194・わたしは幸せになってはいけない
「はあっ、はあっ」
レティシア達は走っていた。
息も絶え絶え。いつ倒れてもおかしくない。しかしここで足を止めてしまえば、ディートヘルムに捕まってしまう。
ゆえに二人は足がもつれ転びそうになりがらも、なんとかディートヘルムの魔の手から逃れていた。
「さあ、もっと逃げなさい」
ディートヘルムが呪いを放出する。
それは塊となって、二人に襲いかかった。だが、即座にレティシアがそれに呪いをぶつけ相殺する。
「やりますね、レティシア。やはりあなたは出来のいい私の生徒です」
彼は余裕げに語りかける。
「では、過去の亡霊達に相手をしてもらいましょう。どう足掻いても消せない──あなたの罪にね」
再び彼が手をかざすと、そこから悍ましい呪いが放たれた。
だが、理路整然としている美しい呪いだ。ディートヘルムの正体が判明したからこそ、レティシアはそれを強く意識する。
「過去の亡霊……? 普通の呪いじゃないの──」
とレティシアは口を動かしながら呪いを相殺しようとするが、寸前──反響したような不思議な声音が耳まで届いた。
『レティシア、お前はどうしてそうなった?』
「こ、この声は……」
「レティシア!」
クロードが彼女を抱え、呪いから回避するように動く。
寸前のところで呪いの直撃を避けることが出来たが、二人とも大きく体勢を崩してしまう。
「ど、どうしたんだい? 一瞬ぼーっとしているようにも見えたが……」
「あ、あれは……わたしの父の声だったから」
こんなものは、まやかしだ。人は死んだら土へと変える。目の前の亡霊のように実体化するわけがない。
だからディートヘルムが仕組んだ演出というのは分かっていたが……胸に罪の刻印が深く刻まれているレティシアにとって、一度自分が呪い殺してしまった者からの声は、平常心を失わせるだけの十分な理由があった。
「クロード殿下も、もちろん知っているのですよね──彼女が一度、家族を全員呪い殺してしまった事件を」
家族を全員、呪い殺してしまった。
それは事実だ。
最初は父親からだった。
理由は──褒めてくれたから。
当時の自分はおかしくなっていた。
呪術師としての最高傑作と褒め称えられながら、レティシアは不自由さと孤独を抱えていた。
こんなことをしても、自分は何者にもなれない。
だったら──わたしを縛り付ける鎖を怖そう……と。
『ははは! やっぱりお前はすごい! その力で世界を思うがままに支配しろ!』
父は実の娘に殺される寸前も、笑顔を浮かべていた。
これで自分は自由になれるはずだった。
しかし父を殺しても、自分の中にあるのはぽっかりと穴が空いたような孤独。
どうして鎖を壊したというのに、自分はこんなに不幸なのだろうか?
答えを目の前の先生──ディートヘルムにレティシアは求めた。
ディートヘルムは彼女が父を呪い殺したと聞いても、全く驚く様子を見せなかった。
それどころか、「ようやくか」と言わんばかりの表情で彼女の肩に手を乗せ、こう口を動かした。
『それは……あなたの中に消せない罪が刻まれた証拠ですよ』
『罪……』
『呪いで人を殺したという罪は、あなたを一生苛む。消そうと思っても消せない──いわば、その罪こそが呪いなのです。
だけどなにも後悔する必要はない。呪術師にとって、呪いとは祝福そのもなのですから』
それ以上、彼はなにも語らずに──そしてレティシアの前から姿を消した。
