盲蜂(1) 港町の兄妹
久弥達が出掛けると言ってから八日目。その日は、鷹舎の仕事で遠出していた。
葉桜町にある鷹舎で、鷹匠達が酷い風邪をひき人手が足りないと言われ、実際の状況を見て来て欲しいと頼まれた。
その用件自体は行き違いの情報となっており、風邪を引いたと言う鷹匠達は既に元気に勤めに励み鷹達にも悪影響は無かった。
急遽の出来事だったから念を入れて、道場の稽古も夜勤めも替えたのだったが、明日の夜までは変えずとも良かったかもな。
そう思いながらも、本物の海から吹きぬける潮風は簡単に味わえないし、夜明け前から歩いていた身としては、腹も減ってるわけで、葉桜の鷹舎で教えてもらった名物の浜焼きとやらを探すついでに散策していた。
こう云うところだけは、ガキの頃と何も変わってないなぁ。と思うしかないんだが、普段のオレを知る人が居ないと言うことで気にする事も無い。
往来を歩く魚売りも多いし、小間物屋の売り物は海に因んだ物が目に付く。釣竿まで売ってるのか。
しかし、船町と言うからには勝手に広大な停泊所と客船が多く停まっている物ばかりだと思っていたが、葉桜の主要港自体は町から少し離れた場所にあるらしく、町の中から見えたのは小さな手漕ぎ舟ばかりだった。
「おいおい、あそこに居るの盲蜂じゃねぇか」
「冗談じゃねぇ。明日は大事な勝負どころだぞ、見ちまったじゃねぇか!」
物珍しさに覗いていた小間物屋の傍で立ち止まっていれば、近くに居た色黒の男が二人、声高に、だが気味が悪そうに話し合うのが聞こえた。
「こりゃ、験直しに呑みに行くか」
「盲の祟りに遭っちゃ、それこそ目も当てられねぇや」
そそくさと色黒の男達がこの場を後にした所で、店の中から怖々とした風情で白髪頭の店主が外を覗きに来た。
その店主の視線に釣られて見れば、遠目に色艶やかな着物に身を包む女性と、幼い兄妹の姿が人の波に見え隠れしていた。
女性のしゃんと伸ばした背に付いて行くように、いつもより俯き加減の兄の手を頼りに妹が歩いて行いく。
ただ、その三人の行く先にいる人は一様に怯えて道を譲り、足早に去っていくか進行方向を変えていた。
「御店主、今の方々が話しをしていた盲蜂とは?」
「へ? あんた、知らんのか」
いきなり声を掛けたせいで、素っ頓狂な声音で小間物屋の店主が返してきた。
「使いでこの町に来たものですから」
「あぁ、なら余計関わらん方が良い。ったく、見ちまったら商売にケチが付く」
吐き捨てるように言い、奥へ引っ込み掛けたところを引き止めた。
「そこの塩小豆飴を一つ。何やら、身分の高そうな方とお付でしたが」
「毎度。此処の姫さんと世話小僧だよ。姫さんだけならまだ良いが、あの兄妹まで揃った日にゃ、不漁になりやがる。儲かるのは塩屋と酒屋ばっかりだな」
「それで験直しですか。ですが、祟りとは大袈裟じゃありませんか?」
買い付けた塩小豆飴を仕舞い、店主に向き直れば明らかに嫌そうな表情を向けて来た。
「大袈裟じゃねぇから言うんだよ。ほら、もう良いだろ帰ってくんな」
これ以上は話したくないと文字通りに追い出され、小間物問屋から少し離れたところで様子を見れば、先ほどの店主が盛大に塩を撒いていた。
遠出ついでの休みついでだ。
三人の通り過ぎていった道へ赴き、適当な店を覗けば、やはり店の人間が通りに塩を撒き、新しい盛塩を外に出す姿が見えた。ついでに、道の先にある酒の看板が見えたその下には、男達がわらわらと集まりだしていた。
「くそ、痛い出費になるな。姫さんもなんで、あんな野郎共を置いておくんだか」
「そう言いながら、旦那。呑めるって嬉しそうな顔してるぜ」
「姫さんも関わったばかりに可哀想だな」
「あんな愛想も無いんじゃ、大年増になっても貰い手なんてないさ」
