娘親
和一殿と別れ、そのまま鷹舎に赴いたが今日の仕事の殆どを、古竹さんや他の鷹匠の方が代わって下さっていた。
他の残っていた仕事を片付け終わった時には、暮れ六つの鐘の前で普段よりも大分早く終わった。
「香月さんの様子を見てきて頂いて良いですか。手解きの件もありますし、お内儀様にもお知らせしておいた方が良いでしょう」
と、今日は鷹舎の当直にあたると言う古竹さんに言われ、少し重たい気持ちを抱えたまま仕事上がりに実家に立ち寄れば、迎えた人は大袈裟に驚き、事情を説明すれば「仕方ないわね」と苦笑交じりに、何故か、何故か……料理の手伝いをさせられて、見送られた。
見舞いに持って行けと渡された弁当を下げ、改めて草刈殿の家を訪れれば、中から話し声が聞こえた。
十重殿がいるのかと、軽く戸を叩けば返って来た声は知らない男性の声だった。
ただ、戸を開けたのは身形の良い年嵩の女性だった。見たところは六十を過ぎたくらいか、白灰色の髪を油で綺麗にまとめている、そんな方が出迎えるなどとは思ってもおらず、なお、混乱した。
「どちら様でしょうか?」
立ち尽くすようになったオレに、女性の問い掛けは少しばかり怪訝そうに、睨むようだった。
中に居た草刈殿がこちらに気が付き、彼女の前にいた男性も此方に顔を向けた。男性の方は三十代の後ろぐらいか、やはり身形を整えられた方で、共に色褪せの無い紬を着ているせいか、良家の使いにも見える。
「あの、すみません。彼との約束が先なので、今日は帰っていただけますかっ」
訝しむような二人の先客の視線を貰い、草刈殿は草刈殿でどこか急いで先客を捲くし立てていた。
年嵩の女性が先に表に出ると、男性の方が草刈殿に一言掛けて立ち上がった。
男性の羽織に笹の一つ紋が見えた。やはり、どこかからの使いらしい。
二人を見送る形になり、遠くなった背を確かめてから中へお邪魔させてもらった。
「良い時に来てくれたわぁ」
「それなら良いのですが、今の方々は?」
草刈殿が心の底から助かったと吐息を零し、土間に降りて竈の前に立った。
「気にしなくて良いわよ。ところで、何の用?」
「様子を見に来たついでに、琴世様から預かりものをお渡しに」
そう応えながら藤色の風呂敷に包まれた弁当箱を置かせてもらえば、草刈殿からは茶を差し出された。
「あー、今日行くつもりだったのに、心配掛けちゃったかしら」
「多分。ですが、ゆっくりしてからで構わないと思いますよ」
「ちょっと、無茶したわ……ま、あんたほどじゃないけど。開けてみて良い?」
一言余計だと思いつつも、問われた事には了承を返した。
「わっ、嬉しい。さっきのお客さんで起きたばっかりだったから、ご飯どうしようかと思ってたのよ」
持って来た物が弁当だと分かると、嬉しそうに手を合わせている。
こういう時は、近くに食事処がないと大変だなと思う。十重殿が不在であれば、夜の食事処は酒に酔った人が多い分、女性一人で立ち寄るのは危ないしな。
「なら、良かったです。ですが、術の事はよく解らないですが、無理はお互い止めましょう」
「……あんたにだけは、言われたくないわね」
変わらず、厳しく返してきた草刈殿は知らない――あれ程までに取り乱した古竹さんを。
十重殿は友人家族の一人娘として、古竹さんは亡くなられた娘さんを重ねていた。
良い事かは分からないが、少なくとも草刈殿の存在は大きい。させないで済む無理は、やっぱりさせない方が良い。
「何よ?」
軽く吐いた溜息を聞き咎めたのか、些かまた睨まれた。
「お互いに、ですよ。オレだって、無理も無茶もしたい訳は無いですよ」
「意外な言葉だわ。で、用はこれだけ?」
「はい。これだけです」
「そう。昨日の話しでも聞けるのかと思ったのに」
