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第一章:境界線が溶ける夜

本作は「もしもこの世界で第三次世界大戦、そして核戦争が勃発したらどうなるか」を描いたフィクションである。

作中には生々しい戦場や暴力の描写が含まれるが、現実の戦争の凄惨さはこんなものではない。それでも、この「最悪の可能性」を忘れないためにペンを取った。

グラスの中の液体は、ウィスキーというよりは燃料用アルコールに近い味がした。だが、この凍てつくアイオワの夜には、胃袋を焼くその熱さだけが唯一の救いだ。私の周りには、分厚いコートや毛布にくるまった人々が集まっている。かつて「アメリカ合衆国」と呼ばれたこの土地の生存者たちだ。彼らの瞳には、かって我々が持っていたような傲慢な輝きはない。あるのは飢えと、恐怖と、そしてわずかな好奇心だけだ。私の着ているボロボロの軍服、右肩に残るユニオンジャックのワッペンを見て、一人の少年が尋ねた。

「ねえ、本当に見たの?あの光を」

私は頷き、グラスを置いた。喉の奥が熱い。

「ああ、見たよ。だが、光の話をする前に、まずは闇の話をしなきゃならない。あの冬、世界がまだ眩しいほどに明るく、そして愚かだった頃の話を」

始まりは、雪解けの泥の匂いと共にやってきた。

202X年、2月。ポーランド東部、スヴァウキ・ギャップ近郊。私が所属していたイギリス陸軍王立連隊の第1大隊は、NATOの緊急展開部隊(VJTF)の一部として、リトアニアとの国境沿いに展開していた。その頃、世界中のニュースはウクライナの「崩壊」を報じていた。数年に及ぶ膠着状態は、ロシア軍が投入した新型の自律型ドローン群と、戦術的な化学兵器の使用疑惑によって一夜にして破られた。キエフが陥落したという報せは、我々の携帯端末に通知されるよりも早く、風に乗って伝わってきたような気がした。

「軍曹、またロシアのが越境してきました。今度は爆撃機じゃありません。機甲師団です」

部下のコリンズ上等兵が、青ざめた顔でタブレットを差し出した。画面には、ベラルーシ国境を越え、ポーランド領内へと雪崩れ込む無数の熱源反応が映し出されていた。演習ではない。威嚇でもない。それは明確な侵略」の形をしていた。

「司令部への確認は?」

「繋がりません。ジャミングです。全帯域がホワイトノイズで埋め尽くされています」

コリンズの声が震えている。無理もない。彼はまだ 22歳で、マンチェスターのパブで喧嘩をした経験しかなかった。私は双眼鏡を覗いた。地平線の彼方、雪に覆われ

た針葉掛林の向こう側から、黒い煙が立ち上っているのが見えた。腹の底に響くような低い振動。それは遠雷ではなく、重砲の砲撃音だった。その時、私のヘッドセットが不快なノイズと共に生き返った。

「ーーこちら司令部。ブラボー・ツー、応答せよ』

「こちらブラボー・ツー。ペニーワース軍曹だ。状況を求む」

「全小隊に通達。コード・ブラック。繰り返す、コード・ブラック。第5条が発動された」

第5条…通称アーティクル・ファイブ。北大西洋条約機構条約第5条。「一国への攻撃は、全加盟国への攻撃とみなす」。冷戦時代から、その言葉は世界を繋ぎ止める

鎖であり、同時に世界を破滅させるトリガーでもあった。それが今、引かれたのだ。「ターゲットは?」

「目の前の全てだ、軍曹。ロシア軍はバルト三国およびポーランドへの同時侵攻を開始した。現時刻をもって我々はロシア連邦との戦争状態にある」

通言が切れると同時に、空が裂けるような音が頭上を通過した。巡航ミサイルだ。一発ではない。数十、いや数百の死の鳥たちが、西へと向かって飛んでいく。ワルシャワか、それともベルリンか。

