望む思い
地下から出た場所は、先に頭領と準備に立ち寄った浄善寺裏の近くのうらびれた家の地下倉だった。
常ならば影担いの誰かしらが家の中に居るが、今だけは人を払って朝までは誰も立ち寄ることは無いという。
先に頭領が此処に立ち寄ったは、人払いをするためと、長く風呂に入っていない十重殿のためだ。
細い月明かり頼りに裏庭で、ぬるくなってしまった湯だったが、十重殿には垢落しをしてもらった。
流石に洗い終われば一息つけた様で、どこか気の抜けたような、ほっとした表情が見えた。
そんな十重殿を挟み、頭領が軽い足取りで先に道を歩く。その背を見やりながら思うのは、今朝方の事。
草刈殿にはオレが敷いた道に乗るのは癪と云われたが、前を歩く人は、己の道に人を乗せるのが上手すぎる。
時に強引に、目の前で敷いた道を自分の道に引き込み、時に、先に道を敷いて気が付かぬうちに繋いである。全く持って恐ろしい人だと思うが……如何せん、鼻歌交じりに歩くのは辞めて欲しい。
「茂。見方が欲しいのなら、今から古竹を呼んでやろうか」
やっぱり、この状況の推移を明らかに楽しんで、見物人を呼ぼうかとまで言い放った。その上で、頭領は正しく十重殿の家の前で足を止めて、にやりと意地の悪い笑みを浮かべて十重殿に向き直った。
しかし、十重殿は大きく溜息を吐いて取り合うことはせずに、行灯の明かりが映る戸を静かに滑らせた。
「十重さん!」
隔てる戸が開かれたことで、ずっと待ちわびていた人の下に、草刈殿は文字通りに飛びついていた。
「……そろそろ、中に入れてもらえんか」
暫しの間、再会を喜び泣く彼女をそのままにしていたが、十重殿の言葉に草刈殿は泣き濡らした目元を擦りあげて、戸の前を開けた。
四畳半の家の中に全員が入れば流石に狭く、畳の上には始めのうち、頭領と十重殿が座り、茶を用意した草刈殿が十重殿と向き合って座っていた。
しかし直ぐに、頭領は土間に下りて畳の淵に、オレと同じように腰を降ろし直した。
「さて、香月だったな。お前達は俺の下したモノに不服があると聞いたが、相違は無いな?」
頭領の事を知らない草刈殿は、明らかに恐れて肩を跳ね上がらせた。
無理も無い。いきなり湯呑の中を空けると同時に叩き付けて、核心を突く言の葉を放つ。
「誤解ある言葉です。オレ達は十重殿が自ら処遇を望んだことは、受け入れております」
「え、あ……はい。その通りです」
軽い牽制を返せば、草刈殿も戸惑いながらだったが、何度も頷いた。
それでも頭領はじっくりと沈黙を敷き、獣のように草刈殿を伺っていた。
「そうか。なら良いがな」
そう言ったかと思えば、圧力を掛けた気配はあっさりと潜められ、勝手に茶の代わりを取りに立てば、草刈殿からは驚きを隠した吐息が零れていた。
「個人的な事を言わせて頂ければ、納得はしていませんが」
そう遅れさせて草刈殿へ向けて言えば、頭領に食われた勢いを取り戻したように瞳を輝かせた。
「そうよ、十重さんが辞める必要なんて無かったのに!」
草刈殿は取り戻した勢いのまま、真っ直ぐに十重殿に詰め寄っていた。
その分、十重殿が項垂れたように視線を外し、微かに首を横に振った。
「辞めるには、丁度良い機会だったんだ」
諭すように言われた言葉。それでも、草刈殿はその身を引くことなく真っ直ぐに十重殿へ瞳を向けていた。
折れてしまった。
矛を持てなくなってしまった。
そのどちらも知るには、十分すぎるほど、力の失せた、弱々しい言葉だった。
以前の強い十重殿の姿を知る者には、その姿と言葉に衝撃を受けるしかない。
「十重さん。また、そんな事言ってるの?」
けれど、草刈殿から放たれた言葉は、どうしてか、一蹴するほど簡単に放たれていた。
頭領を思わず盗み見れば、変わらず面白がっている表情が崩れていない。
どうやら、知らないのはオレだけか。
「辞め時ってなによ! あたしが、一人前になるまで絶対辞めないって言ってくれたのは嘘なの!」
草刈殿からぶつけられる言葉に、十重殿がまた怯んだ。
「お前は、もうワシが居なくとも、立派に勤めているだろうが」
「あたしは、そんな十重さんに認められたいわけじゃないわ!」
十重殿の取り繕う言葉も、草刈殿はぴしゃんとやっつけのけた。
隣で見ていた頭領が、やはり面白がって、こそりと口を寄せて「怖い女だな」と、呟いた。
頭領に一瞥だけはくれてやったが、オレが答えない気配を汲み取ってくれたのか、また奥の二人に視線を向けた。
「十重さんの嘘つきッ。だから、勝手に辞めるなんて決めちゃえるのよ!」