彼女はそれから、呪いで人を欺き、時には害をなすことを抵抗に感じなくなった。
欲しいものがあったら、全部手に入れてやる。
そのためには手段を選ばない。
罪を重ねていくごとに、どんどんと空虚さも感じなくなっていた。
しかしそれは消えたわけではない。
ただ……目を逸らしていただけ。
数えきれない罪を自覚してしまうと、心が壊れてしまうからだ。
(覚悟は出来ているつもりだった)
だが、ディートヘルムと再会し──そして式の会場にいた人々の怨念を受け止めて、今までの罪悪感がレティシアに一気に襲いかかった。
「ふふふ、その顔です。あの時、空っぽなあなたが私に答えを求めたかのように──今は良い表情をしている。しかしもう遅い」
とディートヘルムは彼女を追いかけながら、満足げに笑う。
「レティシア、ヤツの言葉に耳を傾ける必要はない。君が昔、なにをやってきたか──ボクは知っている」
クロードにも、自分の過去を洗いざらい打ち明けていた。
そうしなければ、真っ直ぐと愛をぶつけてくる彼に不誠実だと思ったからだ。
「だが、ボクは君を愛している。それは変わらない。このことは今まで何度も言ってきたことだろう?」
クロードが優しげに声をかける。
彼の声を聞いているだけで、レティシアは冷静さを徐々に取り戻していった。
「そ、そうね。ちょっと動揺しちゃったわ」
とレティシアは一度深呼吸をして、心を安定させる。
「もう大丈夫。逃げましょ」
再びレティシアは逃げ始める。
しかし禁術の影響もあると思うが──ディートヘルムは一級品の呪術師だ。そうでなければ、とっくの昔にレティシアが彼を振り切っている。
なのでこれが相手の思惑通りだと薄々察しながらも、彼女はその狙いに乗るしかなかった。
──そうして二人が辿り着いたのは王城の屋上。
ここから王都の風景を眺めることが出来る。街の至る所では光が灯されていて、それはまるで夏の蛍火を思わせた。
(本来ならロマンティックな夜景なんだけどねえ……)
だが、今はそれをゆっくりと眺めている場合ではない。
完全に逃げ場所を失ってしまった。
レティシアとクロードは振り返り、ディートヘルムとあらためて対峙する。
「あんたはまだ、世界を変革するつもりなの?」
レティシアは視線を鋭いものとして、そう問いかける。
逃げられない──戦っても勝ち目はない。
この状況で出来ることは、救援がくるまでの時間稼ぎだった。
彼女の思惑に気付いていないのか──それとも、仮に時間稼ぎをされても問題ないと考えているのか、ディートヘルムが話に乗る。
「私が昔、言ったことを覚えていないのですか?」
「覚えてるわよ。呪術師が虐げられている世の中を変えたいのよね。だけど今のあんたがやっていることは、人を不幸に陥れているだけだわ。どうしてこんなことをするの?」
「私の方こそ、お聞きしたいですよ。どうしてあなたは、こうなってしまった?」
「……?」
ディートヘルムから出た言葉に、レティシアは首をひねる。
彼は一歩ずつ、ゆっくりと彼女らに滲み寄りながら、こう問いを重ねた。
「昔のあなたはもっと良い目をしていた。他人を信じず、自分の養分にすることしか考えていなかった。そしてそれは、実の父を呪い殺してから加速した」
「否定しないわ。あの頃のわたしは、誰も信じることが出来なかった。だけどなんの関係が……」
「私はあなたに呪術師の未来を見た」
こいつはなにを言っているんだろう?
