199・世界の歪み
ベルカイムの王城。
薄暗い地下牢屋の一室に──ディートヘルムはいた。
「残念ながら、私の夢はあと一歩のところで潰えました。しかしこれもいいでしょう」
囚人服を着させられ、傍らには楽器の類は一切ない。
そのような状況でありながらも、ディートヘルムは上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。
(まさか、あのポンコツ王子に呪いへの耐性があるとはねえ。予想外の旋律を聞けて、私は満足です)
──彼もレティシアと同じく、呪術師の一族として生まれた。
呪術師はまともな職業に就けない。ゆえに両親の収入も乏しく、貧困街で暮らしていた。
しかし彼は幸せだった。
幼い頃、両親から笛を貰った。
後から聞くと、ゴミ捨て場で拾ってきたものらしい。だが、玩具の類を持っていなかったディートヘルムは大層喜び、音楽に魅せられた。
演奏を誰にも教えてもらったことはない。
ただ自分で好きなように笛を吹き、音楽を奏でた。そうしていると、自分がこの上なく自由だと感じた。
(だが……その幸せも長続きしなかった)
とある貴族が罪を犯した。
本来なら、ディートヘルムには関係なかったが──その貴族に罪を被せられ、両親が死刑に処せられてしまったのだ。
死刑台に登る両親。
それを眺めていたディートヘルムの顔には、悲しみどころか──笑顔が浮かんでいた。
両親の胸の鼓動は絶望で満たされていた。
それを眺める観衆は愉悦の旋律を奏でている。
両親に冤罪を被せた貴族は、優越感で胸を高鳴らせていた。
それら全てが混ざり合い、至上の音楽となって、ディートヘルムの耳を楽しませたのだ。
(それから私はもっと高みの呪術師を目指し始めた。禁術を復活させようとしたのも、本当のところは間違っている世界なんて、どうでもよかったもしれませんねえ。私はただ、もっと楽しい音楽を聴きたかっただけ)
そして──レティシアに出会った。
ディートヘルムにとって最大の罪は、彼女を呪術師として覚醒させてしまったことかもしれない。
そしてそれは彼に良い影響を及ぼし、禁術の研究を飛躍的に進めることが出来た。
しかしそれは道半ばで途絶えてしまった。
楽器もなにもない牢屋で、自分は命が潰えるまで過ごすことになるだろう。
「だが──楽器など不要だ。この世界は音楽で満たされている」
ゆえに不自由な囚人の身でありながら、彼は誰よりも自由だった。
足音が聞こえる。おそらく、見張りの兵士だろう。
その音を聞いているだけで、ディートヘルムは興奮を覚えた。
(今日はどんな拷問が施されるでしょう──楽しみです)
ニヤリと口角を歪めるディートヘルムだったが、
「……?」
その場で立ち上がり、愕然とする。
「音が……聞こえない?」
最早、自分の声すら聞こえなかった。
ディートヘルムは思い切り叫んでみる。慌てた兵士がこちらに駆け寄ってくる光景が見える。
しかし肝心の音楽が聞こえなかった。
(ま、まさか……呪いが!? バカな! 禁術は未完成だったはずだ!)
本来、強すぎる呪いが解かれれば、その元凶に返ってくる。
とはいえ、禁術は発動したものの──途中で聖女によって解呪され、未完成なままだった。
この状況では呪いは跳ね返らないと思っていたし、現に今まで体や心にはなんら異常をきたさなかった。
(これが──世界の歪みだというのか?)
気付かないふりをしていた。
凡庸な自分があの笛を手に入れ、禁術を発動出来たのはおかしい。
何故なら、大昔に禁術が発動された際には、大人数の呪術師が動員されていたはずなのだから──。
魔王が倒されることによって、歪みが生まれた。
そのことをディートヘルムは感覚的に察知していたが、深くは考えなかった。
考えれば考えるほど、それは恐ろしいものだったからだ。
「神──いや、もっと高位の存在よ! 私から音楽を奪うというのか! なんという残酷な仕打ちをするのか!」
ディートヘルムは喉を震わせて叫ぶ。
だが、その叫びは耳には届かない。
音楽を誰よりも愛し、世界を誰よりも憎んだ男。
ディートヘルムは無音の世界で生きていくことを、なによりも嘆くのであった。
──世界の闇が濃くなっていくことに、気付いた者は数少なかった。