19話
久良持アパートの銭湯は、思っていたより和の雰囲気が出ていた。
「ほら、ここだよ!」
「見れば分かりますよ」
「そんなムスっとしなくても良いじゃん! きっと一番風呂だから最高にスッキリするよ!」
ズカズカと風呂場の中へと向かい、僕の着替えをくれた。
「喜べレイセンくん! 見事に一番風呂だ!」
「や、やった!」
一応、喜んで良いのか分からない。確かに一番は嬉しいと言えば嬉しいが、素直に喜ぼうとも思えなかった。念のため喜んでいる素振りを見せる。
「じゃあ、また後でね」
そう言って、久良持さんは女湯の暖簾を潜っていなくなった。
僕も、男湯の暖簾を潜って、一番風呂を堪能することにした。中に入ると、思っていたより普通の脱衣所だった。ロッカーがあり、その中にはカゴがあると言ったものだ。
とにかく今は、一番風呂を堪能しよう。
最近はシャワーばかりだったから、久々の風呂は内心、とても嬉しかった。
ガラス戸を開けると、そこには誰もいなく、完全に僕の貸切状態だった。
湯気が立ち上る風呂に早く浸かりたいと言う欲望が渦巻くが、まずは体を流さなければならない。
暗黙の了解になりつつあるこの体流し。
やはり多少の汚れは落とすのが礼儀と言うものなのだろうが、昔はじれったくてやっていられなかった。
しかし、今は、次に来た人のことを思うと流さずにはいられない。
それほどまでに僕たちは汚れていたのだ。
早速、一番風呂に浸かる。とても良い湯加減でつい声を漏らしてしまう。
「あああ、キモチイイィ……」
声が重なる。左右を確認するが誰もいない。
まさかと思い天井を見上げると、天井は完全に隔離されているわけでもなく、上が少しだけ開いていて、女湯の天井が見えた。
「レイセンく~ん。お湯加減はどう? と言っても、さっき二人で同じこと言っちゃったから分かるけどね」
壁の向こうから声が聞こえてくる。久良持さんだ。
「え? 普通に会話していますけど、大丈夫なんですか?」
「心配なんていらないよ。上の隙間を使って、石鹸の交換とかしょっちゅうあるから」
「それ、良いんですか?」
「別に良いよ~」
言った瞬間に壁の向こうからバシャバシャと音が聞こえてくる。一番風呂だからお湯も新鮮だから、顔を洗っているのだろうか。
「そうなんですか。何か、下町みたいで良いですね」
「下町って、レイセンくん、昔は下町にでも住んでたのかい?」
「いえ、完全にマンガやドラマの刷り込みですが、本当にあるんだなーって思って」
「はははは。良い社会経験になったから良いじゃないか」
久良持さんは、前向きで積極的な人なんだと改めて分かった。口に出して言ってみた。
「久良持さんって、前向きですよね」
「前向きってわけじゃないよ。後ろ向きになってても、良いことなんかないってのは知っているからね。レイセンくんは後ろ向きなのかい?」
気付けば、僕は男湯と女湯を塞ぐ壁に背中を預けていた。
「……多分、そうだと思います」
「私と会う前のレイセンくんは知らないし、どんな辛いことがあったのかも知らないけど、いつまでも落ち込んでいても、損をするのは君だけじゃないんだよ。輪廻ちゃんもきっと辛くなると思うよ。私の憶測だけどね」
「あいつのコントロールの仕方は一応分かってるので」
少しいじわるっぽく言ってみる。
「それなら安心だ。ところで、輪廻ちゃんとは、いつからいるの?」
「あいつとは、十年以上の付き合いですよ」
嘘はついていない。
出会ったのは最近だが、あいつは僕のことを十年以上前から知っていたわけだから。
「そんな前だったの? てっきり最近かと思ってたよ。こりゃ失敬」
一瞬だけ心臓が飛び跳ねた。やっぱり、この人は分かっているのではないだろうか。
しばらく二人は無言だった。疲れを取っていたのか、会話が弾まないと分かったのかは、分からない。
「あの、久良持さんは、僕のこと、どう思ってるんですか?」
つい咄嗟に出てしまった質問だった。
「さっきも言ったじゃないか。レイセンくんは若いから、ただ応援してるだけだよ」
「……本当に、本当にそれだけなんですか?」
「もしかして、何か勘違いしてないかい?」
