第二章: 泥と鉄の奔流
本作は「もしもこの世界で第三次世界大戦、そして核戦争が勃発したらどうなるか」を描いた架空の戦記・ディストピア小説です。
第2章の舞台は、春の雪解けによって広大な泥の海と化したポーランド西部。ハイテク兵器や洗練されたNATOの戦術すら呑み込んでいく東欧の地獄「ラスプティツァ(泥期)」と、圧倒的な物量で押し寄せる敵の恐怖を描いています。戦場の凄惨な表現が含まれますのでご注意ください。
戦争には「匂い」がある。映画やゲームでは決して再現できない、鼻腔の奥にこびりつく強烈な悪臭だ。それは火薬の刺激臭であり、腐ったキャベツのような死臭であり、そして何よりも、欧外の大地が雪解けと共に吐き出す、重く湿った泥の匂いだ。202X年、4月。ポーランド西部。開戦から二ヶ月が経過していた。我々はヴィスワ川の防衛線を支えきれず、ジリジリとドイツ国境へ向かって後退を続けていた。春の訪れは、詩人が歌うような希望の象徴ではなかった。それは「ラスプティツァ(泥期)」の到来を意味していた。道路は底なしの沼と化し、NATO軍が誇る重戦車チャレンジャー2やエイブラムスは、その重量ゆえに身動きが取れなくなっていた。逆に、ロシア軍は泥に足を取られることを前提とした物量作戦に出ていた。一台がスタックすれば、それを乗り越えて二台目が進む。まるで蟻の群れだ。
「クソッ、また履帯がいかれた!」
操縦手の罵声がインカムに響く。私が指揮する歩兵戦闘車は、かつてジャガイモ畑だったであろう泥の海で立ち往生していた。車外に出ると、冷たい雨が頬を打つ。遠雷のような砲声は、24時間止むことがない。
「軍曹、予備のパーツはありません。大隊はすでにオーデル川の向こうです」
コリンズ上等兵が泥まみれの顔で報告に来た。彼の日は深くみ、最初の頃の恐怖の色は、諦めに似た無感情へと変わっていた。
「捨てていくぞ。必要な装備だけ持て。これより徒歩で西へ向かう」
「……本気ですか?ここから国境まで50キロはありますよ」
「ここに留まれば、ロシアの砲兵隊が良い的にしてくれるさ。歩くんだ、コリンズ」
我々は泥の中を歩き出した。道中、同じように放棄された車両の列を見た。ドイツのボクサー装甲車、アメリカのブラッドレー、そして黒焦げになった民間の避難車両。ハイテク兵器の墓場だった。ジャベリンも NLAWも、撃ち尽くしてしまえばただの重い筒だ。肝心の補給トラックが泥に沈んでいるか、あるいはロシアのドロ
ーンに焼かれているのだからどうしようもない。夜になり、廃屋となった農家で休息をとった。屋根は半分吹き飛び、壁には無数の弾痕があったが、雨風を凌げるだけマシだった。先客がいた。片足を失ったポーランド軍の兵士と、頭に包帯を巻いたアメリカ海兵隊の通言兵だ。
アメリカ兵がいるのは珍しかった。開戦当初、主力となるはずだった彼らの大半は、今この場にいなかったからだ。
「よう、トミー。タバコはあるか?」
アメリカ兵が力なく笑った。私は湿気た煙草を一本放り投げた。
「あんた、海兵隊か。なんでこんな内陸にいる?」
「迷子になったのさ…というのは嘘で、本来はキエフへ向かう大使館員の護衛だった。今はご覧の通り、落ち武者だ」
彼は通言機を撫でた。バッテリーが切れかけているのか、赤いランプが弱々しく点滅している。
「状況はどうなってる?司令部とは繋がるのか?」
「司令部はパニック状態だ。だが、面白い放送を拾ったぜ。太平洋の話だ」
彼がボリュームを上げると、ノイズの向こうから英語のニュース音声が流れてきた。
「……第7艦隊は台湾海峡における戦闘で、空母ロナルド・レーガンが大破との未確認情報…..中国軍は沖縄近海へのミサイル攻撃を示唆しており……ホワイトハウスは本土防衛のため、予備役の総動員を……」
その場にいた全員が黙り込んだ。焚き火の音だけが響く。
「言じられるか?」
アメリカ兵が自嘲気味に言った。
「俺たちの空母が燃えてるんだとさ。不沈艦だと思ってたのにな」
「……だから、航空支援が来ないのか」
コリンズが膝を抱えて呟いた。
「空の主役は太平洋に行っちまった。ここにあるのは、冷戦時代の遺物と、使い捨てのドローンだけだ」
