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さてさて、少しだけ困ったことになったのだが……
すっかり忘れていたのだが、明日というのが店の定休日なわけで、黎は“また明日”と言ったが、明日はないのであった。
しかし奴めは荷物を忘れてしまってる。故に、俺はこれを届けに行かねばならないのだ。
それは、かなりキツイ。だってなあ……あんなことなったわけだし。
よくよく考えてみれば、黎の行動と俺の考えには全く関連性がない。俺としては、俺なんかじゃ黎とは釣り合わない、と言いたかったのだが……
何を勘違いしたのか、黎はあんなことを……
(気まずいよなあ……)
そんなことを考えながらも俺は楠原兼白谷家の前に来てしまっていた。
楠原兼、というのは、この家は元々俺の家だからだ。
最初は俺と母さん、父さんの三人暮らしだったが、中学の時に父さんが死んでしまい、母さんが働きに出ることになった。
母さんは凄まじく優秀だったこともあり、そのまま海外支店へ転勤。で、中坊の俺が一人になってしまっては色々不安があるということで、父さんの妹である千春さんが同居することになり、海外に一人暮らしをしていた黎が高校の時に俺の家に来た。母さんは年に一度くらいしか帰って来ないわけで、高校卒業まで三人で暮らしていた。
俺が高校卒業後、就職して一人暮らしを始めたから、その家には千春さんと黎が住んでいる。
とまあ長々と回想したが、時刻も夜遅い。そんな時間稼ぎもそろそろ限界なわけで、俺は玄関のインターホンの前で固まるのを止め、終に久々に家に戻る覚悟を決めた。
おそるおそるインターホンに手を伸ばす。指が震える。
(何で自分の家に入るのに緊張するんだよ……)
そんなことを考えても、緊張するものは緊張する。
そろそろインターホンに指が当たる……
「――何やってんだ晴司?」
「ぅおろぉ!!??」
「……どんな驚きの声だ。初めて聞いたぞ」
「ち、千春さん!?」
いつの間にか、千春さんが俺の後ろに立っていた。まったく気付かなかった。
俺の声に奇妙なものを見るかのような目をする。未知との遭遇。でも、それは俺だから。
「何しに来たんだ?」
「いや……黎が荷物忘れてたから届けに来たんだよ」
「お、そうかそうか。それはご苦労だったな」
「千春さんは何してるんだ?」
「これだよ、これ」
そう言って、千春さんは手に持っていたビニール袋を上げて俺に見せてきた。中には大量のビールが……
「……少しは禁酒したら? 体壊すぞ?」
「お生憎様。健康診断では毎回ぶっちぎりで健康値だよ」
ニタッと笑う千春さん。
こう改めて見ると、やっぱり美人だ。さすがは黎の母親。もう四十超えたはずなんだが……相変わらず全くそうは見えない。
全国の女性がその若さの秘訣を知りたがってるぞ。本を出せ! テレビに出ろ! 独り占めするな!!
「それはそうとして、黎は?」
「ああ。家に帰ってきたよ。でも、帰ってくるなり部屋に駆け込んで行ったが……何かあったのか?」
「……いや、特には……」
「ふ~ん……」
千春さんは何かを感じ取ったのかもしれない。言い方が黎そっくり。
「……と、ともかく、このバッグを黎に渡しててくれよ」
さっさと立ち去ろうと思い、バッグを差し出した。
「………」
しばらく黙り込む千春さん。そして、ニヤリと笑った。
(こ、これは―――!!!)