落胆しつつ、草刈殿が弁当から甘大根の素焼きを一つ、指先で摘まんで口に運んでいた。
「ん、おいしぃ」
「行儀悪いですよ」
「お腹空いちゃってるし、美味しそうだったから」
つい、と思わずの行動だと口の中の物を飲み込んでから唇を尖らせていた。
「それなら普通に召し上がれば良いじゃないですか」
「だって、一人で先に食べるのは……うー、一旦仕舞っておこう」
「あぁ、十重殿を待っていらっしゃったんですか」
待つ人の名には頷き、何処か名残惜しそうに弁当の蓋をして、広げた藤色の風呂敷をまた結び直していた。
「まあ、古竹さんに聞いたところ、“確認の人手を出した”とは言われましたが、細かな所は何もですよ。とりあえず、後で取手の家には立ち寄ってみるつもりですが」
「そうなの?」
「ええ。オレも気になりますからね」
「あたしも行くわ。古竹さんも一緒にいるんでしょ?」
「いえ、今日は鷹舎の当直で古竹さんはいませんよ。それに、一日くらいはしっかり養生してください」
「……やっぱり、あんたには言われたくないわ」
「でしょうけれど、休んでいてください。聞いた話は教えますから」
「あんたの話しだと、大事な所があったとしても、端折られそうなのよねぇ」
そんな事は全然考えていなかったが、納得したようすも見せずにいた草刈殿から冷たい目を向けられたが、「ん、帰って来たかな」と、呟くと同時に猫のように背を伸ばして入り口に注視する。
思わず釣られて見れば、近付いた足音が家の目の前で止まった。
「香月、調子はどうだ?」
来訪の音を知らせることもなく、ガラリと開いた戸の向こう側から、十重殿が身を屈めて中に入って来た。
「お、坊ちゃん! 来てらっしゃったんですか?」
「冬臥です」
オレに気がついた十重殿が顔を綻ばせてくれるが、また前と同じ呼び方になっていて、「いけねぇ、いけねぇ」と軽く謝られた。
まあ、この訂正するまでの流れも嫌いじゃないし、もう良いかな。
「それで、如何なさったんですかい?」
「古竹さんに言われて、お見舞いに」
「ああ、なるほど。香月、飯は食えるのか? 今日くらい外で食っても罰はあたりゃしねぇし、坊ちゃんも良かったら一緒に行きやせんか」
「いえ、オレはこれで」
「十重さん、琴世様からお弁当貰ったの。一緒に食べよ」
「お内儀様の弁当かぁ。頭領に悪くて、ワシには食えんわ」
冗談か本気か分からないが豪快に笑った十重殿が、ふっと視線を此方に向けた。
「ものはついでだ、坊ちゃん、男二人で飯に行きやしょう」
「えぇ! あたし、十重さん待ってたのにぃ」
「お前の為に拵えたものだろ。それに、ワシが喰ったとなれば頭領が煩そうだ」
またも豪快に笑い、オレの腕を掴んで立ち上がらせた。
「じゃあ、あたしも行く」
「なんだ、お前は子供か? いつまでワシの後にくっついてれば気が済む」
十重殿が揶揄して笑えば、草刈殿は顔を赤くしていた。
「それがいつも、ご飯作って貰ってる人の言い草なの?」
「まあ、そう言うな。坊ちゃん、早く行こう。口煩くて敵わんわ」
「あ、では、お大事に」
十重殿に手招きされ付いて行けば、一人ぽつりと残された草刈殿の恨めしげな視線が背に刺さっていた。
十重殿に付いて行った先は、町から少し離れた所にある酒場町。町と付いているが正式な名前は無く、この先のある花街『鳴夜』に赴く人目当てに店が出来始めた場所だ。
「いや、こんなところで済まんな」
「いえ、構いやしませんが……ちょっと、落ち着かないですね」
夜五つを過ぎた時分故か、周りに目を向けるまでも無く、酒を煽り景気付けしている男衆達から聞こえる話は、どこの店に行くか、どの花魁が良いとか、西は東相手にしないとか、そう言う話ばかりだ。
