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舞い踊り散る桜  作者: 紅夜 真斗
十三章
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鷹心(5) 緋い鳥

「起きたか」

 そうやんわりと声を掛けられ、白黒で焦点が合わなかったものが、急に色彩を取り戻したように知覚できた。

「律心殿……」

 ぼんやりと呟いた声は掠れていていた。

 オレのその声を聞いて、律心殿の不機嫌そうに顰められていた眉根が僅かに綻び、一つ頷いた。

「なんで」

 此処に律心殿が居るのか、そう繋げる前に大きな手がぬっと伸びてきて頭の上に降りた。

 宥められているのだと、そう気付いたとき咄嗟に外に逃げ出していた。

 泣く姿を見られたくない。そんなちっぽけな感情が先立って逃げた。

 何故オレは今、律心殿の家に戻ってきていたのだろうかとか、おはるさんが、珀慧がどうなったのかも確かめる事無く。ただ逃げ出した。

 もう嫌だと、ただ其れだけが全てを支配していた気がする。

 肝心なときに何も守れないのなら、何の意味も無い。

 踏み込まなければ良かった。

 言われた通り、何も知らないと……

 何もかも忘れてしまえばよかった。

 そうすれば、彼女は。

 もう嫌だ……何もしたく無い。それだけが、占めていた。

「冬臥。来い、こちらだ」

「い、やだ――いやだッ!」

 なのに、後ろから声を掛けられると同時に、始めと同じように腕を取られ、情けないオレの叫びは無視されたままに、引き摺られて家の裏に連れて来られた。

 日陰の中で鹿皮が干され、其処から少し離れた日向に掘り返したばかりの黒い土が盛り上がっているのが見えた。

「聞くか?」

 律心殿が何を話そうとしたのか分かった瞬間、耳を閉ざし頭を横に大きく振った。

 何も聞きたくない。そう叫んでた。

 どうすれば良かった。どうすれば正しかったんだ。

「お前に何があったかなんて知らない。だが聞くぞ、話しをしたければな」

 日向の中、墓の目の前にどかりとオレの腰を下ろすように肩から抑え込まれ、律心殿も向き合い座った。

「おれは何も知らない。だから、話しを聞けば聞いた分の事は分かる。頼んだのはこちらだ」

 それは暗に話せと促してはいないか、それを理解するまでかなり時間が掛かった。

 逃げて、何かが変わる事は無いと分かっている。

 でも、向かって失うだけなら何もしたくない。

 何もしなければ、何も失うことは無い。

 動かなければ何も変わらない。だから、失うことは何も無い。

 吐露するつもりのなかった言葉が、勝手に、嗚咽交じりに出て行って、止めるにも止められなかった。

「お前のやさしさは随分と身勝手だな。失った命と諦めたものが手元に蘇ればそれは当然喜ぶだろう。だが、本当にそれで良いのか」

 そう問われた言葉の意味が分からなかった。

 失ったと思ったものが戻ったのなら、それは当然嬉しい事のはず。

 なのに、それを否定される事が分からない。

「短い間の事ならそれが正しいとも言える。だが、十五年も経てばどうだ?」

 諭すように紡がれた律心殿の十五年という言葉を、茫洋と繰り返していた。

「十五年、そうだ。おれが、はると言う女を助けたのは十五年も前だ」

 律心殿の刺すように告げられた言葉に、動揺した。

 直ぐに視線を向ける事も出来ず、彷徨わせてから不機嫌そうなままの彼の顔を見た。

「人がその場所に根を下ろすには十分すぎる歳月だ。諦めて、受け入れたのだろう……はるも、その親も」

「ふざけんなッ。何も知らない癖に!」

「ああ、おれは何も知らない。だから話しを聞いて、聞いた分だけの事は分かる」

「どんな想いで、古竹さんが諦めたのかも知らない癖にッ」

 気付けば飛び掛っていて、叫んでいた。

 でも、彼は平然と其れを受け止めて、襟首を掴んでいたオレの腕を掴み上げて締め付けてきた。

「それはお前も知らないはずだ。知ったような気で叫ぶな」

 淡々と言われた言葉に、更に頭に血が上った。

「知ったようなと言ったな、ならお前はあの人の何を知る!」

「知らん。お前の言う人間には会った事が無いからな」

「なら――」

「だが、お前の知らない、はるの事なら知っている。何年も前に、悪い足を引きながら、赤子を抱えて走っていた」

 その言葉に冷や水を浴びせられたように、血の気が下がった。

「見たのはおれではないがな。熱を出した赤子を抱えて、向こうの宿場町に来た。それがどういう意味か、分かるか? 十五年と言う意味、分かったか」

 説き伏せられるように重ねて言われた言葉に、力が抜けていた。

一月(ひとつき)二月(ふたつき)なら、それで良かった。だが、十五年も経てば新たに根を下ろし、営みを持つことは自然の在り様だ。それがただ、生きて行く為だけの事だとしても」

