第七話
ティリアは、夕食の後は基本的に部屋から出ない。
ソンツェに「おやすみなさい」と挨拶をしたら、そのまま眠る。
最初の頃は「僕はこれからが活動時間なのに、君は寝るの?」と正気を疑われるような顔で言われたけれど、日の出と共に起きて、洗濯や掃除をしているティリアからすれば夜に寝ないでいつ寝るのかという話だ。
それに、夜は吸血鬼の時間だ。人であるティリアが立ち入るべきではない。そう言い聞かせて、ティリアは自分の中に線を引く。
お陰で、未だソンツェの妻とは顔を合わせていない。
一度だけ、彼が夫婦の寝室に入っていくのを見た。夜中に喉が渇いて、厨房に降りた帰りのことだ。
ソンツェは日頃、ティリアの寝起きする部屋の廊下を挟んだ向かいの部屋で過ごしている。らしい。寝ている間のことはわからない。
もしかしたら妻などおらず、かつてのあの部屋を大事に保存しているなんてことはないだろうか。実際、同じ邸に住んでいて、いくら昼夜逆転しているからとはいえ、こんなにも顔を合わせないなんてことがあるだろうか。
そんなことを考えた矢先、あの部屋を訪う彼を見た。
一輪のバラを手にして。そのバラに口づけて。声を掛けてドアを開けていた。
なぁんだ、と思った。
やっぱり妻がいるのだな、と。
そうして、わかりきっていたことに、ショックを受けている自分にがっかりした。
二百年だ。死んで、二百年経って思い出した自分とはわけが違う。それだけの時間が、彼の上に流れた。
欲を言えば、彼の心の片隅に、どこか小さな場所にリリアンが大切に仕舞い込まれていればと願う。出来れば、ふとした折に思い出して、彼の心を暖められたらいいのに、と。
けれど、死んでしまった自分と違って、遺された彼からすればどれほどの痛みだったことか。二度と思い出したくないと思われていたって、仕方ない。
それでも、彼は墓碑に『最愛の妻』と刻み、あの離れを墓所にしてくれた。
離れは今も綺麗に保たれ、陽光は変わらずあのサンルームに差し込んでいる。
それだけで、十分過ぎると満足するべきなのに、浅ましくもこうして邸に居座っている。
だからティリアは、夜はますます部屋から出ないで済むように、夕食後は部屋に水差しまで置くようにした。
それなのに。今夜、まんまと鉢合わせた。
明日は食材の買い出しに行くから、必要なものがあれば言うようにとジーナに言われていたことを思い出したのは、ベッドに寝そべって少ししてからのことだ。
パイに使う果物をお願いしたくて、ソンツェに見られてもギリギリ問題なさそうなワンピースに着替え、ドア越しに周囲を窺ってから部屋を出た。
厨房でひとしきりジーナと話し、リンゴのパイと、ジーナが好きだというクルミパイを焼く約束をして、部屋に帰りかけた時、小さな声で「ただいま」と玄関ドアを開けた女性と鉢合わせたのだ。
ティリアはびっくりしながらも、咄嗟に「お帰りなさいませ」と頭を下げた。
「あ、違うのよ、私……えーと、新入りさんかしら?」
恐る恐る顔を上げると、見たことのある顔だった。
見たことがある、と言っても、それはティリアではなく、リリアンの記憶だ。
彼女もまた吸血鬼だ。
群青の髪を肩から流し、前髪の隙間から美しい金色の目が覗く。顔立ちの美しさもさることながら、その豊満な胸を強調したドレスに、同性だというのについつい視線が吸い寄せられそうになる。
それなのに、なんとなく威圧感も感じる。懐かしい感覚だ。物陰に潜む吸血鬼を、注意深く探していた頃の感覚。
リリアンが生まれて初めてソンツェを目の前にした時には、その圧倒的な威圧感に体が強ばる気がしたけれど、彼が人間に対して絶対に無体を働かないと信頼してからは、そんな無意識の緊張すらなくなってしまった。ゾニッツもまた然りだ。
それでも、こうした感覚を覚えるということは、ティリアの中には今も吸血鬼狩猟者だった頃の体感が根付いているらしい。
もっとも、イーヒャとて、人に無体は働かない。
当時からソンツェとは気安く話していた女性で、ちょっぴり嫉妬していたこともあるが、ソンツェと結婚してからも、彼女は時折邸を訪れて、リリアンのパーティドレスを選ぶなど、なにかと相談にのってくれたくらいだ。
「は、初めまして。ティリア・カライアと申します。お、奥様にはご挨拶が遅くなりまして、大変申し訳ございません」
ぺこりと頭を下げると、女の息を漏らすような笑いが耳に届いた。
「いいのよ。私は、イーヒャ。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い申し、いたします」
「ふふ、そんなに緊張しなくていいのよ。あの人はどこ?」
「ソ、旦那様は、たぶん書斎か、私室かどちらかには……」