十重殿が選んだ店は立食処のように都度払いらしく、調理場の傍にいる者に注文をして自分で料理を運ぶようなので、料理の注文は十重殿に任せ、向き合うように空いていた長床机の端を取った。
待つ間に周りを見るがやはり酒に酔う男ばかりで、どうも自分が浮いている感じがするな。
「坊ちゃん。焼きもんばっかりだけど、構いやしませんよね?」
「ええ、もちろんです。って、器用ですね」
太い左腕と手に大皿と湯呑一つと升酒を乗せた小さな盆を持ち、右手には大徳利を持って十重殿が戻ってきた。
串焼きと烏賊焼きを載せた大皿とお茶の入った湯呑をオレの空いている場所に置き、十重殿は自分の傍らに徳利を置いて座ると、短い「頂きます」と言う言葉と共に中身をさっと煽り空けて、一息入れた。
「あー、それでまあ、呼び立てたのは、香月の事で、ちょっと耳に入れておいて欲しいと思いやして」
空けたばかりの升の中に徳利の中身を移し変え、世間話程度に付き合ってくれと呟きながら、揃って皮の付いたトットの串焼きにかぶりついた。
特製の醤油だれに、七味唐辛子を振り掛ければ、ピリッとした辛さで、口の中に残る脂っぽさを引き締めてくれる。
皮の部位が特にこんがりと焼かれ、なお美味い。
すぐに二本目を平らげ、空きっ腹が落ち着いたところで、十重殿が一つ呼吸を整えた。
「坊ちゃんは、相模栄達って名前聞いた事ありやすか?」
「それはもちろん。相模刀具店の店主の名ですね」
確認する十重殿から聞かされたものが馴染み深い名前で、何故に彼の名が出て来たのか疑問に思った。
「いや、一昨日にうちに、そっからの使いが来やして……番頭の松助の嫁に香月が欲しいと、頼んできたんでさぁ」
「そうなのですか? ああ、それで話しを聞きたいと?」
思い掛けぬ話しに驚いたが、彼は仕事熱心で良い人だ。刀稽古の準備の際に、かなりの無理を聞いて頂いたのは記憶に新しい。
「あ、いやちと、違うんで。その番頭は后守をどの程度知ってるんですかねぇって、話しで」
十重殿が慌てて手を振り違うと示されて、続いた言葉に考えた。
「そうですね……多分、詳しくは知らないはずです。あくまで、あの店は普通の刀具店ですから」
「でしょうな。やっぱり、嫁ぐとなりゃ、色々勉強もさせなきゃいけねぇだろうし、何より、后守の勤めから離れられる」
ぽつりと零した最後のは本音だろう。
十重殿は草刈殿には、危険な仕事に付いたままで居て欲しくないだろう。
確かに、こんな話しは草刈殿が傍に居ては出来ないし町中でもしにくいな。
「だが、香月が辞めるって気がさらさらねぇのも分かってる。だから、坊ちゃんの方からそれとなく……頼めやしませんかね」
「それは……草刈殿に、ですか?」
「できりゃあそうして貰いてぇが、坊ちゃんには荷が重い相手だ。それに、正直いやぁ、香月の幸せ考えたら、知る人間の方が安心出来る」
十重殿はそう笑いながら、酒をちびりと含んでまた独り言のように零していた。
「向こうさん方の申し出はありがてぇんだ。今回みたいな事がなけりゃ、受けちまってたかも知れねぇ」
「普通は逆ではないのですか? 今回のような事がないように、受けられるのではないのでしょうか?」
十重殿が苦く笑いながら嘆息を隠されたので、問い掛ければ緩く首を振って、炙り烏賊を一つ口に放り込んでいた。
「あいつの天邪鬼っぷりは母親譲りだ。それに負けん気の強さも。倒れたくせに、次の仕事じゃ忘れたようにがっついて行くのが分かる。だから、今はまだ、あいつの気が済むまでやらせておきたいんでさぁ」
「それが、本当に彼女の為なのでしょうか」
よく分からないが、普通なら危険な仕事から引き離したいのではないのだろうか。
けれど、十重殿はまた首を振った。
「と言うよりは、相手のためだな。今、嫁にやったところであいつは絶対に抜け出してくる」
