第四話
どこかふわふわとした状態のまま、日和は珍しくぐっすりと眠った。不眠症というわけではないけれど、日和の眠りは少し浅い方だ。夜は精神が不安定になりやすく、悪夢を見る事も少なくない。そんな日和が朝をとうに過ぎても起きなかった理由を思い出して、日和は少しにやけそうになる。
正親にはもちろん彼の人生がある。けれどひょっとすると、高校時代くらいは子どもらしい毎日を送れるのかもしれない。そう期待してしまっている自分が信じられずに戸惑いもするが、期待できる自分は嫌いではなかった。
上半身を起こし伸びをして、時計へと目を滑らせれば時刻は午前十時を少し過ぎた頃だ。もう昼近い。日和はさすがに慌ててベッドを抜け出すと、着替えもせずに部屋を出た。
しかし階下へと向けた足は、すぐに止まった。日和の耳に、一階から誰かの話す声が聞こえたからだ。
日和は駆け下りようとしていたそれをいったん止めて、今度はそろそろと忍び足で一段一段ていねいに階段を踏み込んだ。音を立てないように細心の注意を払いながら一階へ到達すると、話し声はリビングが発生源だと分かった。
廊下もゆっくりと進んで、リビングのガラス扉越しに姿が見えないようにと壁に張り付きながら、片手でほんの少しだけドアノブを回し細く扉を開いた。話し声だけ聞こえるくらい紙一枚ほどの隙間を作る事に成功してほっと一息吐くと、日和は廊下に座り込んで耳を澄ませる。
「年頃の娘が一人で暮らしてる家にずかずか上がり込むんじゃねえよ図々しい! 常識ねえのか!」
「だから俺はこの家の合鍵を持ってるんだよ! 文句言われる筋合いはない!」
――ん?
日和は言い争いの内容に首をかしげ、さらに聞き覚えがありすぎる声に首をかしげた。
「あいつの両親が不在の間は日和の保護者は俺だ。これからはここに住むし、俺の目が黒いうちは好き勝手させねえぞクソガキ」
「痛い痛い痛い潰れる脳みそが潰れる!」
「結構。花も恥じらう乙女の部屋にずかずか上がり込むお花畑な脳みそなんざ潰れちまえ」
あまりにも不穏な会話をしている。さすがにストップをかけなければ、と慌てた日和はリビングの扉を開いた。
「うわあ! 正親なにやってんの!?」
飛び込んだリビングの光景を前に、日和は思わず悲鳴のような声を上げた。
予想通り、声の主は日和の叔父である正親と、幼馴染みの広大だった。言い争いをしている様子ではあったが、まさか正親が広大の頭を鷲掴みながら締め上げているとは思わなかった。日和は慌てて待ったをかける。
「ひよ、この小僧はお前のなんだ」
ぎりぎりと腕に力を込めながら穏やかに微笑む叔父のかつてない様子に戸惑いながらも、日和は「広大だよ!」と答えになっていない答えで叫んだ。
「正親、ちょっと離して! 痛がってるよ!」
「痛くしてんだよ。前に話してた世話になってる隣の息子か。こないだも顔見たな、そういや」
「何度も隣人だって話しただろいたいいたいほんとに痛い!」
狼狽える日和をしばし眺めた正親は、ため息をひとつ落としてやっと握っていた手を広大の頭から離す。広大はもはや涙目になっていた。
「ごめんね、広大。大丈夫?」
「なんで日和が謝るの?」
「え? えーと、なんとなく」
広大の頭をなぐさめるように撫でながら、拗ねたように口をとがらせる彼の質問に答えた日和は、どうして広大がそんな顔をしているのかが分からない。正親が怒った理由もそうだ。疑問だらけの頭は忙しく、日和を挟んでにらみ合う二人に戸惑うばかりだ。
「兄貴たちが一応はやってるみたいだけど、俺からも近いうち長嶺家の方々に挨拶しとかないとだな」
ふう、と腰に手を当てて息を吐く正親の様子はいつも通りの正親に見えて、日和は同じようにほっと息を吐いた。
「ひよ、本当にこの人と暮らすんだ」
日和は正親からふてくされたような声を上げた広大へと視線を向けると、撫でていた手を止めてこてん、と首をかしげた。
「そう言ったよ? 何度も」
「そうだけど……やっぱりこの人には甘えられるんだね」
広大の言葉にただ目を丸くしながら日和が何も言えずにいると、唐突に正親が日和の腕を引っ張った。
「近い」
「正親?」
「何度か見かけた時には、そういう雰囲気じゃなかったから安心してたんだけどなあ……」