「だから、行けなかったと……」

 繰り返された言葉に、だから、彼女はあれほど怯え、赦しを乞うたのか。

 妖憑きの居る村に根を下ろしたことを。

 思い返して、ふと気が付いた。

「だとしたら、おかしい」

「何がだ?」

「村長の家におはるさんが身を寄せていたのなら、そこに居るはずの子供の姿が無かった。子供が理由だと言うのなら……」

 オレが見た子供は、村に行く前にあった姉弟と、村長と出会った時に遠巻きに見ていた女が抱いていた赤子くらいだ。

「それは知らん。おれは別にはるの旦那でもなければ、あの村の住人でもない」

 何の反論も出来ない事実に、彼は掴んでいたオレの手を離して、座り直させた。

「お前を見つけたその時の事だけだ。おれが話せることは」

 それ以上の事もそれ以下の事も何も無い、と添えて律心殿が教えてくれた。

 オレ達を見つけてくれた時の事を。

 夜明けまで後少しといった所で、律心殿はいつもの通り、家から離れた場所に仕掛けた罠を確かめに出ていた。

 雑木林を抜けてほんの少し先に、種宿村に至る道がある。そこで、雨も降る気配も一切無い空の先で、雷鳴が響いたと言う。

 普通なら異変と感じて、様子を見ることもなく終わるだろう人も多いなか、彼は滅多に出ることの無い領域を出て、その先でオレとおはるさんを見つけたと言う。

「オレ達、だけ、でしたか……そこに居たのは」

 もう一人、あの場には富蔵が居たはずだ。

 律心殿は誰も居ないという様に首を緩く振って、それから考え込む素振りを見せた。

「誰か、居たのかも知れないが、姿があったのはお前とはるだけだ」

 淡々と告げられた事実に、突然吐き気を覚えた。

 真っ白で覚えていないはずの記憶の合間に、目を見開いた男の顔が混じっていた。

 なんで、鮮血(いみ)色ではないその(いろ)で泣いていた。

「大丈夫か?」

 律心殿の言葉に、胃の中の気持ち悪さを堪えようとして、出来なかった。

 吐くだけ吐いて、胃の中の物も全て出し尽くして、それでも気持ちの悪さは引かず、ずっと収まっていたはずの震えが襲ってきた。

 がくがくと寒気で震えて、歯の根も合わない。

 自分自身で掴んだはずの腕にべっとりと血が付いている。

 鉄錆びの匂いが鼻の奥の奥で蘇り、視線を逸らした先に――嗤う顔が見えた。

 名前も知らない、あの時の男の顔。それが何故か、結殿の顔にすり替わる。

 何故と思うよりも先に富蔵と呼ばれた男の見開かれた顔に変わり、驚き、血を吐いたおはるさんの顔に変わる。

 全員、全部……オレが、殺した……

 何もしなければ、何も踏み込まなければ誰も失わなかったのに。

 何処で違えてしまった。

「おい冬臥!」

 がしっと律心殿の大きな手で両肩を掴まれ、大きく揺さぶられた。

 思考の渦に滑落するのは酷く簡単で、揺さぶられた事で、其れが断ち切られたとき、腕に着いていた血は何処にも見当たらなくて、きつく握り締めて色を失っていたに過ぎなかった。

「何を怯えている。生きるために抗い、其れに勝ってお前は此処に居る。ただそれだけだろう」

 背を擦ってくれていた律心殿のその言葉に、その手を振り払った。

「其れで人の命を蔑ろにして言い訳が無いッ。オレが関わらなければ、死ぬことは無かったのにッ」

「そうやってお前は生きていけるのか? お前が言っていることはおかしい」

「おかしい……? 何処がですかッ、オレが、オレがおはるさんを訪ねなければ、彼女は不遇であれど、生きて行けた。富蔵だって、殺さずに済んだッ。草刈殿だって……」

「それがおかしいと言う。お前に村に行ってくれと頼んだのはおれだ。こういう結果になると分かっていれば、誰もお前に頼みはしない。だが、あの時のおれ達に分かったか、結果が?」

