2
翌日。
天気は快晴。茹だるような暑さと纏わりつく汗は、毎年恒例の夏という魔物との激しい戦いを繰り広げる季節が再びやって来たことを実感しまう。
何度も言うが、俺は暑いのも寒いのも嫌いだ。
だが特に暑さは、いくら軽装にしようとも暑いのは暑いわけで。結局俺達人類は、偉大なる自然には到底勝てないことを実感することしか……
……って何の話だっけ?
そうそう、喫茶店の話だ。
……マスターは、ガチで来なかった。
実質バイト一日目の俺を一人残し、本当に来なかった。
ちなみに、コンビニのバイトは長期休暇を店長に申し出ていた。
店長の配慮で、辞めた形にはなってないが、実質幽霊店員のような立場になっている。
昨日の夜中までみっちりコーヒーの入れ方から仕入れの仕方、経営のいろはを叩き込まれはしたが……
何人かお客さんは来たが、全員マスター目当てだったらしく、俺しかいないのを確認するや、アイスコーヒーをイッキ飲みして帰って行った。
マスターの信頼度の高さと、俺の接客の悪さがよく分かる構図である。
何とかコーヒーを入れてみても、苦い顔をして帰ってしまう。そらコーヒーは苦いが、味としての苦さではない。何というか、『あれ? なんかいつもと味が違うくね?』みたいな顔をされるのを考えると、俺とマスターの入れるコーヒーには何か決定的な違いがあるのだろう。それはおそらく、“匠の技”と呼ばれるものだと考えられる。
本日の客、午後五時の段階で3人……
これは、既に経営危機とも言えるだろう。いや、喫茶店初勤務の俺しかいないのだから、それも当たり前なことなのかもしれない。
実は、若干楽観視しているところがあった。コーヒー入れて愛想よくしていれば、客が勝手に来ると思っていた。
……当然、そんな甘い考えがまかり通るほど、世の中は簡単ではない。
ものの見事に、社会の厳しさを叩き込まれた気がする。
「……終わったかな、こりゃ」
既に敗北宣言を出してしまった。初日なのに。
一応マスターから言われたのが、悩み相談は続けてほしいということだったが………マスター、一人も来ないんだが……
こうして、現実の辛さを実感した初日が終わった。
==========
二日目。
やはり客は来ない。今日は初めてランチなるモノを作ってみた。自炊する俺にとっては容易いことだった……と、言いたいところだが、客に提供するとなると、いつもの適当な料理ではダメなわけで、見た目美味しそうに作るのが如何に難しいかを実感してしまった。
……結局、手間取ってる間に、客が怒って帰ってしまった。
やはり、俺には向かないのかもしれないと、少しネガティブになってしまった。
四日目
この日、俺はパーフェクトゲームを達成した。
午後六時の段階で……客0!!!
すごいではないか。ここまで客が来ないと、逆に清々しい気がする。
自然と顔に笑顔が出る。一つだけ説明しよう。人間、本当の絶望と対面すると、自分の意思に反して笑いが生まれるらしい。
……笑えないが。
==========
それから数日後、相変わらず客は来ない。
皆一様に店内を覗いては帰る姿を見せている。
しかし俺は、ポジティブシンキングに耽っていた!!
(よく考えろ楠原晴司。これだけノンビリ出来る職場は他にあるか? 普通ねえぞ? まさに俺向きの仕事ではないか!!)
そう考えると、色々と気にならなくなってくる。
血のように真っ赤に染まる支出簿だとか、作っては捨てるコーヒーの山だとか、そんな事で悩むのがバカらしくなってくる。
素晴らしきはポジティブシンキング!!
……その真の姿は、現実逃避だということを俺は知っていた。
ちなみに、マスターから聞いていた電話番号にかけても、誰も出ない。
いよいよもって、もしかしたら騙されたのではなかろうかと疑心が生まれてしまっていた。
「ふっ……。コイツは、いよいよ終わりが見えてきたな……」
腕を組み、カッコつけて言ってみた。大人とは、常に冷静沈着、スマートに生きるものなのだ。
……足が震えてしまってるが……
チリリン
その時、入り口のドアに設置していたお客様センサーである鈴の音が響き渡った! それは、この日最初の客が入ってきたことを意味する。
瞬時にキラリと光る俺の瞳! 高鳴る鼓動! 震える足!!
