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ありがとう……ありがとう、マスター

 その喫茶店は、街の商店街の片隅にあった。

 人通りは疎ら。シャッターが目立つ場所。そんな場所にひっそりと店を開ける喫茶店は、どこか隠れ家のようにも感じる。


「……ここかな?」


 喫茶店『奥の細道』。

 何とも胡散臭い店名ではないか。喫茶店なのに奥の細道。松尾芭蕉。店長の好みや人間像がおそろしく分かってしまう。

 本当に営業しているのか。それすらも疑ってしまうほど、存在感がない。なさすぎる。

 もはや、店に入る前に仕事の話を断わろうかと思ってしまうほど、静かだった。


「とりあえず、入ってみるか……」


 俺は、意を決して中に入る。


 中は、やはり期待を裏切らないほど寂しいものだった。

 ゆっくりとした眠くなるような音楽が流れている。店内の壁には、余計なポスターはなく、どこか歴史を感じる。

 カウンター席を見渡しても、向かって左隅にいる中年くらいの女の人しかいない。


 そしてコンビニに来た老人は、カウンターにいた。白いカッターシャツにスーツのズボン、黒いエプロンを下げている。

 ガラスのコップを吹きながら、老人はその客と何かを話していた。


(取り込み中だったかな……)


 とりあえず、空いたカウンターに座る。老人は俺の存在に気付き、ニッコリと微笑んだ。

 その顔に片手を上げ合図を送ると、老人は再び客と話を始める。


 ……よく見れば、その客は泣いていた。なぜかは分からない。会話内容が聞こえない。まあ、聞き耳を立てるなんて無粋な真似はするつもりもないが……





 ==========





 しばらくすると、その客は帰って行った。最後には深々と老人に頭を下げる。

 老人はその人に優しい笑顔を送り、見送った。そして俺の方を改めて見て、挨拶をしてきた。


「よく来てくれたね。待っていたよ」


「はあ……あの、さっきのお客さんはお知り合いの方ですか?」


「いや、今日初めて会った人だよ」


「は、初めてなんですか?」


「そうだよ」


(初めての客なのに、涙を流すとは……このマスター、何者?)


 その老人は、仙人か何かなのか? 普通初めて入る店の店長に涙を見せるものか?


「……あの、店長。さっきは何をしてたんですか?」


「ああ、ただの相談ごとだよ」


「そ、相談……」


 ますますこの喫茶店のことが分からなくなった。


(何故喫茶店で相談? 知らない店長なのに? うっそだぁ……)


 もしかしたら、そんなことを考えることが顔に出ていたのかもしれない。店長は俺にゆっくりと話し始めた。


「ここはね、色んな悩みを持つ人が来るんだよ。

 人間ってのはね、誰しも悩みや苦しみがあるんだよ。それは、人にはとても言えないことが多い。自分の心に押し込めて、誰にも話せず、そして、いつかはその人を飲み込むんだ」


「………」


 宗助を思い出した。その話は、俺にとって宗助のことだった。だからこそ、俺は余計に黙って聞き続けた。


「私はね、そんな人を少しでも助けたいんだよ。だからこうしてカウンターに立って、そんな人たちを待ってるんだよ。

 私に話すことで、楽になるかもしれない。何かがいい方向に変わるかもしれない。そう思うと、中々辞められなくてね……」


「……辞めたいんですか?」


 老人は、少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。


「私も歳だからね、たった一人でこうやって切り盛りするのがキツくなってきたんだよ」


(それで俺を従業員として雇うわけか……)


 まあ、それならいいかな。そんな風に思った。

 もしかしたら、この老人は宗助のような人を助けてきたのかもしれない。そう思うと、このままこの店が畳まれるのが勿体ないと感じた。

 そのサポートが出来るなら……俺は喜んで仕事をしよう。


「確か、楠原くんと言ったかね?」


「は、はい。楠原晴司です」


「では晴司くん、キミに任せていいかね?」


 その問いに、俺は元気よく答える。


「もちろんです!!」


「よかった……それなら、まずこれを受けてもらえるかな?」


 そうやってマスターが差し出したのは、一枚のパンフレットだった。


「食品衛生管理者講習?」


「それを受けないと、無理なんだよ」


(アルバイトでも必要なものなのか?)


 よく分からないが、おそらくそうなのであろう。喫茶店と言えば、色々な食料品を扱うしな。当然か。


「分かりました。これを受講すればいいんですね?」


「なら、まずは……」


 

 こうして俺は、講習を受けることになった。

 衛生法規、公衆衛生学、食品衛生学……

 聞いたこともない内容だったが、どこか新鮮な気分だった。遠い日の高校生活を思い出す。あの頃はあんなに授業が嫌だったのに、この歳になると、どこか懐かしく感じ、生き生きと講習を受けることができた。

 小テストは面倒だったが、何とかパスした。


 そして数日後、終了証を片手に、俺は喫茶店へ駆け込んだ。


「マスター! 終わったぞ!!」


「やあ晴司くん。お疲れ様だったね」


 そう言ってマスターは、温かいコーヒーを出した。

 コーヒーを一口飲む。うん、実に優雅だ。……苦いけど。


「マスターこれで俺は……」


「ああ。これで、キミに引き継ぐことが出来るよ」



 ……何やら、妙な言葉が聞こえた。


(引き継ぐ? 雇うの間違いでは? 言い間違えたのかな……)


「嫌だなぁマスター。それを言うなら、引き継ぐんじゃなくて、雇うでしょ? びっくりしましたよ……」


「言い間違えてなんかいないよ。キミに、引き継ぐんだ」


 やはり、何やら恐ろしい言葉が聞こえた。

 いやいや、そんなわけない。だけど、実際にマスターはハッキリとした口調で言ったわけだが……


「……引き継ぐって……何を?」


 すると店長は、キッパリ断言した。


「決まってるだろう。“この店”だよ」


「………ですよねー」


 マスターは隠居したい。だから俺を後任に。それで食品衛生管理者講習を受講させる。俺受かる。晴れて店を任せる。


(なるほど……そういうことか………)



「………って、ええええええええ!!??」



 

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