「……あぁ」
重ねられた言葉に、思わず頷いてどうするんだ。と、直ぐに思い直したが草刈殿なら確かにやりそうだとしか思えなかった。
新妻が后守であると知らぬ誰かが、夜中に抜け出す姿やら、町中を彷徨つく姿を見れば噂立てるだろう。
それは、信用第一の商家としては問題になるのが明白だ。
「だもんで、今はまだあいつの気の済むまでさせるのが一番だ。勿論、繰り返す可能性の方がたけぇのも問題なんだがなぁ」
「しかし、使いの方らしき方は今日、彼女の家にお見えになっていましたよ」
忘れていたわけではないが、オレと入れ違いになった以上、十重殿は知らなかっただろう。
告げればやはり驚いて、新しく手にしていた串焼きを落とした。
「そんなはずはねぇ!」
突然の十重殿の大音声に、店の中が一瞬静まり返った。
「と、とりあえず、座って下さい」
慌てて座らせれば、ぐっと堪えるように残りの酒を空けた。
興味津々に聞き耳立てている気配があるが、十重殿が酒を注文しに立ったところで、どこかの客がまた話しを始めればあっという間に、元の喧騒が戻ってきていた。
「向こう方の話じゃ、来月以降に、しかもワシの所に寄こすって話だったんですぜ」
十重殿は戻るなり、二本目の大徳利を持って、再び升の中に移し変えて、また煽った。
「それは店主自ら言われたのですか?」
「へい。とは言っても、向こうさんの使いですが」
「あそこの店主は自ら仰ったことを、無断で覆すようなことは致しません。それは付き合いのあるオレが保障します。勿論、番頭の松助さんにも同じ事が言えますし、松助さんが勝手をしたわけでもないですよ」
「……なら、坊ちゃんが見たのは、一体」
なんだかおかしな方向に話が進みそうだな。
十重殿の話しに偽りは無いだろう。なら、オレが草刈殿の家で見た使いは……
そう言えば、男の使いの背にあった一つ紋は笹だったか、相模刀具の紋は確か、鍔飾りの紋だったな。
「もう一人、誰かが、彼女を見初めた。と考えるのが妥当でしょうか?」
「あいつが? こんな短い間で? ぶわっはははははっ!」
ここは笑うところなのだろうか。
酒が入ったせいで上戸になってるのかもしれない。ともかく、「ありえねぇ、ありえねぇ」と繰り返しながら笑う十重殿が目尻に溜まった涙を拭って、残っていた串焼きを一気に頬張った。
「あんな跳ねっ返りを欲しがるなんて、よっぽどだ」
「その余程に、彼の店が入ったわけですがね」
馴染み深い店を“余程”と評されてしまえば、苦笑するしかない。
しかも、十重殿は笑い上戸らしく、まだ肩を震わせている。
「大体、相模屋の話しも一体何処からそうなったのか、ワシには良く分からんのです。針仕事で使うような物なら、近くの金物屋で済ませてるし。遠い店から何でって所だぁ」
「あぁ、それは……多分、オレに付き合って頂いた時ですね」
縁が遠い店から使いが来たとすれば、白雛を預けに行く直前に、相模刀具店に立ち寄ったあの時だけだ。
あの時、番頭――松助さんは繕い直す草刈殿の姿を直ぐ傍で見ていたし、他にも店の人が声を掛けていた。
「だとしても、まだ嫁には行かせられねぇっ。そういう訳で、坊ちゃん。香月の事、宜しく頼んますわ」
「えぇ、今日のような事にはならぬように致します」
そう返事を返したら、何故か重たい溜息を吐かれた気がした。
「まあいいか。相手方さんの方にもそう伝えておきやす。いや、話しを聞いて貰えただけで大分スッキリした! 帰るか!」
パンッと大きく膝を打ち、立ち上がった十重殿の足元は酔いが回ってるのが良く分かるほどに、ふらついていた。
頭領に付き合うくらいだから酒に強いのかと思ったが、意外とそうじゃないらしい。
これは、自宅まで送った方が早そうだなぁ。