その花 第四章 : 天開の刻 8
花が難民支援室で働くようになってから、二週間後の八月二十日、金曜日――。
「た……ただいまぁ……ゲプ……」
花は口元を手で押さえながら、難民支援室のオフィスにフラフラと戻ってきた。時刻は午後の一時過ぎ――。一心不乱にキーボードを操作していた田川と、のんびりとハーブティーをすすりながら伝票データをチェックしていた映美が、すぐに顔を上げて花を見る。
「お疲れ様です、飽海さん」
「おかえりハナミー。どしたの? 顔がちょっと悪いけど」
「顔じゃなくて顔色でしょ……」
花は自分の椅子に座り、ハンドタオルで顔と首の汗を拭いた。
「アーメドさんのところで荷物の受け渡しに立ち合ってきたんだけど、本気で死ぬかと思ったわ……」
「アーメドさんって、あのスキンヘッドのゴツイ黒人さんでしょ?」
映美は冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いで花に手渡す。
「たしか、ラクダを一万頭寄こせって、むちゃ振りした人だよね」
「そう。ウルビランドの代表ね。あの人、生きたラクダが無理なら肉を持ってこいっていうから、オーストラリアから届いたばかりのラクダ肉を渡してきたの」
「へぇ~。あっちの人って、ラクダ食べるんだ。おいしいのかな?」
「まずかった……」
花は思わず身震いして、首を左右に振った。
「え? ハナミー、食べたことあるの?」
「うん。ついさっきね。ほとんど無理やりラクダのステーキをご馳走されたんだけど、あれ、けっこうアブラがすごいのよ……」
「でも向こうの人には、それがご馳走なんでしょ?」
「そうみたい」
花はうなずき、麦茶をあおる。
「まあ、アーメドさんの家族もみんな喜んで食べていたから、お国柄ってヤツね。しかも奥さん以外はみんなゴツイ息子さんばかりだから、食べる量もハンパないの」
そういえば――と田川が口を挟む。
「あちらの人は宗教の関係で、口にできる肉はニワトリとラクダがメインらしいですね」
「そうなんですよ。しかも宗教儀式に従って処理されたお肉じゃないと食用にできないから、調達するのも一苦労なんです」
花は麦茶を飲み干し、息を吐いた。
「まあ、それで喜んでもらえるのなら、いくらでも頑張りますけどね。……それでエミシー。ジャンビーアの方は準備できた?」
「ああ、入国審査で没収した短剣ね」
映美はキーボードを操作して、画面に表示された伝票に目を向ける。
「いま最終確認してたんだけど、どうやら全部そろってるみたい。予定どおりに配達できるって」
「そう、ありがと。……あ、それと、サッカーボールがまだ届いていないみたいなんだけど、どこで止まってるか追跡できる?」
「サッカーボール? それなら中国からの輸入品を、ウルビランド、ヨビアン、イギタリアの難民代表本部宛てに十ダースずつ配達したはずだけど」
映美は口と同時に手を動かし、素早く伝票を検索する。
「うん。配達済みだね。受け取りのサインもあるし」
「あら、そう。おかしいわね」
「どったの?」
「実は、子どもたちがボロボロのボールでサッカーをしてたのよ」
「じゃあ、まだ配ってないんじゃない?」
「そうかもね。最近はいろんな国から大量の支援物資が届いているから、まださばけていないのかも。それじゃあとりあえず、また行ってくるね」
「今度はヨビアンのハッサンさん?」
「うん。あの人はアーメドさんより愛想がいいから、少しは気が楽だし」
「でもさぁ、よく短剣の所持なんて許可が下りたよねぇ」
映美は花を見ながら首をかしげた。
「刃物なんて、危なくない?」
「まあ、ジャンビーアを身に着けるのはヨビアンの伝統だから仕方ないでしょ。それに刃物といっても、ほとんどは切れ味を鈍くしてある飾りらしいから」
「それでもここはネスクなんだから、外国の伝統よりネスクのルールを守らせるべきだと思うけどね、あたしは」
「たしかにネスクでは武器の携行は許されないけど、ジャンビーアの所持については代表議会の許可が下りたことだし……」
「でも、それってハナミーが美東さんに無理やりゴリ押しさせたんでしょ? それで問題が起きたらハナミーの責任にされちゃうじゃん。いくら相手が外国人だからって、何でもかんでも融通を利かせるのは、日本人の悪いクセだと思うけど」
「それはまあ、そうかもしれないけど……」
花は思わず言葉に詰まった。映美の言いたいことはわかるし、反論するつもりはない。しかし、難民たちがネスクに滞在できるのはたったの一年間のみなのだ。だったらせめてその間だけは、少しでも快適に過ごせる環境を提供してあげてもいいのではないだろうか――と考えてしまう。
なぜならば、彼らは戦争難民だからだ。国家対国家という巨大な暴力に巻き込まれた被害者だ。生まれ育った土地で生きていくことができなくなり、命からがら逃げのびてきた力のない人々だ。
映美の理屈はよくわかる。ここは日本だ。そしてネスクだ。だから外国人にも日本とネスクのルールを守らせるのは当然だ。しかし、突如として自分たちの生活を理不尽に奪われた人々から、彼らの生活様式まで取り上げるのは非常に心苦しい。
