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その花 第七章 : 葬天の刻 10



「――それじゃあ、わたしは先に二人のところに行ってるから」



 しばらくして、泣き止んだ映美に花が声をかけた。


「……ごめんね、ハナミー。あたしも顔を洗ったらすぐに行くから」


 映美もすぐに立ち上がり、駐車場近くの休憩所に向かっていく。花は映美の背中を見送ってから、公園の奥に足を向けた。そしてそのまま、どこまでも続く石畳の道をゆっくり進む。すると不意に潮風がふわりと漂った。すれ違う人たちの中にネスクガードの制服姿がちらほらと増えてきた。


 花はネスクガードの殉職者たちが眠る区画にまっすぐ向かう。そして、無数の花束で囲まれたネームプレートの前で足を止めた。そこが久能瀬衣の墓だった。


「また来たわよ。相変わらず人気者ね」


 花は久能の前に膝をつき、花束と祈りを捧げる。


 ごめんなさい。本当にごめんなさい――。あの日から、花は毎日謝っていた。そして毎日感謝していた。ありがとう。助けてくれて、本当にありがとう――。


 心から、心を込めて、久能の心に語りかける。どんな時でも自分を飾らず、どこまでもまっすぐに生きていた久能の姿を思い浮かべ、花は静かに涙を流す――。


「……もう一度、一緒にモーニングコーヒーを飲みたかったね」


 花は久能の名前を優しくなでて、微笑んだ。


 それからゆっくり立ち上がると、近くに一人の男が立っていた。黒いスーツに身を包んだ法条牧夫だ。法条は無言で花にハンカチを渡し、持っていた花束を久能に捧げる。そしてこうべを垂れて、黙祷した。



「――さて、飽海さん。少しよろしいですか」



 しばらくして、顔を上げた法条が花に言った。


 花は「はい」と言葉を返し、歩き始めた法条の背中についていく。


「調子の方はいかがですか」


 潮風の吹く方へと向かう法条が花に尋ねた。花は法条の隣を歩きながら静かに答える。


「残念ながら、元気です」


「そうですか」


 法条は淡々と言って、口を閉ざす。そして広い海が見える高台で足を止め、世界を見渡しながら再び花に問いかける。


「……あれからもうじき二か月になります。そろそろ君にも働いていただこうと思うのですが、よろしいですか」


「もちろんです」


 花も青い海を眺めながら口を開く。


「わたしにできることなら、どんな仕事でもするつもりです」


「そうですか。それでは君には、一番汚い仕事をお願いしましょう」


 汚い仕事? 花はわずかに首をかしげた。


「飽海さんは日本の総人口と、ネスクの人口はご存知ですか?」


「はい。日本の人口はおよそ一億人で、ネスクの人口は289万人と聞いています」


「そうです。そして日本人の半数は貧困にあえぎ、四分の一は貯蓄がゼロの生活破綻者です。この意味は分かりますか?」


 意味……? 花は思わず眉を寄せた。法条が何を言いたいのかよくわからない。たしかに現在の日本は貧困率50パーセントの階級社会に突入しているが、それは周知の事実だ。別に真新しい情報では――いや、ちょっと待って。


「四分の一が、生活破綻者……?」


 花は険しい顔をさらにしかめた。


 その情報は知っていたし、自分の口から砂理に説明したことすらある。だから、今の今まで気づかなかった方がおかしいのだが、『その事実』と『今の状況』は、どう考えても――。


「つじつまが合わない――。そう思いませんか?」


 法条が彼方を見つめたままポツリと言った。


「日本人の四分の一に当たるおよそ2500万人は、まともな生活ができていません。そのうちの520万世帯、900万人は生活保護で糊口ここうをしのいでいます。そして残りの1600万人は、同居家族の被扶養者か、ホームレスとなっています」


 そうだ。たしかにそういうデータがあることは知っている。しかし、だからこそわからない。貯金もなく、生活保護も受けていない人間が1600万人もいるのに、どうしてネスクの人口は、たったの289万人なのか……。