(……これは、おそらくラストチャンスだ!! ここで印象をよくして、口コミで人気を広げてもらうのだ!!)
まさに背水の陣。俺は臨戦態勢となる。大きく息を吸い込み、満面の笑みを作る。
そして、力の限り声を出した。
「いらっしゃいませええええええええ!!!」
「……晴司、うるさいし何か怖いぞ……」
「あ……え? え??」
そこには、黎がいた。
何だか妖怪か未知の生命体と遭遇したかのように、凄まじく警戒するかのような視線を絶えず送ってくる。
「……何だよ……お前か……」
何だか急に力が抜けてしまった。
「晴司、アタシも一応客なんだからな。そこんとこ理解しろよ?」
「へいへい。で? どうする?」
「そうだな……とりあえず、オレンジジュース」
「かしこまりましたよ」
ある程度慣れていた俺は、手際よくオレンジジュースを氷入りのグラスに入れ、カウンターに座る黎に差し出す。
黎の格好はスーツだった。時刻はちょうど昼時。昼休み中に様子を見に来たみたいだった。
店内をキョロキョロと見渡した黎は、どこか不安そうな表情を浮かべ、改めて俺の方を向く。
「……なんか、静かだな」
「まあな。客が来ないんだから、こんなもんだろ」
「はあ? 客が来ないって……それで経営成り立つのか?」
「成り立つはずがない!!」
胸を張り、やけくそ気味に自信満々に断言してみた。
それを見た黎は頭に手をやり、首を左右に数回振る。
「……まったく、自信満々言えることじゃないだろう……」
(分かってるよ!! 嫌っちゅうほど理解してるよ!!)
すると、黎は何かに気付いたように店の奥の方を覗き始めた。
「……なあ晴司、店長はどうしたんだよ」
「ああ、いねえ」
「買い出しか何かか?」
「いや、違う。いないんだよ」
「はあ? どういうことだ?」
「いや、実はな……」
ことの次第を黎に説明する俺。
説明する中で、改めて騙された感が沸き起こってくる。てか、一度も顔出さないってやっぱり異常だよな……
「……晴司、それって、経営押し付けられたんじゃないか?」
「言うな!! ……考えただけで、頭痛がする……」
「……はあ」
黎はわざとらしいくらいの溜め息をついた。
かと思いきや、急に真顔になってしまった。顎に手を当て、何かを真剣に考えていた。
「………」
「おい黎? どうしたんだ?」
「……いや、別に……」
どう見ても、別に何もないわけがない様子だった。
何だか言いようのない不安に苛まれる。
しばらく考え込んだ後、黎は急に勢いよく席を立った。
「……うん、決めた」
それだけを言い残し、そそくさと店を出ようとする黎。
「おい黎!! どうしたんだよ!!」
黎は、俺の声に反応することなく、決して振り向くことなく歩き去った。
「何なんだよ……」
そして、俺は一つのことに気付いた。なぜ気付かなかったんだろうか……
「あ、ジュース代……」
……黎に、飲み逃げされた。
==========
二日後。いつも通りガランとする店内に、突然勢いよく開くドアの音が轟いた。
「うえぉっ!!??」
ビックリして妙な声を出してしまった。
「よう晴司!!」
元気よく声をかけてくる人物は、当然黎だった。
平日の午前中、なぜかラフな私服の黎。手には大きなバッグが。
「お、お前、何してんだ? 会社は休みなのか?」
「ああ、会社なら辞めた」
黎は、あっさりと答えた。
「……は? 何だって?」
「だから、会社辞めたんだよ」
「………」
辞めたって、辞職ってこと? 課長なのに??
「……はあああああああ!!??」
「厨房見せてもらうよ」
「お、おい!! どういうことだよ!!」
黎はズゲズゲと店の奥に歩いて行き、キッチンを確認するように見て回る。
「おい黎!! だから、辞めたって何でだよ!!」
「……分からないのか?」
厨房の上段収納箇所の扉を開いたままの体勢で、俺の方に顔を向ける黎。
「分からないって……何が?」
黎は俺の方を向き直す。そして、満面の笑みを浮かべたまま、腕を組みハッキリと答えた。
「アタシ、今日からここで働くから」
「………」
何言っての、この子……
働く? どこで? ここって?
……まさか、この店で?
「はあああああああ!!!???」
店内には、本日二度目となる、俺の驚愕に満ちた絶叫だけが響き渡っていた。