「あぁ、例の縁談もまたダメだったらしいな」
「時川の本筋ももうダメかもなぁ」
「ほかンとこみてぇに、神宿りでも居りゃ違ったんだろうがな」
「妖に憑かれちゃ無理だろ」
酒屋の下で、男達が思い思いに話しを交わし、最後にはどっと笑っていた。
「おい! 突っ立ってんな、邪魔だ!」
後から店に入った男が、並ぶ一人の肩を掴み押しのけた。そこからあっという間に喧嘩が広まったので、店の傍から離れた。
ふむ。流石に美味い物を食いに行こうと言う気分ではなくなったな。
歩きながら傍耳立てれば、何処もかしこも先ほどの三人の――時川殿と久弥たちの悪い噂話が耳に入る。
葉桜町は小高い山の裾に家や店が集まり町を成している。港側には建物が密集しているが、西の山側にはさほど建物は無い。
街道は裾野を迂回するように続いているが、山には細い道が続いている。
その中で、山の上に向かう道標には“この先鳴門神社”と記されていた。
人気の無い静かな山道を登り、山の中腹に差し掛かる辺りで林が途切れるように拓け、その正面に階段が見えた。
その階段の端に兄妹が腰を降ろし、妹の掌に何かを渡している所だった。
近付けば妹の顔が上がるのを感じてか、兄の方も釣られて顔を上げ、此方を凝視するような姿勢をとった後、隣に一声掛けてこちらに走ってきた。
「冬臥さん、どうしたのっ?」
話すにも不自由のない距離まで近付いて、久弥が当然のように驚いた声を掛けてきた。
「仕事の手伝いで来たが、必要無くなってな。帰る前にふらついていた」
答えながら、そのままアキの方へ向かえば、久弥も躊躇いもなく付いてくる。
出掛ける前に見せていた暗い表情の影もなく、普段と変わりない。
「へぇ。んでも、見る所なんてなんも無い町だよ」
久弥が答えながらアキの傍に戻ると、アキはアキで飴でも舐めているのか、片頬に小さな膨らみを作った顔で小さく頭を下げた。
そして兄の袖を引いて注意を向けて、その差し伸ばされた掌に指先で文字を書く。
「やっぱりアキも冬臥さんがここに居るの不思議みたい」
「だろうな。オレも此処で二人に会うとは思わなかったしな」
「町の中で見てなかった? だって……本当?」
後を付いてきたとは言わずに返事を返してやれば、アキは首を傾げて、また久弥を介して伝えてきた。
ただ、その後すぐにパタパタと手を横に振って気のせいかも、とも続けた。
「遠目にだったがな。もしあの距離で気が付いていたのなら、アキの方が兄貴より優秀だな」
隠す事も無い事実に冗談を混ぜて返せば、久弥がふて腐れた。
「目が見えない分、周りに敏感になるんだってば」
「そうだったな。それで、時川殿は一緒では無いのか?」
先程まで一緒に居たはずの人の姿が見えず尋ねれば、久弥は神社があるだろう階段の上を示した。
「お参りしてる。明日は御渡舟だから、皆の舟が無事に戻って来るようにってね」
「御渡舟?」
「この辺りの収穫祭だよ」
問えば、返って来た返事は早く、そうなのか、と軽く返せば久弥の表情がぱっと明るくなった。
「そう! 夜明け頃に舟が一斉に漁に出るんだけど、海蛇って呼んでる、この時期近くまで来る魚の群れ達を一気に港まで追い囲むんだ! 舟が一斉にぶわーって集まってやるから、上手くやらないとぶつかったりして、沈没の危険もあるんだ。しかも、このあたりの海岸って岩礁も多くて潮も低いから操舵技術もすっげぇ重要なんだ!」
「それは凄いな」
「でも、一番は大漁旗を一斉に上げた舟が出航する時だよ! 普通は、帰港する時に大量の証としてあげる旗が、ばばばーって、一斉に上がって行くのが綺麗でさ! 常盤でも大漁祭ん時、おんなじように大漁旗が上がって、でも父ちゃんの舟はすぐに見つけられて――」
黒い瞳を輝かせ祭の様を語る久弥だったが、途中で気が付いたように言葉を切らせて、視線だけを逸らした。