「もしかして……」


 花はハッとして法条を見た。


「どうやら気づいたようですね――」


 法条は淡々とした表情で花を見つめながら言葉を続ける。


「ネスクが特別行政区として認定されてからおよそ二十年――。その間に、ネスクに逃げ込んできた人の数は約1000万人です。……さて飽海さん。ここからが本題です。大雑把に言って、ネスクの人口が289万人なら、残りの711万人はどこに消えてしまったと思いますか?」


「ま……まさか……」


 花は愕然と目を見開いた。この状況で思い当たる『単語』は一つしかない。



「メンタルケア、ですか……?」



「正解です」


 法条は再び海に目を向ける。


「これは一部の人間しか知らないことですが、メンタルケアには『通常』と『軽度』の二種類があります」


「それは美東さんから伺っております。大山地区で暴力事件を起こした難民がいたら、『軽度』のメンタルケアにするようにとの指示があり、30人ほど施設に送りましたので」


「それは正しい判断です」


 法条は感情のない声で淡々と言う。


「もうお分かりだと思いますが、ネスクに逃げてきた人間のほとんどは『軽度』のメンタルケア処分となるのです」


「処分……?」


「ええ、処分です。移住審査では社会適応性と精神分析を念入りにおこないますが、およそ八割が反社会的な人間だからです」


「つまり、その八割が『軽度』のメンタルケア処分となり、残りの二割が『通常』のメンタルケアを受けるということですか?」


「そういうことです。そして『軽度』のメンタルケア処分になった人間は、ネスクの住民にはなれません。彼らは日本の人口データの『数字』として残るだけで、外の世界からも、ネスクからも完全に消え去ることになるのです」


 完全に消える――!?


 花は小声で呟き、唾を呑み込んだ。


「それでは、『軽度』という意味はまさか……」


「そうです。命が軽いという意味です」


 法条は重々しくうなずいた。


 その瞬間、花はネスクのすべてを理解した。


 なぜ巨大な壁で隠すのか。なぜ徹底的に情報を隠すのか。なぜ日本人しか受け入れないのか。そしてなぜ、二度と外の世界に出ることができないのか――。


「つまりネスクは、生きるか死ぬかの限界線デッドラインだったのですね……」


「そういうことです」


 花は青い空に顔を向けて、目を閉じた。


 ダグラス・テイラーは言っていた。ネスクは住民を騙して兵器を開発させている。だから巨大な壁でネスクを覆い、情報を封鎖しているのだ――と。


 花はその話を聞いた時、信じたくないと思う一方で、心の奥底では納得していた。知らないうちに人殺しの道具を作らされていたことにはショックを受けたが、よくよく考えるとそれは大した問題ではなかったからだ。なぜならば、それで多くの人が幸せに生活しているからだ。289万もの人々が安心して生きているからだ。


 だがしかし――。


 その足下に700万人以上もの命が埋まっているとしたら、そう簡単な話では済まされない。自分は絶望に涙を流しながらネスクに逃げてきた。そしてようやく人並みの生活を手に入れたが、それは本当に運が良かっただけだったのだ。自分が安穏と暮らす一方、自分の知らないところで多くの人が処分されていたのだ。貧乏に疲れ果て、わらにもすがる思いで逃げてきた多くの人たちが、涙を流したまま消されてしまっていたのだ。そんな事実、そう簡単に飲み込めるはずがない――。


 ネスクは日本国政府から、『国家再生特別行政区』の指定を受けている。つまり政府の言う『再生』とは、社会不適合者を処分して、社会の負担を取り除くことだったのだ。ネスクとはその『処分場』であると同時に、まだ使えそうな人間を拾い上げて働かせる『リサイクルセンター』だったということだ。


 ああ……まったく……。なんという――。


「ひどい話ですね……」


 花は呆れ果てた声を漏らした。しかしそれはネスクに対する批判ではなく、自分に対する落胆の言葉だった。


「……わたしは誰かに助けてほしいと思っていた。だけど誰も助けてくれなかった。それで仕方なくネスクに逃げてきたのに、結局わたしも、誰かを見捨てて生きていたわけね……」