憤然とした草刈殿だったが、言葉を切ると同時に唇を噛み堪えているのが見えた。
互いに何も言葉を発する事も無く、ただ重たい沈黙が二人の間に流れ込んでいた。
「だから、逢いたくなかったんだ」
深い吐息と共に零された言葉に、オレ達は自然と視線を十重殿に向けていた。
集まった視線を受けてか、十重殿はそっと懐へ手を伸ばし、件の人形を草刈殿へと差し出した。
行灯の明かりの下、変わらず童人形の口元は弧を描いたままで、娘を想う優しい眼差しを草刈殿へ向けているように見えた。
「気持ちはありがてえ……けどな、元より護るには向かない手だったんだ。お前や坊ちゃん達を守ってるつもりで、なんもなっちゃいねぇ」
はっきりと言うには歯切れが悪かったが、紡がれた言葉は痛かった。
悉く約束を破った。
そんな自分が、戦場に立てるわけが無い。
そう、昨晩、はっきりとオレに言われた。
十重殿が守りたい約束を守れないのが嫌だと言うも分かる、オレは、自分で約束を破る事も怖い。
どちらなのだろうかと、考えながら人形と十重殿を見比べてしまった。
オレはまだ何一つ、誰との約束も守れていない……
「それは違うわ」
決して大きな声ではない。けれど、きっぱりと言い切った草刈殿の声が、何故かよく届いた。
「あたしの命は、十重さんに守って貰えた。だから今、ここに居るの!」
言いながら草刈殿は真っ直ぐに自身の胸を叩き、十重殿を見据えていた。
「でも、守って貰うだけも嫌なの。あたし、十重さんのこと好きだもん。だから、黙って出て行かれるなんて絶対に嫌なの!」
一生懸命だからこそ、オレの隣で茶を噴出しかけ、肩を震わせた人を黙らせてやりたかったが一足遅かった。
失言なんかじゃないのに、見る間に、草刈殿は耳朶まで顔を朱く染め上げてしまった。
「だだだ、だって、十重さんはお父さんみたいなものだし、守ってあげるって約束してたし」
オレ達に顔を向けながら、慌てて取り繕うから、彼女らしからぬ程、繋いだ声音が上擦っていた。
しかし夜中だからか、頭領の声を殺して引き攣り笑う姿に対して、代わりにオレが鋭く睨まれた事には、些か理不尽さを感じる。
「すまんすまん。予想外の言葉に驚いた。だが、こうも必死に止める娘は中々居ないぞ」
褒めているのか、それとも、からかっているのか……言い終えたと頭領は、草刈殿と十重殿の二人を見遣るだけだった。
「十重殿。先にも言った通り、オレ達は貴方が影から身を引く事を受け入れております。ですが、こんな形のままで見送りたくないんです」
場を取り成した訳ではないが、そう繋げれば、草刈殿も姿勢を正し、何度目か十重殿を見据えた。
「見送るなら笑って送らせて。十重さんを心配させたままで、見送るなんて絶対に嫌ッ」
草刈殿の明朗な言葉でも、十重殿の反応は酷く薄かった。
「心配なんて、する必要はねぇだろ。お前も坊ちゃんも十分に勤めてるんだ」
「なら、何故に面を上げて下さらないのですか?」
そう突けば、繕い笑おうとしていたが、やはり、視線は上がらなかった。
「何かを証立てして、安心するのであれば、幾らでもやりようがあります。ですが、十重殿が、そんな事を望んで居るとは思っていません」
むしろ、その方がずっと簡単だ。だが言ったように、そんな事を望んでなんかいる訳無い。
「あぁ、坊ちゃんの言う通りだ。願うなら、もう、ワシの事なんぞ忘れて、放って置いてくだせえ……」
「十重さん。それ、あたしに家族を忘れろって言ってるの? そんなの出来るわけないじゃない! お母さんも、お父さんも居たなら、きっとこう言うわ」
凜と向けた瞳は、思い出した哀色を浮かべていたが、どこまでも力強い。
「『何で手を伸ばす事を怖がるの? 助けて欲しいなら、遠慮なく伸ばしてよ。手を伸ばす事を誰が咎めるの!』」
ああ……正しく、彼女の母が言う言葉だ。
結殿の強さと優しさが、此処にある。付き合いが浅かったオレでも、そう想えたのだ。
十重殿の伏せた顔からは、窺いしるのは難しいが、震わせた肩が語っている。
「なあ、茂よ。お前自身はどうしたい。此処で背を向けるも、手を伸ばすもお前の自由だ。選んだ道なら、出来うる限りの手は貸すぞ」
頭領はいつもの様ににやりと笑いながらも、瞳は暖かく草刈殿へと向けられていた。
「十重さん。あたしは、十重さんに見捨てられた事、ただの一度も無いつもりよ。今も昔も、ずっと守って貰ってる」
「それはオレとて同じ事です。“悉く約束を破られた”と言われましたが、いつもオレ達の事を見守って下さっている。それも、間違いようの無い事実だと信じております」