「いいわ、行ってみるから」
「すみません。失礼します」
胸が痛む。思っていたのと、その存在を目にするのとでは実感が違う。
同時に、安堵もあった。
ああ、彼は、ちゃんと同じ時間を生きられる相手を得たのだ、と。
唇を噛んで、もう一度頭を下げてから背を向けて歩き出したティリアに声が掛かった。
「あなた、足を痛めたの?」
「……子供の頃に。木から落ちてしまってその時に。お見苦しくて申し訳ございません」
「そう。それは痛かったでしょう? 人の子は脆いものね。今は大丈夫なの? いえ、大丈夫じゃないわよね。そうして足を引きずってるんだもの。ごめんなさい」
労るようなイーヒャの言葉に、いえ、と首を振ってみせる。
「今はもう、たまに痛むくらいですから。お気遣いいただきありがとうございます」
「うちの……あ、いえ、知り合いが使っている薬があるの。よく効くらしいから、今度届けさせるわ」
「恐れ入ります」
「イーヒャ?」
ソンツェの声が掛かった。彼は書斎にいたらしい。
「ティリアも。珍しいな、この時間に」
「あ、奥様にご挨拶しておりました」
足早にやって来たソンツェは「奥様?」と訝しげに眉を寄せる。
なんでそんな表情をするのだろうかと不思議に思った瞬間、イーヒャが「違うのよ」と笑み含んだ声で言った。
「彼女に奥様と間違えられてしまって。面白くなって、ちょっと冗談を言っただけなの」
「え……」
冗談。間違えられてしまって。
心の中で反芻しても、ほんの少し前に感じた痛みや安堵が強すぎて、うまく事態が飲み込めない。
「君にしては子供じみたことをするね。……ティリア、彼女は僕の友人だよ。五家当主のひとりでもある」
「五家……」
「……それも知らないんだね」
顎をひと撫でしたソンツェの隣に立ったイーヒャは「イーヒャ・フェルノアよ。ここには月に一度は来るからよろしくね」と微笑んだ。
「よろしくお願いします」
五家とはなんだろう。考えて、そういえば吸血鬼一族は吸血鬼狩猟者と違い、いくつかの家名を持っていたかと思い至った。ただ、それは五つに収まらない数ではなかったか。
それに、あの頃は、彼女は当主ではなかったはずだ。イーヒャの父親とは結婚式で顔を合わせたし、娘思いで仲のいい親子だと思った覚えもある。吸血鬼はそうそう死んだりしないけれど、当主を娘に譲るということはあるのかもしれない。
いずれにしろ、今更それを持ち出す流れではないだろう。
「では、おやすみなさいませ」
「あら、寝るの?」
イーヒャが目を丸くして尋ねた。
この邸の使用人の多くは、主人に合わせて夜に活動する。ここではティリアの方が例外なのだ。
「はい。私は日中働いて、夜は休ませていただいております」
「そう。そうよね。人間にはそれが普通よね。おやすみなさい」
「おやすみ~よい夢を」
ひらひらと手を振るソンツェにも頭を下げて、精一杯の早足で階段を上る。
痛みに気づいた彼が、抱き上げて部屋に送ると言い出さないように。
◇ ◇ ◇
イーヒャの来訪があった翌日。
夕食の後、いつものように「おやすみなさいませ」と頭を下げたティリアは「この後、少しいいかな?」とソンツェに引き留められた。
「女性の来客がある度に、妻と間違えられても困るからさ。会わせるよ。妻に」
「あ、りがとう……ございます」
トクトクと心臓が鳴る。ほんの昨日、痛みと安堵を味わったその翌日に、今度こそ本当の『奥様』を紹介してくれるという。
願ったりな状況だ、と言い聞かせる。
ソンツェと、会って、しかも話せた。この七年間の切望はもう叶っている。あとはもっとくっきり線を引いたら、上手に飲み込んで、納得しているはずのことを確認するだけだ。
二階への階段をゆっくりと踏みしめる。歩調を合わせてくれる彼は、時折気遣うような視線を寄越す。それに気づかないふりで、ティリアは一段一段足を持ち上げる。
夫婦の寝室は階段を上った左側だ。
ようやく上りきって細く息を吐くと、ソンツェは「こっち」と右側に足を向けた。
「左ではないんですか?」
「うん、こっち」
そう言って彼が手招き、ドアの前で足を止める。
ソンツェの私室だ。
「入っていいよ」
先の部屋へと入った彼に招かれても、踏み出しかけて迷う。
もう一度呼吸を整えてから、ティリアはそこに足を踏み入れた。
主の私室なのだから当たり前ではあるが、ティリアが寝起きしている客室の倍以上の広さだ。それにしても、当主が寝起きする場所であることを考えたら狭い。夫婦の寝室の半分もない広さではないか。
ティリアは、ついベッドに視線をやり、人がいないことを確かめる。ドアを閉めながら、その陰になっていた部屋の反対側を見て、息を詰めた。
「妻だよ」