レティシアはそう思うが、気付けば彼の言葉に聞き入っていた。
「あなたは呪術師としての最高傑作。数年もすれば、私以上──いえ、世界一の呪術師になれました。だからこそ、私はあなたを育てることに至高の喜びを感じていた」
「それは初耳ね。あんたから聞いていなかったら、とても光栄なことだったかもしれないわ」
「もっと誇ってください。それほど、あなたは天才だった。そして罪を背負い、覚醒したあなたを見て、私は自分の役割が終わったと悟りました」
「だからわたしの前から、なにも言わずにいなくなったってわけ。顔も声も変えたのは、わたしに探されたくなかったってところ?」
「そうです、私の後を追っては、あなたは呪術師として腐ってしまう──そう感じましたから」
寂しそうな表情で、ディートヘルムは言った。
「あの頃のわたしは、あんたが目標だったわ。誰よりも強く、誰よりもキレイな呪いを使うあんたにね。それなのに、どうして腐るだなんてことを言うのかしら?」
「いえ、私はただの凡人でした。禁術を復活させようとしていましたが、壁を感じるくらいには……ね。しかし、今のあなたは調教され、人々の愛玩動物と成り下がった哀れな生物のようだ。どうして、そうなったのか……分かりますか?」
「分からないわよ。知りたいとも思わない」
「でしたら、私が教えてあげましょう。あなたは罪から目を背け、幸せになろうとしました。それこそが、あなたが弱くなった理由です」
ディートヘルムの言葉に、レティシアは咄嗟に言葉を返せなかった。
「呪術師が、人々からどんな扱いを受けてきたのか忘れたのですか?」
──呪術師という人種は、昔から差別されてきた。
無論、それは大昔にあった禁術のことが発端だったのかもしれない。
呪術師だとバレれば石を投げられ、結婚も制限される。束縛されて束縛されて……呪術師は悲鳴を上げ続けてきた。
(だからわたしは……呪術師であることを隠して、欲しいものは全部自分のものにしてきた)
その過程でレティシアは罪を犯し、時には人を呪い殺してきたことも事実だ。
それは彼女の消せない罪。
自分の罪と向き合っている──つもりだった。
「忘れないでください。呪術師は幸せになれない。人々に不幸を振り撒く存在です。そのことを忘れ、自分一人だけが幸せになろうとする──虫唾が走るんですよ。だから今日という日を、私は破滅の始まりにすることにしました」
「き、貴様……っ! 貴様にレティシアのなにが分かるんだ!」
クロードが今にも飛びかかりそうなくらいに、怒気を放つ。
しかしディートヘルムは涼しげな表情。
「あなたよりは分かっていますよ。あなたこそ、呪術師の正体を分かっていない。呪術師は──そして呪いとは、邪悪なものです」
「黙れ!」
クロードがとうとう我慢出来ずに動く。
屋上の至る所には、飾りの剣が置かれている。彼はそのうちの一つを手に取って、ディートヘルムに襲いかかった。
しかし。
「な、なんだとっ!?」
ディートヘルムはその剣を素手で受け止める。
(呪いを完全に扱っている……)
いくら飾りの剣で実用性は低いといえ、人間一人を傷つけることは容易なはずだ。
それなのにディートヘルムが無傷な理由。それは手に呪いを集中させ、ダイヤモンドのように強固にしているのだ。本来、呪いはこのような便利な使い方は出来ないはずだが、これも禁術の効果だろうか。
「く、くそっ!」
クロードはそのまま無理矢理に剣を押し込もうとする。
魔王騒ぎがあってから、彼は今までサボってきた剣術の稽古を一心不乱にやった。
それは一年で見違えるほどの成長速度だと聞く。
しかしたった一年──。
ディートヘルムからすると、付け焼き刃だろう。そんな刃では彼の喉元には届かない。
「いいですね。あなたの心臓の鼓動──全く恐怖が入り込んでいない。あるのは純粋な怒りだ。恋人に対してなんの疑いもない。これだけ彼女を信じているなら、この方面から心を折るのは難しそうですね」
「ああっ!」
ディートヘルムはクロードの剣を弾く。
クロードは徒手空拳で彼に掴みかかる。だが、彼は涼しい顔をしてクロードを払い除けた。
地面に体を強くぶつけ、苦悶の表情を作るクロード。
「私が一番好きな音楽──それは絶望です。そして禁術は人から絶望を摂取すればするほど、完成に近付く」
ディートヘルムが一瞬でレティシアの前に現れる。
レティシアはディートヘルムから逃れようとする。それより早く、彼の手がレティシアの首に伸びた。
「あなたが殿下の心の拠り所ですね。ならば──それを破壊しましょう」