古竹さんの言うように、見失っているだけなのなら、今一度……オレ達を見つけてください。
十重殿のお陰で、オレ達は今此処にいるのですから。
「どうか、あの日を不幸だと嘆かないで下さい。誰ひとり失いたくないと、護る為に立ち上がったと知っています」
もし、誰かが責を負わなければならないと言うのなら、それは十重殿ではない。
班を導くものとしての責として負ったのだとしても、それはもう十分なはずだ。
「正直に言うと、今の十重さんにはすっごく腹が立ってる。不幸だって言うのも落ち込むのも、そりゃ分かるけど。でも、裏を返せば、あたし達を見捨てたかったって言ってるようなものなんだもん! だから、今の十重さんには腹が立ってるし、それこそ、約束を破られた気もするわ」
再び草刈殿は、両手を付いて十重殿に差し迫り、瞳を釣り上げていた。
「それは、流石に言い過ぎな気もしますが……」
「良いの! だって、本当の事だもん」
思いがけない辛辣な言葉に、添えればやはり言い負けた。
だからこそ、と言えるのか。
「すまん……」
長い、本当に長い沈黙の後に、十重殿が呟いた。
今までよりも、ずっと解かれた声音だった。
「ワシは、ずっと思い違いをしていたようだ。ワシがお前たちを護るのが役目と思っていた。だが、護られていたのはワシのようだ。助けられていたのもな」
紡ぎながら、十重殿の視線は頭領へ向く。
つられてそちらを盗み見れば、些か罰が悪そうに座り直したのが見えた。
「坊ちゃん……」
「冬臥です」
「あぁ――冬臥、香月。随分と心配掛けてすまんかった」
いつかの様に言えば、十重殿は深く頭を下げていた。
「ちょっと十重さん。辞めてよ、そんな事して欲しいわけじゃないだからさ」
慌てて草刈殿が縋って、顔を上げさせる。
良かった。十重殿の吹っ切れた穏やかな表情に、素直に息を吐いた。
「話しは着いたようだな」
頭領の伺う声に、十重殿と草刈殿が頷いた。
「では、改めて告げる。
十重茂。この時をもって、お前の影担いの任を解する。以降、后守の影についての関与を禁ずる。
同時に、草刈香月、后守冬臥。お前たち両名は、影の任についての詳細をこの者への口外する事を禁ずる」
「承知致しました」
「はい。分かりました」
続けられた言葉に、オレも草刈殿も頷いた。
「茂。長らくの勤め大儀であった――全く、酒飲み仲間がまた減ったな」
「頭領、すんません。本当に、ありがとうございやした」
頭領として、長く共に同じ役に就いた仲間として、労いと、最後に本音を零して立ち上がれば、そのままこちらを振り返ることも無く、出て行った。
「本当に辞めちゃったんだね。ちょこっとだけ、頭領の気が変わること、期待してたのに」
頭領の姿も見えなくなり、気が緩んだのだろう。草刈殿は置かれていた人形を手にし、溜息混じりに呟いた。その言葉に十重殿がゆるゆると首を振って、望んでない意思を見せた。
「ですが、影の事に関しては言うなと言われましたが、会う事自体を禁じられた訳ではありませんよ。この先、無茶をせずにきちんと十重殿の元へ帰るのが、草刈殿の勤めですよ」
「そんなの、分かってるわよ」
反撃の言葉も勢いがやはり無い。笑うのは堪えて、始めに貰ったままの茶を飲み干し、オレも立ち上がった。
「十重殿。本当に有難うございました」
「いやぁ、礼を言うのはこっちの方だ、坊ちゃん……じゃねぇか、どうも癖付いてていけねえや」
「ねえ、十重さん。今日こっち泊まって良い? なんか、もう眠くなったわ」
決まり悪いと十重殿が零せば、草刈殿が大欠伸を隠していた。
「いや、ダメだ! 馴染みといえ、一緒に寝られるか。ぼっ――冬臥、悪いがこいつを家に連れて行く」
「えー……うちの隣、遅くにガタゴトやると、怒鳴り込んでくるからやだー」
慌てて連れ出そうと準備を始めた十重殿に人形を押し付け、その隙に草刈殿はごろりと畳の上に寝転がり、あっという間に寝息を立て始めてしまった。
「香月! ったく、結といい、香月といい……なんだって、こう親子揃って寝付きが良すぎるんだ」
十重殿が盛大な溜息を吐き出せば、諦めたのか夜着を引っ張り出して、眠ってしまった彼女に掛けていた。
「では、オレは行きます。また、古竹さんたちと鷹狩に行った際には、お土産持って寄らせて頂きます」
「ああ、楽しみにして待ってる。夜の道だ、気をつけて帰ぇってくだせえ」
暇の挨拶の際に、寝ていたはずの人が夜着の隙間から小さく手を振っているのが見えた。