「まあ、もう見られ無いんだけどね」
何でも無いとあっけらかんと笑いながら告げ、アキの隣に腰を下ろした。
「アキ、おれにもさっきの飴ちょうだい」
久弥が声を掛ければ、アキは手にしていた巾着から飴を一つ摘みだして、久弥の顔の傍にまで持ち上げた。それを久弥が魚か雛鳥の様にパクリと頬張る。
こうしていると、本当に仲が良い兄妹だな。
「ああ、そうだ。アキ、ついでにこれもいるか?」
飴を頬張る二人に思い出して、アキの手の平に先程買ったばかりの塩飴の袋を押し付けた。
「いいの?」
「一人で食う量でも無いからな」
店の主を引き止めるだけに買った物で、オレ自身は飴も余り食わないしな。
そう伝えれば、アキは嬉しそうに飴をしまい込んだ。
「そうだ! カナデねーちゃんが戻って来たら皆で、飯食べに行く?」
「いや、それは遠慮しよう。お前も仕事の途中なのだろう」
「そうだけどさ、せっかく此処で会ったんだしさ。どうせ、カナデねーちゃんとこの後に飯食べようって話ししてたし」
だから平気だと言われた言葉と「美味い店に案内できるよ」と言われ、確かに興味が涌く。
前に久弥が言っていた鈴鹿堂の鹿煎餅も気になるし……鷹匠達から教えてもらった、名物の浜焼きも気になる。
それに幾らオレでも、飯も食わずに戻る体力は無いので、誘いに乗ることにした。勿論、時川殿の許可が得られればだがな。
「あら、冬臥さんも来てたんですか?」
「あぁ、時川殿――と、お館様もご一緒でいらしたのですかっ」
階段の上から掛けられた女性の声は時川殿だと直ぐに分かったが、見上げた彼女のその横、鳶色の八分丈羽織を纏った男性の精悍な立ち姿は、間違えようもない。
お会いしていなかった分だけ、目元の皺や黒髪に混じる白いものが増えた気がするが、向けられる厳しい眼差しは変わらず、そして水面のような静かな気配のままで綾之峰様が時川殿の隣に立っていた。
「久しいな。ふむ、足の加減も良いようだな」
「はい。その節はご心配をお掛けいたしました」
久弥にとっては面識のない相手らしく、少し呆けたように階段から降りて、戸惑いを顕わにした礼を向けていた。
「久弥、アキ。此方の方は」
「前に一度、冬臥さんの家の前で会った――あ、いや、すれ違っただけだけど」
時川殿が二人に紹介しようとしたところで、久弥の視線が一度此方を向いた。
「本当か、久弥?」
驚いて思わず尋ねれば、久弥は少し困ったように眉を顰めてから頷いた。
「うん」
「一度だけだったがな」
綾之峰様の返事からしても本当のようだ。
偶然か、それとも様子を見に来てくださったのか……後者ならば嬉しい事だが、綾之峰様のことだ。教えては下さらないだろうな。
「えっーと、上遠久弥と申します。こっちが、妹のアキです。カナデねーちゃん――じゃない、カナデ様の付人です」
余りにもぎこちない久弥の挨拶に、時川殿もそうだがオレまで頭を抱えたくなった。
だが、いち早く気を取り直した時川殿が溜息を隠すように肩を動かして、久弥とアキへ顔を向けた。
「此方の方は、御剣家御当主の綾之峰様よ。それ以上の粗相が無いようにして」
釘を打つ時川殿の視線に、久弥は項垂れてるように頷いてアキと共に前に立つ二人の為に道を開けた。
「時川殿、見送りは此処で結構。明日は宜しく頼む」
「いえ、駕篭までお送りいたします」
綾之峰様の制する声に、時川殿は些か慌てて一歩踏み出した。
「いや結構」
静かに強く重ねられた言葉に、流石に時川殿もそれ以上は強く出れず、頭を下げた。
「冬臥」
「はい」
付いて来いと言外に呼ばわれ、歩き出した綾之峰様の後ろに付いて歩き始めた。
「珍しい所で会ったものよ」
時川殿達の姿が後方の、遥かに小さくなったところで、綾之峰様が口を開いた。