そのニタリ顔。それは、不幸の予兆。これまでも千春さんがニタリ顔をした時は、何かしら俺が疲れるイベントが起こる。その顔が、今再び俺の目の前に存在していた。
「ち、千春さん?」
「晴司、立ち話もなんだから、家に入りな」
千春さんはバッグを受け取ることなく玄関に向かう。
「い、いや……俺、ちょっと用件が……」
「……聞こえなかったのか? 家に、入れ」
振り返ることなく千春さんはもう一度声を出した。しかし、その声にはそれまでなかった殺気を感じる。逆らったら殺される。そんな絶望的な声だ。
そんな声を出されたら、俺の選択肢はたった一つしか残っていないわけで……
「……はい」
俺は、頷くしかなかった。
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家の中はあまり変わっていなかった。俺の部屋もそのまま残っていたし、居間だってあのソファーが残ったままだ。
唯一違う所を上げるなら、テレビ台に高校の卒業式に三人で撮った写真が飾られていたことくらいか。笑いながら俺の腕にしがみ付いてピースサインをする黎。苦笑いをする俺。その後ろでタバコを加える千春さん。写真の中の俺たちは、永遠にあの時の光景を写し続けていた。
その写真を見た俺は、なぜか笑みが浮かぶ。高校時代を懐かしく思ってしまう年齢になったことを、改めて実感した。
「その写真、黎が仕事行く時と帰ってきた時に眺めてるんだよ。飽きもせず毎日な」
千春さんはそう言いながら、俺にビールを一本渡す。
「黎にとって高校生活は、本当に輝いたものだったみたいでな、その写真を見る時の黎は、本当に幸せそうなんだよ」
微笑みながら話し、ビールを一口飲む千春さん。それに続き、俺もビールを飲む。
「……俺、この時はまだ、社会の流れだとか、世の中のことを何も知らなかったんだよな。怖いもんなんてなくてさ、このままずっと変わらないで続くって思ってたんだよ。
でも、現実は全く違ったよ。見事に社会の荒波に飲まれまくってる。いいことも悪いこともあって、都合のいい展開なんてほとんどなくて、でも、少し努力すれば何とかなるようになってる。
人生ってのは、本当に教科書みたいだな」
「そのセリフが出るだけで、お前は十分成長してるよ。でも、やっぱり変わってないな」
「言ってることが支離滅裂なんだが……」
「そんなことはどうでもいいんだよ。それより、ちょっと待ってな」
そう言い残し、千春さんは家の奥に歩いて行った。
そして、家の奥で何かドタドタと物音がし始めた。いったい何の音なんだろうか。ていうか、あの人、何を企む……
しばらくして、物音がなくなった。それと同時に、千春さんは戻って来た。
「……千春さん、何してたんだよ」
「別に。あ、私は少し用事があるから出てくる。晴司、バッグをちゃんと黎に返すんだぞ?」
「いや、それならここに置いておくから別に……」
「ちゃんと、返すんだ」
再び千春さんから殺気が放たれた。
(何なんだよ……)
「じゃあな、晴司」
「あ、ああ。いってらっしゃい」
千春さんは手をヒラヒラと振りながら、マジで出て行った。
やむなく、俺は黎の部屋を訪れた。
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ドアの前に立つ。見慣れたはずの木製の扉。しかし今は、とてつもなく重い鉄の壁のように感じるのは、俺が精神的に追い詰められている証拠なのだろうか……
(ええい! ビビるな俺! ただ単に荷物を渡すだけだろ!!)
自分を奮い立たせ、いざ扉を叩く。
「黎、俺だ。ちょっといいか?」
「ど、どぞ!!!」
……なんだか、やけに気合が入った黎がいた。声も上ずってる。
(何だ何だ?)
とにもかくにも、渡さねば話は進まん。意を決して俺は中に入り―――
「………」
「せ、晴司……よく来たな……」
「………」
「な、何突っ立ってんだよ!!」
「……お前、何してんの?」
黎は、なぜかパーティー用のドレスを着ていた。部屋も何だか力技で片付けられた形跡が見られる。部屋の真ん中で、ドレスを着たまま座り込む黎は、まるで西洋風の人形のようだった。
「なぜドレス?」
「わ、分かんないのかよ!!」
(分かるわけねえだろ……!!!)