「そんなの、分かる訳無いじゃないですか!」

「そうだ、分かる訳が無い」

「だからオレのせいじゃないと? そんなのただの詭弁じゃないですかッ」

「かもしれない。だが、事実だ。獣が罠に掛かったのと同じことだ」

「そんなのと一緒にしないで下さい!」

「同じだ。獣を狩るとき、獲物の通る道を予測して罠を仕掛ける。それは猟師なら当然。だが、獣はどうだ? 今までと同じ道、其処に罠があるとは思わない」

 淡々と、この人はただ真っ直ぐに事実だけを告げてくる。

 起こってしまった事だと、ただ、告げている。

「その獣にだって命がある。家族がある。罠に掛かれば、掛かった罠から逃げようともがく。お前はただ、その罠からもがいて逃げ出しきっただけだ」

「オレは、獣じゃない……」

「そうだな。人間には他人と話し意思を通すことが出来る。だが、それは獣も同じ。鳴声で仲間と話し、意思を通す。獣にだって罠を仕掛けるものも居るし、気に喰わなければ喧嘩をし、殺したくて殺しもする」

 それは理性を失ったとき、人は人では無くただの獣と言いたいのか。

 だから、仕方がないと言うのか? そんなの、違うだろうッ。

「猟師の罠に掛かった獣は大抵、食われる。人間を食うのは黒々だ」

 この人の不機嫌そうな表情がにやりと変化し、視線がすっと日向へ向くように外された。

「人間は、自分で死ぬことが出来る。立ち止まり心を殺すのも、生きる事をやめる事も。ただ、誰にも関わらず生きる事は出来ない。人間にはな」

「それなら、何も、動かなければ……オレが誰かを傷つけることは無いでしょう」

「違う。生きる以上、お前が大事に思う誰かは他の誰かに傷つけられる。それを見ないで済むだけだ」

「こんな処にいる、貴方がそれを言うのですか?」

 一人でどの人里からも距離を置くような場所に住んでいるのに。

 何も見ていないのに、何故そう言える。

「ああ、必要以上に傷付けられるのも、傷を負うのも嫌だからな」

 隠す必要は無いと思ったのか、律心殿はそう言うと自分の髪を掴んで、引っ張り出した。

 結ばれていない髪が襟首から引き抜かれて、一瞬羽のように広がる。

 長く背の中ほどに届く髪の、その毛先は明るい石楠花(しゃくなげ)の赤色をしていた。

「やはり、怖がらないな」

 確信していた声音で、律心殿は自身の短刀で毛束を掴み、赤い部分だけをばさりと切り落とす。

 普通なら、黒髪の部分が残るはずなのに、白い布地が染め色を吸う様に残った黒髪を侵して赤が戻る。

 確かに一瞬、赤を見て確かに驚いた。だが、直ぐに違うと判断していた。

「見ての通りだ。無闇に人には会えん」

 掴んで切り落とされた律心殿の赤いはずの髪の毛は、徐々に赤い色を失せさせ、赤茶色に変色していた。

 強く吹きつけた冷たい風に合わせて彼は、その手を払って太い溜息を吐いた。

 彼は今のオレと変わらない頃に、此の場所に移り住み始めたと、ぽつりと言う。

 同じ、赤を宿す人達と共にいた場所で生まれ育ったが、大人達からは疎まれていたと言う。

 律心殿が生まれたその村は何と言う名なのか、湧いた好奇心で聞いた。

「柚羽原と言う場所だ。代々、人身御供を捧ぐ犧里にえざとだ。伊那依と言った方が分かるか、后守には?」

 確かめる声音で言われ、また自然と震えが酷くなった。

「おれは此処に宿していたから、良く狙われた。どちらの人間にもな」

 赤は忌色。例え髪を隠したとしても、普通の人間が恐れるのは必然。だからと言え、律心殿の石楠花の赤は伊那依の、妖憑きが持つ鮮血色(あか)とも違う。

 だから、律心殿は人から遠ざかったのか。

 居る、という事で恐れられるだけならまだマシで、けれど、人から害されるのは明白で。

 アキのような寄る辺もなく、この人はどちらも傷つかず済むように遠ざかった。

「狩るか狩られらるか。罠に掛けるか掛けられるか。逃げるか戦うか。生きている以上、何かを選び得て、選ばなかったならもう一方は失う。繰り返しだ。お前は生きることを選んだ。だから、生きて此処に居る。ただそれだけだ」

 彼はただ、自らが起こした行動の結果を、起こった事実として受け入れろと繰り返し言っているに過ぎない。

 嫌だと、目を閉ざさず、耳を塞がず、ただ、事実を受け入れて己の糧にしろと言う。

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