「はい。鷹舎の使いで此方に赴きました」
「そうか」
変わらず静かな声音に、自分自身の中で緊張感を張る空気が懐かしいと思うと同時に、背筋が一層伸びる。
影の務めの后守と、御剣家に就く后守。オレの中ではどちらも同じ物のはずなのに、傍にある空気が違うだけで全く別のものになってしまっていた。
嬉しく、誇らしい気持ちになる。勿論、影の勤めを軽んじている訳ではないのだがな。
綾之峰様と共に町の中に戻り歩けば、周囲の耳目が注がれるのが分かる。
先程まで久弥達に向けられていたものとは全く異なる、畏怖の念とも云えるもの。
本来、この町で時川殿達に向けられていてもおかしくない筈のもの。
何故にこの町の人間は、あんな視線を向けられるのだろう。
「盲蜂と云うものを聞いた事があるか?」
突然投げられた問い掛けに、思わず首を振りかけて、足を止めていた。
「詳しくは知りません。ですが、心の無い揶揄であの幼い兄妹を指し示す人は確かに居りました」
「そうか。あの者達の事だったか」
「お館様……?」
「いや、気にするな。人々の話で気になったのでな」
何でもないと重ねられたが、オレも考えていて気になったことはあった。
「一つ、質問をして宜しいでしょうか?」
そう声を掛ければ、沈黙のまま促された。
「先程共に居た久弥から、明日の祭りの事を聞きました。“ウミクチナ”を舟で追うと。先日、北山での火事の件は伺っておられるでしょうか。そこで、オレはヒガラベに遭遇しました」
「何を問いたいのだ?」
「御渡舟の祭りは毎年行われ、お館様方はそれに都度、御観覧されておられたのでしょうか?」
促された言葉と、漁師達の“不漁”の言葉が妙に引っ掛かっている。
「葉桜では二年に一度。御剣は参加はしていない」
毎年では無いのか。だが、御剣が参加して居ないのなら……何故、今此処に綾之峰様が居られるのだろうか。
疑問はあるが、一つと言った手前、追随する質問は投げられない。
「ありがとうございます」
「して、その質問の意味は何だ」
「――“クチナバチ”を思い起こしました」
「昴皇に登場したあれか」
荒神クチナバチ。ヒガラベが劫火の荒神が生み出した妖なら、クチナバチは禍水の荒神が生み出した、荒神。
ただ、クチナバチとリリガムイの記述は建国神話と昴英雄記と言う物語にあるだけ。
『声なき声に贄を喰らい堕とす大食悪食のリリガムイ。間近に接し、風聞は当てならぬと思い至る。其の下肢は蛇なれど海瑠璃の総身は正しく、麗しの女神。見惚れぬ者は世に無しと告げよう。その女神の傍らに、添う影あり。
幾多連なる海蛇は、海に住まうものを狂気にうち、自らを女神の座す珊瑚の床に傅かせゆく。
なれど、リリガムイが座する白亜は珊瑚に在らず。饗宴の残滓』
感じる脅威としては、幾度も暴れるヒガラベの方が怖い。
「はい。憶測で物を言うのは、節義に反しますが、昴皇はリリガムイを討伐する前、町の漁師達の協力を得て、クチナバチを討伐したと。しかし、その直前にはホガムグラを討伐したと……擬え物語の憶測ではありますが」
なんの確証もない話し。だが、その舞台となった土地はまさにこの葉桜の土地。
「お前も大概な記憶力よ。心配なら逗留し、結果を伝えには来ぬか?」
笑いながら返された言葉に、オレは戸惑う。
そう簡単に行けるわけがないとも、思ってしまったのも一つだ。だが、続いた言葉は意外な物だった。
「曉も危惧しておったわ」
見透かしたように言われた言葉に、そうか、と何故か口許が緩んでしまった。
ただ、綾之峰様はそれ以上は何も言わずに、待たせていただろう駕籠に軽く手を送った。
乗り込む直前に、ふっと此方を向いて鋭く厳しい視線を向けて来た。
「冬臥。祭りの土産話を楽しみにしている」
「分かりました」
これは思わぬ休暇になりそうだ。