黎はずっと顔を赤くしていた。耳まで茹でタコのようだ。
ていうか、マジで何でドレスを着てんだ?
(……さては、千春さんのせいか? あの人、何を企んでるんだよ……)
そんな疑問が無限に沸き起こる俺だったが、この後の黎の言葉で、全てを悟ることとなる。
「……でも、驚いたよ。ずっと想像してたけど、いざその時になると、何だか照れ臭いな……」
(コイツは、何の話をしてるんだ?)
黎はずっと目が泳いでいた。手は膝の上に置いているが、何だかモジモジしてる。
「ま、まあ、アタシのファーストキスを貰ったんだからな。
……ぷ、ぷぷ、ぷろぽーずくらい、当然だよな……」
「………」
(ぷろぽーず? プロポーズ?)
プロポーズ……propose、計画などを提案する、提出するという意味の英単語。
日本では、外来語として標準的に使われ、常識として知られる。
その意味は、説明するまでもないだろう。
(………求、婚……)
「はああああああああ!!!???」
「ど、どうしたんだよ、晴司……」
「お、おお、お前! プロポーズって、どうして!!??」
「え? い、いや……さっき千春が言ってたんだよ。
“晴司が黎にとても重要な要件がある。どうしても黎と二人っきりじゃないとダメって”って……」
(あ、あの人、何してくれてんだよおおお!!!)
「……荷物忘れてたから、届けに来たんだが……」
「はあ!? そ、それだけなのか!?」
「それ以上でもそれ以下でもない。それだけだ」
「ア、アタシはてっきり、晴司がついに決心をしたものと……」
(凄まじくポジティブ過ぎるだろっっっっ!!)
「ていうか、何でそれでドレス?」
「だ、だって!! そんな重要なこと、寝間着で受けるのは、ちょっと……」
尻すぼみに声が小さくなっていく黎。少し落ち込んでいるようにも見える。
「……とりあえず、荷物、ここに置いておくからな」
荷物を置き、さっさと部屋を出ることにした。
「晴司!! ちょっと待て!!」
そんな俺に、力一杯に黎が叫ぶ。
「な、なんだよ……」
「アタシに、ここまでさせたんだ!! プロポーズしていけ!!」
「いやいやいやいや、オカシイぞ!! 言ってることがオカシイって!!」
「いいからさっさと―――!!!」
黎は慌てて立ち上がり、俺の方に詰め寄って……来ようとしてが、着慣れない服を着たせいか、思いっきりドレスのスカート部分を踏んづけた。
「わ、わわ!!」
そして黎は俺に倒れ込む。
「お、おい……」
慌てて黎を抱きかかえ、支えた。
「まったく、着慣れない服なんか着るから……大丈夫か?」
「あ、ああ。何とか―――」
黎は顔を上げると同時に、顔から湯気を出した。赤かった顔はさらに色を濃くし、目が点になっていた。
「~~~~~ッ!!!」
「れ、黎?」
「――やっぱり、ダメだあああああ!!!」
「どわっ!!!」
なぜか部屋から蹴り出される俺。閉められる扉。理不尽。あまりに理不尽。
「アタシにも、心の準備が必要なんだよ!! 悪いけど、今日は帰ってくれ!!」
ドア越しに黎は叫んでいた。
そしてなぜか俺はフラれたかのような構図になっている。
「お、おい黎!! 俺、何だかスンゲエ惨めな気分になってるんだが!!??」
「だから!! 悪いけど帰ってくれよ!!」
釈然としない。釈然としないぞ!!
そりゃ、もちろんプロポーズなんてするつもりはないが、何だか納得出来ない!!
……ていうか、付き合ってもないのに……
どんだけ走り幅跳びしてんだよ。ステップ飛び越え過ぎだろ……
そんなことを思いながらも、俺はアパートに帰る。
傍から見れば、プロポーズに失敗した可哀想な人。
夏の夜空は満面の星空となっていたが、俺の心は正体不明の雲に覆われたかのような感覚だった。