望む手
十重殿、と小さく呼ばわって鉄格子の前に着く。
土壁に背を預け、薄い筵の上に座っていた彼が、小さく首だけで此方を見た。
開けたままのはずの鍵が掛かっている事に気が付いて、格子を開ける事をやめた。
「お加減のほうは如何ですかい」
「歩くのに差し支えはありません。無断で稽古に参加できるほどですよ」
そう嘯けば、クックッと忍び笑いが聞こえた。
「坊ちゃんのそう言う、明け透けなところは頭領に良く似ている」
懐かしそうに目元を細め、それでも落とした視線が上がる事は無かった。
折れてしまった――
外れて欲しいと思っていたのに、紛うことなく其処に在った。
「辞めたり、しないですよね」
それでも、居なくなってしまう現実が嫌だった。
子供じみた願いだといわれても良い。それでも言う事を止められなかった。
「今までみたいに、オレ達の傍で、見て居てくれますよね」
言った言葉に、たっぷりと沈黙があってから重たい溜息が聞こえた。
「坊ちゃん。こいつを、香月に返しておいてくれやしませんか」
静かに地面に置かれたものに、動けなかった。
夜明け色の柔らかな縮布で作られた丸い童人形。
作った草刈殿の母上の面差しに良く似たその人形が、そっと置かれていた。
その途端、訳も分からずに泣いていた。
ぼろぼろと勝手に溢れて落ちていくし、戸惑わせた事を謝ろうとして口を開こう思っても、嗚咽に代わってしまいそうで出来なかった。
自分自身でもどうして良いのか分からず、背を向けて収まるまで待つしか出来なかった。
「すみません……」
背を向けて、掠れた泣き声の情けないままで言うしか出来なかった。
「坊ちゃん」
「預かりません! 絶対に、嫌ですから」
重ねられるだろう十重殿の声を遮り、先に言う。
「坊ちゃん。聞いてくだせぇ」
静かに、それでも大きく掛けられた言葉にぐっと歯を食い縛っていた。
そうでもしないとまた、みっともなく泣きそうになる。
黙った事を了承と捉えたのか、重たい空気に緊張が混じった。
「ワシは、坊ちゃんが無事と知った日から、ずっと考えていた。けど、ダメなんでさぁ……」
何がダメなのか、教えて欲しい。
背を向けたままで、言おうとした言葉が、肺が震えて言えなかった。
「立てなくなっちまってたんだ」
十重殿の自嘲気味に笑う声に、迷ったけれど、もう一度向き直った。
「悉く約束を破っちまった事に気づいたら――もう、ダメだった」
地面に落ちているせいで、十重殿の表情は全く見えない。
地べたの上に胡坐をかいて座ってるだけなのに、折れて小さくなっていて。
認めて欲しいと思った漢は其処に居なかった。
知らぬうちに、一人、また失っていた。
「そんなワシが、戦場に出られる訳が無い。傍に居られるわけが無ぇんだ」
だから、すまん。明士――と聞き慣れない名が呟かれた。
「坊ちゃん。お願いします、これを香月に返しておいてくだせぇ」
童人形を滑らせ、前に差し出された。
こんな固い意思を見たかったわけじゃないのに。
「嫌です」
完全に不貞腐れて、意固地になってるだけと言われても、オレが受け取ってしまえば十重殿は……草刈殿に会う事もせずに、居なくなってしまうんじゃないか。そう思えた。
「せめて、御自身で渡してあげて下さい。その方が、彼女も納得してくれると思います」
根拠も無い言い分だけ言って、踵を返した。
「失礼します」
これも殆ど言い捨てだ。何か言葉を掛けられるよりも先に、逃げて上に戻った。
蔵を出て、扉に背を預けた形のままでずるずると、落ちていった。
さほど走ったわけでもないのに、荒ぐ呼吸を宥めて、落ちそうになる目元を何度か擦る。
追い詰めてしまっていた。
結殿のときと同じ間違いを犯して、また失う。
いい加減嫌になってくる。
うっかり、根元の方で折れてしまっただけな気がするんですよね――
古竹さんはそう言っていたけれど、そんな人を如何すれば助けられる。
何が出来る。折れた人に差し伸べるべき手はあるのか?