「軍曹!前方、敵影視認!T-14 戦車の小隊規模!」

コリンズの叫び声で、私は現実へと引き戻された。政治の話は終わりだ。ここからは、ただの殺し合いの時間だ。

「総員、戦闘配置!ジャベリンを用意しろ!塹壕から頭を出すなよ!」

私はライフルを構え、部下たちを叱咤した。雪原の向こうから、白い冬季迷彩を施したロシア軍の戦車が、まるで氷河が押し寄せるように迫ってくる。その砲塔に

は、禍々しい赤いペンキで「Z」の文字が重ね書きされていた。最初の発砲音は、私の右側にいたドイツ軍のレオパルト2戦車のものだった。轟音と共に、先頭のロシ

ア戦車が火を噴く。それが、私の「欧州戦争」の始まりだった。最初の3日間は、地獄という言葉すら生温かいほどの混沌だった。空は常にドローンと戦闘機で埋め尽くされ、どちらが優勢なのかもわからないまま、鉄と肉片が降り注いだ。我々はスヴァウキ・ギャップを死守しようとした。ここを抜かれれば、バルト三国は完全に孤立する。だが、敵の数は圧倒的だった。倒しても倒しても、次から次へと装甲車が湧いて出る。まるで、ロシア全土の鉄をここに集めたかのようだった。

「クソッ、弾が足りない!補給はどうなってるんだ!」

隣の塹壕で、フランス兵が叫んでいた。本来なら、アメリカ空軍による大規模な航空支援があるはずだった。制空権を確保し、A-10やF-35が地上の敵を掃討してくれるはずだった。だが、支援は来なかった。あるいは、来たとしてもあまりに少なかった。4日目の夜、泥と血にまみれて撤退準備を進めていた我々の元に、奇妙な噂が届い

た。通言兵が、震える手で衛星ラジオのチューナーを回していたときだ。BBCのワールドサービスが、雑音混じりに言じられないニュースを伝えていた。

『ーー中国人民解放軍は、台湾海峡における軍事演習からそのまま実戦へ移行……台北へのミサイル攻撃を確認……米太平洋艦隊は……』

その時、私は理解した。なぜ空爆が少ないのか。なぜ補給が遅れているのか。アメリカは、引き裂かれたのだ。

欧州という古い火薬庫が爆発した瞬間を狙って、アジアという新しい火薬庫にも火が点けられた。世界最強の軍隊といえど、地球の両側で同時に発生した「世界大戦」を支えきれるはずがない。

「おい、聞いたかよ」

コリンズが虚ろな目で私を見た。彼は左腕を負傷し、包帯には血が滲んでいた。

「アメリカさんは忙しいらしいな。俺たちは見捨てられたのか?」

「馬鹿を言うな」

私は彼の肩を叩いたが、自分自身の言葉に自言が持てなかった。

「NATOはアメリカだけじゃない。我々がいる。イギリスが、ドイツが、フランスがいる」

「でも、相手はロシアと中国ですよ?世界中が敵だ」

遠くでまた爆発音がした。今度はもっと近い。我々はスヴァウキ・ギャップを放棄し、ヴィスワ川の西岸まで後退する命令を受けていた。それは実質的な、ポーランド東部の放棄を意味していた。トラックの荷台に揺られながら、私は東の空を見上げた。燃え上がる街の灯りで、夜空が赤く染まっている。

それはまるで、これから訪れる本当の地獄を予言しているかのような、不吉な赤色だった。これが、長い冬の始まりだった。まだ誰も、核のボタンに手がかけられるとは本気で思っていなかった頃。我々はただ、明日生き残ることだけを考えていた。だが、ベルリンに向かう道は、想像以上に長く、そして残酷なものになることを、私はまだ知らなかったのだ。「.....そうして、最初の防衛線は崩壊した」

私はグラスの底に残った酒を飲み干した。キャンプの焚き火が爆ぜる音が、当時の砲撃音と重なって聞こえる。少年の目が、炎を映して揺れている。

「怖かった?」

「ああ、怖かったさ。だが、本当に恐ろしいのは、敵の戦車でもミサイルでもなかった」

私は息を吐いた。白い息が、夜の闇に溶けていく。

「本当に恐ろしいのは、人間が『後戻りできない一線』を越えたと気づいた瞬間の、あの静けさだ」

第1章をお読みいただきありがとうございます。

崩壊し始めた欧州戦線で、アーサーとコリンズ、そして世界はどこへ向かうのか。

次章、さらなる怒濤の展開をお楽しみいただければ幸いです。評価や感想もお待ちしております。

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