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喫茶店に来たマスターの奥さんから、もう一度マスターに会って欲しいと言われた俺は、次の日を臨時休業にした。
店が一番勢いに乗るこの時期に店をやたらと閉めるのはあまり芳しくないが……それでも、マスターの奥さんから感じた“何か”は、それよりも優先すべきことのように思った。
もっとも、あの人気具合から、一日程度店を閉めたところで変わりはないと思うが。つくづく、黎には感謝したい。
奥さんが俺たちを連れてきたのは、隣町にある総合病院だった。
とても大きな病院で、俺と黎はその大きさを下から見上げ実感していた。
ここにマスターがいるというのだが……
(それってつまり……)
何か、嫌な予感がした。あまりにもマスターが連絡をしてこないし、店にも来なかったから、俺は半分騙されたのではないかと疑い始めていた。でも、ここに来てある程度理解した。マスターは来なかったんじゃない。来れなかったんだ。当然連絡してきたら俺は問い詰めていただろう。だからマスターは連絡もしなかった。
俺の考え過ぎかもしれない。でも、何となくそう理解した。
「さあ楠原さん、白谷さん、こちらですよ」
奥さんの案内で、俺と黎は病院の中に入って行った。
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病室棟5階にある角部屋。個人病室。そこのベッドの上に、マスターはいた。
「……やあ、楠原くん。久しぶりだね」
「……ご無沙汰してます、マスター」
久しぶりに会ったマスター。その姿の変化に驚いた。
その顔は窶れ、鼻にはチューブが通っていた。目の下にはクマがあり、笑顔を俺に向けていたが、その笑顔にもどこか力がないように感じる。病院服の袖の隙間から見える腕は細く萎びていて、最後に会った時よりも全体的に小さくなった印象を受けた。
……明らかに、何かしらの病気に侵されているのが分かる状態だった。
言葉を亡くし茫然と立ち尽くす俺に、マスターは照れる様に笑っていた。
「いやいや……。何だか恥ずかしいね。私の姿を見てびっくりしただろうね」
「い、いえ……」
「気を遣う必要はないんだよ。私自身がそう思ってることだしね」
少しだけ苦笑いに変わるマスターの表情。するとマスターは、俺の斜め後ろに立つ黎の姿に気付いた。
「おや? そちらの綺麗なお嬢さんは誰かな?」
「ああ、こいつは……」
俺が紹介する前に、黎は一歩前へ出て、深々とお辞儀をした。
「初めましてマスター。私は、貴方の店舗で働かせていただいている、白谷黎と申します。マスターのことは晴司から常々伺っており、一度お会いしたく思っていました。挨拶が遅れてしまったことを、お詫びいたします」
そして、再びお辞儀をする黎。
(……いや、誰っ!!??)
いつもと全く違う黎の口調と態度。もしかしたら、会社勤め時代の癖が出たのかもしれない。
「ははは! そんなに気を使わなくてけっこうだよ。白谷さん、いつも通りにしてくれないか?」
それを聞くや、黎は頭を少しだけ手でかき、口調を戻し、改めて話し出した。
「……ありがとう。そう言ってくれると助かるよ。アタシ、どうも敬語が苦手で……」
黎は大きく溜め息をついていた。よほど疲れたのだろう。……何か、黎があっさり会社を辞めた理由の一端を垣間見た気がする。
「店の噂は聞いてるよ。大繁盛しているそうじゃないか。やっぱり、楠原くんに任せて良かったよ」
マスターは感慨深そうに話す。
「いや……正直な話、俺は何もしてないんですよ。全部黎のおかげなんです」
「そんなことないよ。その子が店に来たのだって、楠原くんの人徳なんだよ」
何だか、照れてしまう。
そして、俺は気になっていたことを聞いてみることにした。
「あの、マスター……。体のことなんですけど……」
「……ああ、そうだったね。楠原くんには、話しておこうかな」
マスターは笑顔を浮かべたまま目を閉じた。そして目を開け、窓から見える青空を見ながら静かに話し出した。
「……私はね、癌なんだよ。全身に転移しててね、もう長くないんだよ」
「………」
嫌な予感が、当たってしまった。今のマスターの姿は、七年前に花火大会の会場で会った、詩乃さんと被る。
人の出会いは別れの始まり、という言葉を聞いたことがある。出会った人とはいずれ必ず別れる。それは分かってる。理解している。……つもりだった。
でもやっぱり、納得は出来ない。受け入れたくない。そんなわがままが、俺の中に浮かんでしまう。
……それでも、それは俺にはどうしようもないことだった。
「……悪いけど、楠原くんと二人にしてくれないか?」
言葉を受けた奥さんと黎は、一度だけ会釈をした後、病室を出て行った。
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二人きりになった病室で、マスターは俺をベッドの横の椅子に座らせ、話を続けた。
「もう少しでこの世からいなくなる。それが分かった時、私はキミのことを思い出したんだよ」
「……ああ、コンビニでの、酔っ払いの件ですか?」
「まあ、それもあるけどね……」
(それもある?)
それ以外にあるのか? コンビニで俺を見て、マスターはスカウトしたって言ってたけど、それだけじゃないのか?