片手一本でレティシアを支えながら、ディートヘルムは屋上の縁まで移動する。
彼が手を離せば、レティシアは真っ逆さまに下へと落下する。
もちろん、レティシアも呪いを飛ばして反抗しようとするが、なに一つ、ディートヘルムの体には届かなかった。
「レティシア──!」
それを見て、彼がなにをするのか察したのか、クロードが駆け出す。
「もがいてみなさい。さすれば絶望の序曲は流れる」
そう言って、ディートヘルムがそこでレティシアから手を離した。
(あっ──)
体が急降下する感覚。やけに周囲の風景がゆっくりに見えた。
このまま地面まで落下すれば、間違いなく即死。それに抗う術はない。
だが──クロードがギリギリ追いついて、屋上の縁から身を乗り出す。そしてレティシアの手をなんとか握った。
「すぐにっ……!」
クロードは彼女をそのまま上げようとする。その後ろからディートヘルムが笑みを浮かべて、二人を見下している光景も目に入った。
「くくく……はははははは!」
壊れた玩具のように高笑いを上げるディートヘルム。
彼はそのままクロードの背中を思い切り踏みつけた。
「ぐはっ!」
苦悶の声を上げるクロード。
「その手を離しなさい。そうすれば、あなたの命だけは助けてあげてもいいでしょう!」
「だ、誰が離すもんか……っ! ボクはレティシアを絶対に離さない!」
クロードは痛みで顔を歪める。
しかしレティシアの手を握る強さは、決して緩められることはなかった。おそらくクロードは自分が死んでも、彼女の手を離すつもりはないのだろう。
(……どうしてクロードはわたしのために、こんなにしてくれるんだろう)
疲れと恐怖で頭がぼんやりしている。
そして驚くほど、今の自分が生への執着心がないことも自覚していた。
(わたしは──穢らわしい存在)
そうだ。
どうしてまた勘違いしてしまったんだろう。
今までたくさんの人に迷惑をかけてきた。真の聖女であるエリアーヌを追放するきっかけも作り、結果的にこの国は破滅しそうになってしまった。
(ディートヘルムの言っていることは真実。わたしの力は邪悪なもの。誰かを幸せに出来るものでもないわ)
それに対してクロードはどうだろうか。
昔はレティシアの目から見ても、酷い王子だった。少し腹が立てば怒鳴り、向上心の欠片もなかった。
だが、彼は昔のことを反省し前を向くことにした。
厳しい勉強や訓練をやるのと並行して、クロードが市井に出かけ、困っている人々に手を差し伸べていることも知っている。
そんな努力が徐々に結果に結びついて、今ではクロードを次期国王と認める者も増えている。
民衆の間でも「クロード殿下は変わった」と認識が変わり始めていた。
この調子でいけば、いずれ彼はナイジェルと同じように『理想の王子様』として称えられるだろう。
(だけど……わたしは彼のためになにが出来るの?)
自分の結婚が、必ずしも祝福されているものではないことは知っている。
全員に祝福されていない結婚になんの意味が?
式に参列している、あの大臣だってこう思っている。
『どうしてこの女がクロード殿下と結婚するんだ』
……と。
そう──勘違いしてしまった。
クロードの隣にいるのに、ふさわしい女だと。
「レティシア……っ! もう少し頑張るんだ。必ず君だけは、ボクが助けてみせる!」
「その必要はないわ」
「え──」
とクロードが言葉を紡ぐよりも早かった。
レティシアは自分から彼の手を離したのだ。
彼女の体が落下に転ずる。
「──!」
クロードがなにか言っている。しかし今はどうでもよかった。
(そう、これでよかったのよ)
わたしは彼の隣にふさわしくない。
みんなだって、そうでしょ?
わたしが死んだ方がいいんでしょ?
だったら、こうするのが最善だったはずだ。こうすれば、いずれエリアーヌ達が助けにきて、クロードも救われるだろう。
(ああ──楽しかったな)
その時に走馬灯のように彼女の頭の中に流れる映像は、クロードとの思い出。
手編みのセーターを作った時、クロードは喜んでそれを着続けてくれた。編み物なんて初めてしたから、毛糸もほつれて酷いものだったのに──。
思えば、あの時からわたしはクロードのことが本気で好きになっていたかもしれない。
(もう少し……一緒にいたかったな)
しかしそれは──許されない。
わたしは彼にふさわしい女ではないのだから。
レティシアは安らかな気持ちのまま目を瞑り、やがて来る死を待っていると──。
「レティシアーーーーーーーーーーー!」
(え……?)
本来なら、聞こえてくるはずのない声。