「それが人間です」


 法条は淡々と言い切った。


「……法条さん。このことは、セイも知っていたんですか?」


「答えるまでもありません」


 そりゃそうよね――。花は小さく息を吐き出した。メンタルケアの対象者はネスクガードが連行することになっている。つまり、ネスクガードの総司令が処分内容を知らないなんて、そんなことがあるはずがない。


「幻滅しましたか?」


 ふと法条が訊いてきた。それがネスクと久能のどちらに対する意味なのか、花には考えるまでもなくわかっている。


「……わたしは最初から幻想なんか抱いていません。食べる物にも困る厳しい生活を一度でも経験したら、そんな甘い言葉なんか出てきません」


「では、ネスクの真実を知って、君はどう思いましたか?」


「そうですね……。結局、この世に天国はないんだな――と思いました」


「私はそうは思いません」


 ……え? 花は軽く呆気に取られて法条を見た。


「誰もが幸せに暮らせる場所なんてありません。なぜなら、悪人が幸せになれる場所というのは、普通の人間にとっては地獄だからです。それは君も目にしたはずです」


(それはたしかにそのとおりだ……)


 花は大山地区で目の当たりにした蛮行を思い出し、思わず顔を曇らせた。


「つまり、こういうことです。人間一人ひとりのパーソナリティーが死んだあとも魂となって残るのならば、仮にあの世というものがあったとしても、そこは天国なんかではありません。ただの混沌です。……ですが、ネスクは違います」


 法条は花をまっすぐ見つめながら言葉を続ける。


「ネスクに悪人ははいれません。ネスクに入ったあとに心が腐った人間は排除します。そうすることで、誰もが安心して暮らせる社会を維持しているのです。つまり、君がいま立っている場所こそが天国なのです」


「……そうですか。だとしたら、天国って悲しい場所なんですね」


「つけ上がらないでください」


 法条は花から目を逸らして淡々と言う。


「ネスクでは今この瞬間も、289万人が幸せに生きています。たった一人の人間が、その場限りのちっぽけな感情で世界を決めつけるなんて、おこがましいにもほどがあります。ここは私の弟が命を懸けて守った世界です。それを否定することだけは許しません」


 その言葉に、花は何も言えなかった。言葉が出てこなかった。法条は怒っているのではない。花を責めているのではない。ただひたすら、久能の死をいたんでいるのだ――。


 それが言葉の端々から伝わってくる。低い声から、悲しみをたたえた瞳から、痛いほど伝わってくる。だから花も法条から目を逸らし、そっと息を吐き出した。


「……話を元に戻します」


 少しして、再び法条が口を開く。


「飽海さん。先ほどお話ししたとおり、君には一番汚い仕事をしてもらおうと思っています。ですので、できるかできないか、今この場で答えてください」


「答え、ですか……」


 呟きながら、花は後ろを振り返った。遠くの広場には無数のネームプレートが並んでいる。青い空の下、多くの献花に囲まれた人たちが安らかに眠っている。


 花は自分が歩いてきた道をまっすぐ見つめた。そして彼方の人々に思いを馳せた。彼らがどのように生きていたのかはわからない。しかし、どのように見送られたのかはよくわかる。だって、花を手向ける人が、こんなにもいるのだから――。


 結局、すべての人間を救うことはできないと、今回の件でよくわかった。しかし、だからといって誰も助けないというのは間違っている。その二つのせめぎ合いの中で、ネスクというシステムは生み出されたのだ。


 つまりネスクというのは、人生の落伍者たちが最後に行きつくデッドラインであると同時に、理想と現実の狭間に生まれた喜びの地――エデンだったのだ。


 そして久能瀬衣も、桐島砂理も、田川篤志も、自らの意志でそれぞれの道を定め、喜びの天国で散っていった。


 だったら、わたしの道は、もうとっくに決まっている――。



「法条さん」



 花は法条をまっすぐ見つめ、答えを告げる。


 そして再び、歩き出した。




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