戸惑う俺の顔を見たマスターは、一度フッと笑った。
「実はね、私はコンビニでキミを見かける前から、キミのことを知っていたんだよ。この目で見たのは、あのコンビニでが初めてだったけどね。
――私の孫が、よくキミの話をしていたんだよ」
「お孫さんが、俺の話を?」
ニッコリと笑い、小さく頷いた。
「孫はね、キミを本当に尊敬していたんだよ。キミに何度も助けられたって言っていた。――職場の指導員がキミで良かったって、いつも笑顔で私に話していたよ。
……だからこそ、キミに迷惑をかけてしまったことを、心から悔やんでいたよ」
(………まさか)
頭の中に、ある人物が思い浮かぶ。でも、それはあり得ない。あり得ないんだ。そんなわけがない。
“アイツ”の家族が、こんな顔を俺に向けるはずがない。だって、アイツは俺が……
おそるおそる、俺はその推測の確認を取る。
「マ、マスター……そのお孫さんの名前って……もしかして……」
「……宗助だよ」
耳を疑った。そんなわけがないと思っていたことが、現実となった。
その瞬間、俺の目から無条件に涙が溢れてきた。理由なんて分からない。だけど、涙が止まらなくなった。椅子に項垂れ、目を伏せる。マスターを直視することが出来なかった。
「マ、マスター……ごめん……ごめん、マスター……」
泣きながら謝るしかなかった。何に対する謝罪かは自分でもよく分からない。だけど、謝らずにはいられなかった。
涙と嗚咽で、言葉がうまく出ない。それでも、声にならない声で謝り続けた。
「楠原くん、そんなことを言わないでくれ。私はね、キミに謝罪を求めてるわけじゃないんだ。キミに、話しておきたかったことがあるだけなんだよ」
(……話すこと?)
マスターは、俺の肩にゆっくりと手を置いた。
「……楠原くん、よく聞いてほしい。宗助は、キミを恨んでなんかいなかったよ。むしろ感謝していた。だからこそ、キミを退職に追い込んだ自分を許せなかったんだろう。
父親も、母親も、葬儀場でキミにあんなことを言っていたが、本当は二人ともそのことをよく分かってるんだ。だけど、何かにぶつけたいだけだったんだよ」
「………」
「キミをコンビニまで見に行ったとき、宗助が言っていたことが正しかったことが分かったんだ。だからこそ、私の店をキミに任せようと思ったんだよ。
……そして、その気持ちは今でも変わらない」
そう言って、マスターは細く冷たい手で、俺の手を握ってきた。その手は、心なしか震えていた。
「私の店を、頼む。キミに……宗助が認めたキミに、頼みたいんだ」
マスターは、優しい笑顔を俺に向けていた。その顔を見ると、また涙が出てきた。
でもそれは、さっきまでの涙と違う。暖かい涙だった。
心の中でつっかえて、痛みを与え続けていた棘のようなものが、取れたような感覚だった。胸が軽くなった。
そんな俺の口からは、自然と言葉が出る。でも、その言葉はさっきまでとは違っていた。
「……ありがとう……ありがとう、マスター……」
何度も頷くマスター。そんなマスターに言い続ける俺。
俺の言葉に、微笑みを返すマスターは、最後の言葉を話し始めた。
「最後に、キミにお願いだ」
「……はい」
「喫茶店の、あのサービスを続けてほしい。私の意志を、キミに引き継いでほしいんだ。了承してくれるかい?」
そんな問いかけは、答えなんて決まっている。
「――はい。俺が、マスターの分までやってみます。どうなるかは分かりませんし、相談した人が納得してくれるかは分かりません。でも、俺なりにやってみます」
「それでいいんだよ。キミのやり方でいいんだ」
力強く握手を交わした。するとマスターは手を離し、体の力を少しだけ抜いて、軽い口調で話し始めた。
「あ、そうそう、キミと一緒にいたあの子……」
「黎、ですか?」
「そうそう、その子。あの子を見て、ふと思ったんだけど……」
「は、はあ……」
マスターは、ニッと笑う。その顔は、まるで子供のようだった。
「――あの子は、メイド服がよく似合いそうだ」
そう言って、マスターは声を出して笑った。
そんなマスターを見て、俺もまた吹き出してしまい、つい笑ってしまった。
「――ですね!」
その後、事務手続きの方法を聞き、しばらく二人で談笑した。
マスターが来なくなった後の店のこと。黎が来た後の店のこと。そして、これからの店のこと……
外が暗くなるまで話をした後、俺と黎は病院を後にした。
最後にマスターは、俺たちに向けてこう言っていた。
“二人とも、幸せにね”
それを聞いた黎は、果てしなく嬉しそうに返事していた。
……何か、盛大に勘違いしているようだった。
ともあれ、俺は店を正式に引き継ぐことになった。コンビニにもすぐに連絡して、辞めることを告げた。星美から後刻電話があり、必死になって引き留めていたが、当然俺が首を縦に振ることはなかった。
それから仕事の合間を見て、病院に行くようになった。毎回笑いながら色んな話をした。
……そして数週間後、マスターは息を引き取った。