眉根を寄せてうなる正親に視線だけで日和が意味を問いかけるが、正親は言いたくないのか優しく微笑んで誤魔化すばかりだ。そんなふたりの空気にあてられたとでも思っているのか、広大は奥歯を噛んだ。しばらくうつむいていたが、やがて顔を上げると、ばっちりと日和の叔父だと名乗る男と視線が合った。逸らすのはまったくもって癪なので真正面から睨みつける。
ぎり、ときしんだ音を立ててこぶしを握る若い男に、正親は視線をくれてやれば鼻だけで笑う。何もかもお前に勝てるものなんてないと言われてしまったようで、広大は頬に朱をのぼらせた。
しかし。
広大は、少し前までの彼とは何もかも形を変えた。自身の中にある気持ちの名前も見つけた。自覚すればみるみる浸食されたその感情に溺れているのかは分からない。ただ、ここで負けた気持ちのまま引き下がるという選択肢は彼にはない。
ふう、と短く息を吐いた広大は「日和」と普段あまり出さない静かな声で彼女の名を呼んだ。
日和は、さまよわせていた視線を広大へと定めると、いまだに疑問符だらけの表情で彼を見つめる。まるで迷子のように不安げなその顔を見て、広大は苦笑した。
「正親さんが怒ってるのは、俺の気持ちを正確に理解してるからだよ」
「え?」
――おいおい。
内心で「やめてくれよ」と正親は思った。まさに若いの一言に尽きる。まさか今ここでそんな重要な言葉を吐くとは思わず、正親は口を挟むことも忘れ、驚愕に目を見開いた。
というか。
正親は彼に名前を呼ぶことを許した覚えはないと妙なところに苛立たしさを見出していた。
「日和が家族の愛情を求めてることはわかってた。だからこそ他人の俺たちに遠慮してるのも、余計に寂しく思ってるのもわかってた。でも、きっともう大丈夫だよね? この人がいるなら」
「広大……」
穏やかに微笑む幼馴染みの顔に、覚悟していたいつかは今日なのだと気が付いた。日和は今にも悲鳴を上げたくなっている心をなんとか御しつつ、歪には見えないようにと努めて同じように微笑んだ。ゆっくりと、彼の言葉を肯定するように、うなずく。
――どうか、どうか卑怯にもここで泣いたりしませんように。どうか、笑ってさよならを言えますように。
心の中で祈りながら広大の言葉を待っていると、広大は笑みを携えたまま、日和へすっと右手を差し出した。
なんだろうか。お別れの握手だろうか。
日和は首をかしげながらも、広大が望むならばと一歩前に踏み出し、自身も右手を伸ばした。
「だったら」
呟きながら、広大は日和の右手ではなく手首を掴むと半ば強引に彼の方へと引っ張った。当然だが引き寄せられた日和はすっぽりと広大の腕の中へとおさまり、それを待ち構えていたかのように広大の左手が力強く日和の腰へと回される。
「だったら――もう俺は、他人として日和にただ恋をする男になってもいいよね?」
「…………え」
意味を理解するより先に、広大が耳元へ唇を寄せ、囁いた。
「君が好きだよ、日和」
「……こ、うだ」
何を言ったらいいのかわからない日和の口は、開いたり閉じたりを繰り返してばかりだ。そんな彼女の顔を覗き込むように耳元から離れた広大の顔が、数センチ先で笑みを深くしていた。
「良かった。好きの意味はちゃんと伝わってるみたいだね? 真っ赤でかわいい」
「!」
「俺たちきっと、恋人になろうね」
頬に柔らかい何かが触れて、日和の頭は今度こそ活動を停止した。
遠くで、誰かが慌てふためく声が聞こえる。
それが失神した日和を心配する広大と正親の声だと知ったのは、意識を取り戻した日和がベッドで横になったまま怒りをあらわにした正親から延々と説教をされた時のことだ。
日和と広大の間にある何かが、形を変えようとしている。
そんな事実を突然目の当たりにして、日和は途方に暮れた。
広大のことはきっと大切だ。去ってしまうと思った瞬間に心がどうしようもなく悲しみに支配されたことも、なんら疑問ではない。自分から覚悟をして離れるのと、去って行く広大の背中を見つめるのとでは受けるダメージも違うのだと痛感した。なんとも勝手な話だが、どこかで広大がずっと隣に寄り添ってくれるのではないかと考えてしまったのは日和もまた同じだったのだ。
けれど、難しい問題だ、と日和は思う。