そう思ってしまうのはただのセンチメンタルで、論理的とはとても言えない。それはじゅうぶんにわかっている。だけど仕方がないじゃない。だって、心がそう感じてしまうんだから――。花はそう思いながら、そっと顔を曇らせた。
「まあまあ、椎菜さん。そんなに飽海さんを責めないでください」
不意に田川が映美を見つめて微笑んだ。
「私もネスク内での武器の所持には反対です。ですが、難民の方々に不満を持たせないようにすることは、リスクマネジメントとしては非常に有効な方法です。代表議会もその点を考慮して、許可を出したのでしょう」
「だから、ハナミーだけの責任にはならないってこと?」
「はい。セキュリティーに関してはネスクガードが目を光らせていますから、滅多なことは起きないでしょうし」
「だといいけどねぇ」
映美は軽く唇を尖らせて、再び伝票データのチェックに戻る。
(ありがとね、田川さん)
花は無言で頭を下げた。田川は軽く片手を上げて微笑んだ。
「あ、そういやハナミー」
不意に映美がクルリと振り返った。
「久能さんとはいつ結婚すんの?」
その瞬間、花は椅子からずり落ちた。
「け……結婚って、わたしたちは、まだそんな……」
「でも久能さんって、毎日ハナミーの家に泊まってんでしょ? だったらさっさと結婚しちゃった方が、いろいろスッキリするんじゃない?」
「い……いろいろってなによ」
「子どもとか」
花は再びずり落ちた。
「な、なんで子どもがいきなり出てくんのよ」
「だって、子どもさえ作っちゃえば、そうそう滅多なことでは捨てられないでしょ。そしたら心が落ち着いて、スッキリしない?」
「スッキリって、そういうことか……」
花は呆れ顔で息を吐いた。
だけどまあ、映美の言い分も少しは理解できる。この二週間、久能はたしかにほぼ毎日、花のマンションに泊まりに来ていた。しかし、ネスクガードという仕事の性質上、緊急の呼び出しは頻繁にあるし、泊まりに来ない日も当然ある。
そしてそんな時、『仕事だから仕方がない』と思う一方、花はどうしても寂しさを感じていた。そして同時に、『他の女性と会っていたらイヤだなぁ』――とも考えてしまい、軽い自己嫌悪に陥っていた。
(わたしって、けっこう嫉妬深いオンナだったんだ……)
最近の花は一人で寝る時、ベッドの広さを持て余しながらそんなことを考えていた。
「ハナミーもさ、もう若くないんだから、相手がいるうちにさっさと結婚しちゃった方がいいんじゃない?」
「う……うるさいわね。わたしはまだ二十六歳なんだから、そんなに焦らなくても平気よ」
「それはハナミーが思考停止してるだけじゃん。生まれてくる子どもからしてみれば、親は若い方がいいに決まってるんだから」
(うぐぐ……。それはたしかに、そうかも知れない……)
花は思わず顔をしかめた。その発想はまったくなかったが、もしも子どもを産むとしたら、たしかに早い方がいいのかもしれない。そうすれば、少しでも長く子どもと一緒に生きていられる。自分みたいに両親を早くに亡くして、子どもに悲しい思いをさせるなんてことはできる限りしたくない……。
「ねえ。田川のオッサンもそう思わない?」
「そうですねぇ」
映美の質問に、田川は少し思案した。
「私みたいなオッサンからしますと、たしかに結婚は早い方がいいと思います。もしも私が、生活に困らないネスクで生まれ育っていたとしたら、十八歳で結婚したかったですね」
「いや、十八はさすがに早いっしょ」
「いえいえ。私は今年で四十九ですが、自分に自信がなくて、とうとう結婚できませんでしたからね。そして自信が持てなかった最大の理由は、家族に不自由な思いをさせてしまうかもしれないという不安があったからです」
田川はキーボードから手を離し、小さく息を吐き出した。
「ですが、ネスクでは一生人並みの生活ができます。だったら、早く結婚することはメリットだらけです。今さらですが、子どもの成長を見守ることができるのは、人間にとって最高の幸せだと思いますからね」
「だったらオッサンも、今から相手を探せばいいじゃん」
映美はニヤリと笑い、田川を指さす。
「あ、でも、あたしはダメだよ? あたしのタイプは、自宅勤務の引きこもりだけど、美味しいって評判のレストランがあったら、すぐに食べに行っちゃうグルメな感じの人だから」
「いやいや、そんなまさか、滅相な。私なんか、今さらどうやっても無理ですから」
田川は慌てて顔の前で手を振った。
「それより飽海さん。短剣が配達されるのはたしか午後の二時だったと思いますが、時間は大丈夫ですか?」
「え?」
花は反射的に腕輪を見た。すると、二時まであと十数分しかない。
「うそ? もうこんな時間? ごめん二人とも。わたし、ちょっと行ってくるね」
「はーい、いってらっしゃ~い」
「お気をつけて」
花はハンドバッグを引っつかみ、難民支援室をダッシュで飛び出す。そして階段を小走りで駆け下りながら、ふと思う。
たしかにエミシーの言うとおり、結婚は早い方がいいような気もする……。だけど、今まで一人で生きてきた自分に人生のパートナーができたとしたら、いったいどんな気持ちになるのだろうか……。
花はウェディングドレスをまとった自分の姿を思い浮かべ、慌てて首を左右に振った。そしてそのまま移住管理局のビルをあとにした。




