最期のその瞬間に、何を思っていたのだろうか。家族思いの弟のことだ、きっと馬車の中に残った妻子の身を案じたはずだ。
――伯父様。
――どうして、私だけ生き残ってしまったのかしら……。
心を何処かに忘れてしまった姪の姿に、その時ルトガーは言葉がでてこなかった。
滅多な事を言うものではないよ。イレーネ、お前が生きているだけでも、安心したんだ。お前のせいではないのだ、あの野盗が悪いのだ。
では、もし、あの馬車に乗っていなければ?
弟は自分の代わりに、あの日、あの時、あの場所を通ったのだ。
だから今度は自分が、弟の代わりにイレーネを護らなければならないのだ。
安心しなさい。ちゃんと善き人を見つけてくるから。弟の代わりに、探さなくては。華やかでも、武功がなくても良い。ただただ、善良であってほしいと。イレーネを、きちんと見てくれる人を。
ルトガーは離れの二階に目をやる。灯りとりと換気のための細長い窓。その向こうに、うつろな表情の弟が、じっと立っている。
もどかしげに動く唇が、音を出さずに言葉を紡いだ。
――兄上が死ねばよかったのに。
ルトガーは口の中で悲鳴をかみ殺した。
「ブランケンハイム殿、どうなさいました?」
強ばる表情で外の一点を見つめるルトガーに、怪訝な顔でハイツンが問う。そして同じように、ルトガーの視線の先に何があるのかと顔を向けた。
庭の向こう。小さな離れ。その二階の細長い窓。
そこに、そこに、弟が。
やはり弟は恨んでいるのだ。あの日、仕事に行けなくなった自分を。
「……ああ、あそこに居られるのが、イレーネ嬢でしょうか?」
ハインツがルトガーと同じ場所に視線を向けながら言った。
途端、雨に曇った視線がはっきりとした。
つい一瞬前まで弟がいた場所にイレーネがいた。当然のことながら視線はこちらに向いていない。首元まで覆うレースの服。軽く束ねられたブルネットの髪。視線は下へと向いている。そうだ、この時間は確か、読書か、最近は刺繍の他にレースを編んでいるはずだ。
ルトガーは、イレーネに弟を重ねていたのだと、このとき気が付いた。
イレーネへ優しく接するのは、弟への贖罪なのだ。罪は償わなければならないのだから。
「は、はい。姪の、イレーネです」
「イレーネ嬢に、この縁談の話はしておいでなのでしょうか?」
罪は、いつ、許されるのだろうか。
そもそも弟は既に死んでいるのだ。いったいどうして許しがえられると言うのか。
「この縁談の話が来たときに、クラルヴァイン伯爵の状況のことも、手紙に書いてありました事を伝えています」
「……その時、イレーネ嬢はなんと? やはり抵抗がある様子でしたか?」
僅かに、身を乗り出すようにハインツが訊ねる。
「驚いていましたが、多分、クラルヴァイン伯爵の容姿のことではなく、自分に縁談が来たことだと思います。ただ――」
「ただ?」
ルトガーは、縁談の話を告げたときのイレーネを思い出す。あれは、何故自分に来たのかという純粋な驚きだった。
「イレーネは、自分の噂を知って、それでも相手方が平気でいられるのかと、心配しておりました。もし、それを気にしない殿方なら、と」
――邪魔だから私の娘を追い出すのかい? 兄上。
ルトガーは震える手を隠すように強く握り締める。
違う、違うのだ。私はイレーネの幸せを思っている。
許してくれ、弟よ。
それは何にたいしての謝罪だったのか。
すまない――。
ただ、イレーネの安寧を願ったのは本心だ。
お前は、私の弟であって、イレーネではないだろう?
罰を与える事が出来るのは私だけだ。罰を受け入れ、罪を償うのは私の役目だ。
ルトガーは深く呼吸をし、離れを見た。細長い窓に見えるのは、イレーネだけ。もう、弟の姿はない。
「イレーネに、何か伝えなければ成らないことはありますか?」
「もしよろしければ、彼女に会うことは可能ですか? やはりこういった事は直接に確認をとりたいのです。未婚の令嬢に合うのは、礼儀としてよくない事は分かっております」
「いえ、事情が事情ですので、大丈夫です。イレーネを呼んできましょう」
「ご理解、感謝いたします」
ルトガーは控えていたメイドに、イレーネを呼ぶように声をかける。
「ここで確認をして、イレーネ嬢がこの縁談を拒まなければ――このまま話を進めてよろしいですね? ブランケンハイム殿」
ルトガーは無言で頷く。
いいだろう、弟よ。常々お前は言っていただろう、そこら辺にいる男に嫁にはやらないと。容姿は傷を負ったらしいが、元近衛の伯爵だ。イレーネの噂を気にしない人物でもある。
部屋の片隅に、弟は立っていた。
ルトガーの中にある罪の象徴。
――私が悪いのだ、許してくれとはいわない、全て、全て私のせいだ。
静かに、イレーネが室内へと入ってくる。
急いではいたのだろうが、うっすらと化粧を施し、髪は直してあった。スカートを摘み、腰を落とした礼をする。
背筋を伸ばし真っ直ぐにこちらへ視線を向けた。そこに立っていたのは、弟ではなく、確かにイレーネであるとルトガーは強く意識する。
「オストヴァルト殿、彼女が私の姪、イレーネ・ブランケンハイムです」
わずかに声が震える。
背筋を走る寒気は弟のものか、それともイレーネのものか。
目に見えぬ亡霊の気配に、ルトガーは一人慄いた。
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