広大が言っていたように、今の日和はきっと正親の存在で慢性的に感じていた寂しさがかなり和らいでいるし、心の余裕もこれから先出てくるのではないかと思う。しかしだからといって「じゃあ恋について考えましょう」「付き合いましょう」とはさすがに切り替えられない。
広大は、目を覚ました日和に先回りするかのように「返事は焦らなくていい」と告げているし「諦めるつもりはない」とも告げている。正親はもとより、他人として、女として誰かからこんなにも想われるだなんて信じられない。
日和は自分の人生にこんなことが起こるとは思ってもおらず、今はただ戸惑うばかりだ。確実に、嬉しいという感情は日和の心を灯しているけれど、結論を今すぐ出せるものでもなかった。
ふう、と息を吐いて、とりあえず明日からの自分にまかせようと日和は目を閉じた。
「朝からわざわざ来るんじゃねえ!」
「母から正親さんと日和の朝食を預かってるので」
「何度も断ってるだろうが!」
「お節介なんですよ我が家は」
朝の日課に加わった妙な光景を眺めながら、日和はこくり、とコップに注がれた牛乳を飲み込んだ。
広大の大胆すぎる告白なのか宣言なのか良くわからない何かから一か月が経過した。すっかり暑くなって、来る長期休暇に向けて世間は浮足立っている。
日和も、夏休みは楽しみだ。両親が日和のために死ぬ気でもぎ取ってくれる長期休暇は、少ない時間ながら親子が過ごせる貴重な時間だった。
「正親、そろそろ食べたら? 早くしないと遅刻しちゃうよ」
「……ああ」
日和と広大よりも家を出るのが少し早い正親は、姪の言葉に渋々席へ座ると、手を合わせて朝食を食べ始めた。今日の放課後にでも、名都さんの好きな和菓子を見繕って出向くか、と日和は考える。
「ひーよ」
「ん?」
「また後ろ少しはねてるよ。昨日乾かさないで寝たでしょう」
くすくすと笑いながら髪を整え始める広大に、日和は肩をすくめるだけで応える。正親は内心気に入らないようだが、広大がきちんと日和を想っているのもどこか理解しているらしく、行き過ぎない範疇ならばあまりうるさくは言わない。
しかし単純に可愛い姪っ子に彼氏なんてまだ早い、という感情は制御が難しいようで、怒鳴りつけないながらも小さな嫌味は忘れない。
「尽くすのは結構だが、元々が幼馴染みとしての歴史が長い分苦労しそうだな」
「……どういう意味ですか?」
「いや? そんな風に触れても平然としてる女に告白したいじらしさに涙が出そうなだけだよ」
「――はい?」
あまり聞いたことがない低音に日和は内心でどぎまぎしつつ、正親にあまりからかうな、と視線で訴える。正親はそれを分かっているのかいないのか、口元に嫌味な笑みを携えたまま言ってのける。
「髪に触れるっていうのは、けっこう踏み込んだコミュニケーションなんだけどな」
何かを言い返そうと口を開いた広大にまたも嫌な笑いを向けたと思うと、一気にコーヒーをあおり「ごっそさん」と呟いた正親は、さっさと台所に食器を下げに行く。
「二人きりだからって変なことするんじゃねえぞ」
リビングの扉を開きながら早口でくぎを刺してから、正親は倉石家を出て行った。
「確かに、日和は普段から俺に触れられ慣れているのは分かってるけどね」
ため息交じりに放たれた言葉は今度こそ無反応ではおれず、日和はいささか大げさにも見えるくらい肩を大きく揺らした。そんな彼女の様子を面白そうに眺める広大は、先ほどまでの無害な笑顔とは別の笑みを浮かべながら、背後から日和の耳元へと唇を寄せる。
「やらしい気持ちで触ったら、日和は怯えちゃうもんね?」
「!」
ブラシを持っていない左手が前へと回されて、日和の頤をつう、と撫でる。瞬間で耳まで真っ赤になった日和に気を良くしたのか、広大はすぐさま髪を整える作業に戻る。
「気長に待つよ、意識してくれているのは知ってるからね」
「あ、ありがとう……」
小さくお礼を言った日和の頭を優しく撫でて、広大は「きちんと整えてあげるね」と上機嫌にヘアスプレーを吹きかけた。
しかし、まだ二人は知らない。このモラトリアムがそう長くは続かないことを。
日和がアルバイト先のとある男に告白され、そのせいでライバルという可能性に気が付いた広大が一気に勝負を仕掛けることを。
波乱含みの甘ったるい夏休みを迎えることを、まだ二人は知らない。