ここ最近の執筆のテーマは『我慢』です。
ここ最近の執筆のテーマは『我慢』です。
一体何を我慢しているのか、何かを我慢してまで小説を書く必要はあるのか、様々疑問が湧くと思います。湧いてくれるほど興味がないかもしれませんが、ともかく、私は勝手に説明を始めます。「今年の漢字」や「座右の銘」は説明付きで完成するでしょうから。
本エッセイの第一文を再度見てみましょう。
「ここ最近の執筆のテーマは『我慢』です。」
こうやってカギ括弧で引用することを想定し、二重カギ括弧を用いたのですが、そんな裏事情はどうでもいいですね。私は下書きではこう書いていたのです。
「ここ最近の執筆のテーマは、『我慢』です。」
……何が違うでしょうか。サイゼの間違い探しくらい難しいと思いますが、正解は「読点があるか否か」です。ここで読点を付ける意味はないと思っています。音読したときにリズムが良くなるという意見もありますが――想像上の読み手曰くですが――元の文に二重カギ括弧があるおかげで、読点がなくとも、そこが音読上の停止線になるのです。強調の効果も十分に果たせています。まあ、書き手によって意見は割れるでしょうけど。
以上の考えに至った私は、当初の読点を削除して完成としました。つまり、この一文が完成するまでに三つの工程を辿っているわけです。
①手癖で書く
②推敲する
③違和感に気づいて修正する
私がふとひらめいたのは、①の過程で熟慮して書けば、②③は省けるのではないかということです。そうすれば執筆時間は3分の1……単純計算にも程があるでしょうが、時間の短縮には繋がります。
しかし、最大の問題が生じます。
――「疲れる」のです。
仰々しくダッシュを付けましたが、趣味においてストレスは天敵でしょう。私の書いた小説群はほとんど評価されませんし、読まれもしません。ですから、自己満足が実質的なゴールであり、そのためにはストレスフリーな方が良いに決まっています。私は疲れが生じるたび、自分が筆を折る可能性に震えているのです。
なぜ疲れるのかというと、ここでやっとあの語が登場します。「我慢」です。私は基本的に音楽を聴きながら執筆していて、リズムに合わせてキーボードをすらすら叩くのは、なかなか爽快なものです。しかし、熟慮はその手を止めます。本当なら終わりまで突っ走ってしまいたいところを、いちいち検問所で止められるのです。「ここ読点要らないよね?」だの、「『である』より『だ』にしよう」だの。
そんなもう一人の自分がうざったいですが、ある程度の効果が出ている実感があるので続けざるを得ません。ここ最近の作品と少し前の作品を比べれば、無意味な読点が減っている……ような気がします。読者の方からもそう見えていたらいいのですが。いえ、そもそも読者の方がいたらいいのですが。まあ、肝心のストーリーラインは数年前がピークだったと思えているので、文体云々は最後のあがきなのかもしれません。何にせよ、立ち止まることの意義は感じているわけです。
とはいえ、やはり突っ走りたいときもあります。そんなときは「我慢しない時間」を作ってやります。読点も推敲も気にせず、音楽に身を任せて書きたいことを書き連ねるのです。その結果、後で見返したときに、思わぬ発見や工夫が潜んでいることに気づきます。無意識のうちに、少しだけ自分が成長しているような気分になるのです。……かといって全てをこの時間にすれば、また元通りのスタイルになってしまいますが。
結局のところ、我慢と自由は相互に補い合う存在です。我慢ばかりでは疲れるし、自由ばかりでは文章が迷子になる。だから私は、書くたびにその二つの間を行き来します。立ち止まり、考え、また突っ走る。そんな繰り返しの中で、私の文章は少しずつ形を整えていくのです。
そんなわけで本エッセイは、これまで述べたような姿勢を補強する燃料として書き出しました。読み手のことをあまり考えていないため、読者からすれば独りよがりに見えるかもしれません。……それでいいのです。以上の文章を通して、私の姿勢に一本の芯を通せればいいのです。
それでは改めて所信表明をしましょう。
ここ最近の執筆のテーマは、『我慢』です。