アメリカは引き裂かれていた。東アジアでの|台湾有事」は、予想を遥かに超える規模で拡大していた。中国の飽和攻撃に対し、アメリカは海軍・空軍の主力を太平洋へ振り向けざるを得ない。結果、欧州戦線は「見捨てられた」形になった。もちろん、完全にではない。だが、圧倒的なロシアの物量を押し返すのに必要な「圧倒的な暴力」は、ここにはもうなかった。その時、地面が揺れた。砲撃ではない。もっと継続的な、地響きのような振動。私は反射的にライフルを掴み、窓の外を覗いた。暗視ゴーグルの緑色の視界の向こう、森の木々が次々となぎ倒されていくのが見えた。
「おい、冗談だろ……」
ポーランド兵が叩いた。森を抜けて現れたのは、戦車の壁だった。T-72、T-80、最新のT-90M、そして•董品のようなT-62までもが混在している。洗練されたNATOの戦術など関係ないと言わんばかりの、ただ前へ進むためだけの鉄の津波。空には無数のクワッドコプター・ドローンが、蚊柱のように舞っている。
「総員退避!ここも飲まれるぞ!」
私が叫ぶのと同時に、農家の壁が爆風で吹き飛んだ。戦車の主砲による直撃ではない。ドローンが投下した榴弾だ。粉塵の中、私はコリンズの襟首を掴んで引きずり
出した。アメリカ兵も足を引きずりながら続く。だが、片足のないポーランド兵は動けなかった。
「行け!俺はここに残る!」
彼は手榴弾を両手に握りしめていた。
「頼む、行ってくれ!」
躊躇している時間はなかった。私たちは闇の中へ飛び出した。
背後で邀しい銃声が響き、やがて大きな爆発音にかき消された。森の中を走りながら、私は「奔流」の意味を理解した。ロシア軍は、戦略や戦術といった理屈で動いてはいなかった。ただ、巨大な質量となって、西へ西へと流れ込んでいるのだ。彼らもまた、必死だったのかもしれない。後ろからは戦隊が銃を構え、前には敵がいる。止まることは死を意味する。だから彼らは、泥と鉄の塊とな
って押し寄せてくる。夜明け頃、私たちはドイツ国境のオーデル川を見下ろす丘にたどり着いた。川には工兵隊が架けた仮設橋があり、そこを数え切れないほどの避難民と軍用車両が渡っていた。だが、対岸のドイツ側には、黒煙が上がっていた。後方浸透したスペツナズ(特殊部隊)か、あるいは長距離ミサイルか。安全地帯など、もうどこにもなかった。
「軍曹、見えますか」
コリンズが指差した。東の空が白んでいく中、地平線を埋め尽くす黒い点が見える。ロシア軍の機甲師団だ。その数は、昨日見た時よりも増えているように見えた。我々は技術で勝っていた。土気でも勝っていたはずだ。だが、そんなものは圧倒的な「数」の前では無力だった。
「アイオワの冬も寒いが、あの時の朝の寒さは別格だった」
私は焚き火に新をくべた。難民キャンプの聴衆たちは、息を呑んで話を聞いている。
「私たちは、自分たちが歴史の主役だと思っていた。正義の側にいて、最後には勝つと言じていた。だが、歴史というやつは、時として正義よりも鉄の量を優先する」
私はポケットから、煤けた認識票を取り出した。あの廃屋で死んだポーランド兵のものだ。
「ドイツに入ってから、戦争は形を変えた。泥の戦いは終わり、コンクリートと瓦礫の迷宮での殺し合いが始まったんだ。そして、空気が変わり始めた。物理的な意味ではない。もっとこう、狂気を孕んだ匂いが漂い始めたんだ」
オーデル川を渡った私たちは、まだ知らなかった。ロシアの進撃が止まらないことに焦りを覚えたクレムリンの指導者が、いよいよ「禁断のカード」に手を伸ばしっつあることを。そして、我々が目指していたベルリンが、欧州最期の墓標になろうとしていることを。
第2章をお読みいただき、ありがとうございました。
どれほどテクノロジーで勝っていようと、押し寄せる圧倒的な「質量」の前には無力であるという現実。そして、太平洋での戦局悪化によって欧州が見捨てられていく絶望感を、アーサーたちの足元をすくう「泥」とともに描きました。
次回第3章では、ついに戦線に不穏な「赤い空」の予兆が忍び寄ります。
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