指摘されて出会ってからまだ数時間しか経っていない異性に何を聞いているのかと我に返る。
「あ、ごめんなさいっ……僕、変なことを」
「まあ、若いうちはそう言うものだよ。じゃあ、私、先に体洗ってるよ。石鹸使い終わったらそっちに飛ばすからヨロシクね」
「え? 本当に言っているんですか?」
「だって髪を洗うだけじゃ困るでしょ? しっかり体の汚れ落としてね!」
稟堂とは違うタイプの人だから、中々反応に困ることが多い。
稟堂の場合だと、タオルや箸だけで顔を真っ赤にしていたが、久良持さんは別なのか。
ふと、稟堂は今何をしているのかと思った。アパートの場所は覚えているのか、変なやつに絡まれていないのか。そう思うと、急に不安になってきた。
「久良持さーん! 聞こえますか?」
シャワーの音が聞こえる中、僕は壁に向かって叫ぶ。
「んー? もう洗うー?」
「いや、あの、稟堂が心配になっただけで、その。散歩って大丈夫なんですか? あいつ、この辺のこと全然知らないんですよ」
「この辺は悪いやつもいないし大丈夫だよ。大体の人は顔見知りだからね。レイセンくんは心配しないで疲れを取って大丈夫だよー」
そうは言われてもやはり不安はなくならない。
「それでも、やっぱり不安なので少し早めに上がります。石鹸、借りても良いですか?」
「良いよー。私も、今洗い終わったから。投げるよ!」
話し終えた直後、上から固形石鹸が飛んできて、僕の頭に直撃した。
「痛っ!」
「ははは。悪かった悪かった。髪も洗い終わったから、先に出てるね」
「分かりました」
久良持さんは、先に体を洗ってから髪を洗うのか。僕とは逆だ。
飛んできた固形石鹸を見て、僕は気付く。
「こ、これは……久良持さんも体を洗うのに使っていたんだよな……。間接的とは言え、触れているわけだよな……」
前日まで、キスは間接だとノーカウントを唱えていた僕だが、今は別だ。
「久良持さんが使っていた石鹸で僕の体も洗うぞ!」
意気軒昂と久良持さんが毎日使っているであろう固形石鹸で自分の体を洗った。
間接的とは言え、肌と肌を触れあった僕は、数分だけ熱い風呂に浸かった。風呂から出ると、体を拭いて、借りた着替えを見て気付いた。
「これ、女物の服だよな……」
明らかに、どうみても女物の服とスカートがそこにはあった。
ついでに言うと、下着も久良持さんのものなので女物だ。
さすがに汚れた下着や衣服を着るわけにもいかないので、仕方なく、女物の下着を穿き、女物の服に袖を通す。
脱衣場に誰もいなかったのは不幸中の幸いだ。
スカートを穿き、男湯と鏡文字に書かれている暖簾を潜るのは違和感しかない。
暖簾を潜り終えると、誰かとぶつかった。
「姉ちゃん、ここ男湯だぞ! 間違えちゃダメだぞ! がっはっはっは!」
仕事帰りであろう中年のおじさんが僕にそう言った。
それを見て久良持さんはお腹を抱えて笑っていた。
「ど、どういうことなんですか! すごく恥ずかしいんですけど!」
「あっはははは! ほ、ほ、本当に着てる! いやいや、よく似合ってるよレイセンくん! いや、この場合レイセンちゃんって呼んだ方が良い? うわはははは!」
彼女の笑いが止まることはなかった。
「もっとマシな服あったでしょうが! 今、久良持さんが着ている服こそ、僕にふさわしいでしょ!」
久良持さんはシャツに短パンと言うとてもラフな格好だった。
「まあまあ、怒らないでよ。はい、コーヒー牛乳」
涙を拭いながら、僕にビンのコーヒー牛乳を渡す。
「良いんですか?」
「もちろん。風呂上がりの一杯は、最高だよ! さあ、グイっと!」
言われるがままに、蓋を開けてゴクゴクと喉を潤す。とても美味しかった。
「うんうん。良い飲みっ……ぷ……うわははははは! やっぱり可愛いよレイセンくん! ギャップがすごいよ!」
「や、やめてくださいよ! 恥ずかしいんですから、早く帰りましょうよ!」
「ひーひー、ちょっと……ま、ゴホッ……うひひひ……」
「もう、本当やめてくださいよ……」
涙目で訴えるが、そこがまた良いと言われ、久良持さんは、かれこれ十分以上は笑っていた。
つづく
編集+誤字訂正しました。 4/17