此処で考えていても、仕方ないと分かっているけれど、重たい体はちっとも動こうとはしなかった。
十重殿が居なければ、今のオレ達は居ないのに。
こんな事で、失ってしまう事が嫌で堪らない。
せめて、見送るにしても、もっと違う形にならないのか。
其処まで考えて、違う形と、引っ掛かった言葉に体を思わず起こした。
そうだ。せめてこんな形ではなく、もっと違う形で見送れないのか?
其処まで思い至ったが、其処からが続かなかった。
どうすれば良いのか、微かに見えた道筋なのに、其れを掴み切れないのが酷くもどかしい。
草刈殿に相談してみるか。
このことを相談できる相手は、彼女しかいない。一人で考えるより、ずっと良いかも知れない。
そう思い立ち、今すぐ駆けつけに行きたかったが、こんな真夜中に呼び出す訳には行かない。せめて、朝になってからだ。
家に戻った後は早く夜が明けないかと、落ち着き無く待っていた。
朝回りの時告げの声より、早く家を後にしたのは間違いない。
先日彼女を送ったばかりの道を、少しだけ迷ったが、軒先にぶら下がっている三つの松ぼっくりを目印にして、草刈殿の部屋を探し出した。
朝回りの時告げの声は聞いた。そこから時間は経っているし、多少なら近所迷惑にもならない……そう思い、名前を呼びながら戸を叩いた。
返事は薄いが中で気配が動いた。少し待ち、止まった気配にまた寝てしまったと分かる。
こればかりは、経験上間違いないと言えて、もう一度、強めに名前を呼び叩けば、今度こそ戸が開いた。
「こんな朝っぱら、なに……」
起きぬけのせいか落ちてきた髪を軽く掻き揚げ、険のある目を向けてきた。
「すみません。どうしても会いたくて」
朝っぱらからともあり、そう言って頭を下げれば、彼女は大袈裟な溜息を吐いてみせた。
「ちょっと、待ってて」
ゆっくりと戸を閉められ、暫しの間待てば、身仕度を整えられて外に出てくれた。
「とりあえず近所迷惑だから、付いて来て。亀さんのとこなら静かだろうし」
促されて草刈殿の後を付いて行いけば、長屋から少し歩いた先に、小さな稲荷神社と池があり、その周りには、確かに亀が沢山いた。
稲荷様に場所を借りることだけ告げて、自然と池の中に居る亀を追ってから、草刈殿へ向き直った。
「それで、何かあったの」
「古竹さんから、聞かれてはおりませんか」
草刈殿は亀を追っているのだろうか、何処かぼんやりとした質問の声に、昨晩の事を問い掛ければ、再び「だから、何を」とそっけなく返って来た。
聞いてはいないのか。
どう切り出すべきか、迷う。少しばかり迷って、結果は変わらないだろうとな、と思い至った。
「――十重殿が出て来られます」
どう切り出しても、感情を露わにするだろうと思っていた。けれど、拍子抜けする程、あっさりと頷いただけで、思わず此方に意識が向いていない事を良いことに、遠慮もなく驚いて見つめ返してしまった。
「いつ?」
「今夜です」
やはり無感動気味に声を掛けられ、数拍遅れに返事を返した。
「……思ったより、冷静に受け止められていますね」
結局、尋ねてしまったが、草刈殿はまだ、ぼんやりと景色を眺めているように見えた。
「寝起きで、まだちょっと回ってないだけ」
前置くように呟くだけ呟いてから、大きく両手を空に突きつけるように伸びをした。
思い切り伸びて、伸びきったところで組んでいた手を解いて、向き直られた。
「今夜なのね」
呟かれた言葉に歓喜が混じっていたが、視線が合った瞬間にその表情を曇らせた。
何事も無ければオレだって素直に喜びたい。けれど、そうじゃない……それを告げた上で、草刈殿と相談をしなければならない。
「十重さん、戻ってくるのよね?」
明らかな不安を浮かべた彼女に、頷くことは出来ない。
気がつけば、掌にじっとりと厭な汗が浮かんでいる。
「影の任を解き、放免とされます」
「ちょ、なんで、なんでなのよ! どうして、十重さんが辞める事になってんのよ!」
襟首を捕まれ、遠慮なく叫ばれた言葉に、先ほどまでの物分りの良さも無くなっていて、逆に安心した。
「だから、会いに来ました」
質問の答えになっていないと、睨まれたが気にしてても仕方ない。
「十重殿ご自身の意思で、任を解いて欲しいと云われたそうです」