静寂の訪
葉が不意に大きく揺れ、礫が正面から飛んでくる。
短く、重めに拵えた木刀で払い落とし、顔面に直撃するのを避けたが、横から打ち掛かって来た者に反応出来ず首元に一打、「はい、一本」と軽く打ちつけられた。
「まだ本調子には遠いようですね」
打ち据えた人は軽く息を切らせながら、空に手を差し伸べると軽い鳴き声に響がふわりと翼を動かし、その皺の多い手の上に止まった。
「古竹さんと響が付き合ってくれるお陰で、大分動けるようにはなりましたよ」
返事を返したオレはそれ以上に息が上がっていたが、稽古を再開し始めた頃よりは大分マシだ。
云われた通り、以前に比べたら全然動けていない。上がる息を早く戻す為に呼吸を変える。
以前は三十を数えるうちに戻せたが、五十三数えてようやく戻った。
「数え火も、もう消えそうですねぇ」
「もうそんな時間ですか?」
時知らせの鐘がない山奥で時間を区切るには、時知火の線香が欠かせず、稽古始めに付けた時知火がもう尽きると言う。
風除け皿に一刻分で用意したが、あっという間にその殆どが灰に変わっていた。
「休む事も大事ですからね。まあ、一狩りして帰りましょう」
「はい」
正直言えば、もう少し稽古をしたかったが、「稽古は一刻、狩りは半刻ですよ」と、古竹さんに稽古を付き合ってもらう条件をつけられていた。
オレもイブキを呼び寄せ揃ってから、新しく半刻分の時知火の線香に火をつけ、古竹さんが風除け皿を腰に括り付けた。
二人だけの狩りの中、収穫があればそれを持って『チドリ』に寄り、腹ごなしをさせてもらう。
けれど、十重殿に至っては僅かに飯に手は付けているが、変わらずだ。
必要最低限の命を維持する為だけに、手を付けている程度と思えた。
訪れた時には此方が勝手に話しを振るだけ振って、自らの意思でこの場に残る背につい、溜息を隠し残して家に帰る。
そんな繰り返しの中でも、一向に謹慎は解かれず道場での稽古もまだ許しも得られず、じりじりと時間が過ぎていく事に、焦燥を感じない訳ではない。
その中で結殿の月忌が明日と言う日に、一人で山の中へと向かった。
野辺摘みの花を持って山の中に入り道を進むが、目印にしていた村の跡が見えず道を間違えたかと思った。よく周りを見れば、以前に住んでいた人が手を入れに来たのか、それとも、他の近くの人が資材を簡単に入手できると来たのかは分からないが、使い勝手の良さそうな木材などが積み上げられ、まとめられていた。
しかし、山を切り開いたばかりのぽっかりとした空間とも違う、山の息吹で幾種の草花が芽吹き、幾らかその背を高くしている自然のありようをを見ると、打ち捨てられた姿を見た身としては実にのどかに見えるのだが……
夜の闇の中で見た時とも、雨の中で見た時とも違う穏やかな風景なのに、不可思議に近づけない違和感を感じていた。
何をおかしいと思うのかも自分では良く分からないままに、目の前に何があるわけでもないのに、そっと手を伸ばしてみた。
何も感じない。当たり前だ――と、そう思ったのに、差し伸べた腕だけに纏わり付く空気が異質だった。
この感覚は、覚えている。当たり前にある空気が層を作ったように纏わり付く感覚は、初めて、霜月分家へ訪れた時に感じた結界の中の違和感。
何故、こんな所に?
疑問に思いながら、差し出した場所だけ纏う空気の異質な感覚に気持ち悪くなり、引き戻した。
掌を曲げ伸ばしして確かめれば、当然何事もない。
自分の感覚を頼りに、右手側に結界の壁を置き、沿うように奥へ奥へ進んでいく。
村のあった場所だけに山は拓かれ、空から降る日差しの温かさと、地面に生える柔らかくそよぐ草の上に寝転べば、気持ち良さそうだろうな。
そんな事を思いながら、軽やかに鳴く鳥の親子が近くの枝から飛び立ち、日の当たる麓側へ向かおうとして、不意に方向を変えて、目の前を横切り日の当たらぬ方へと飛んで行く。
元からいたのか、薄鈍色の小さな蝶は花の蜜を求めて、ゆらゆらと近くの日の当たる花弁の上に留まり、翅を呼吸するように二度三度とゆっくりと広げ、最後には背の上でピンと立てて止まった。
今の時分に蝶は多いのか、白地に黒い水模様を持つ蝶が二匹。互いに互いを追いかけ、上下を入れ替えながら、鳥の親子が通った道へと向かい、葉を揺らし奥へ駆ける獣の気配もあったが、残念ながらその姿を見ることはなかった。
気が付けば、随分と奥に入っていた。結界に気を取られ、通り過ぎてしまったかと足を止めて、周りを確かめる。
方向が少しずれていたらしく、来た道を幾らか戻って村の位置をもう一度確かめる。
日の高い今だからさほど迷う事もないが、右手側に沿っていたはずの結界の感覚は失せて、左手側には例の間伐跡を行った後の開けた空間が見えた。
山に住む獣や草花が争ったはずの後を自然と隠していたが、前に置いた花が完全に枯れ果てていたが、置いた形を残していた。
前の花は地面を軽く掘って埋め、持ってきた花を木の根に立てるように添えた。
手を合わせれば風が鳴った。優しく吹きぬけたはずなのに、ざわざわと音を立てて行く葉の音の行方を思わず追っていた。
「おや――」
追いかけた先に、細い立ち姿の人影。
人が居た事に対しての驚きより、その人に見覚えがあり、思わず立ち上がった。
水浅黄色の紬に亀甲花菱柄。両腕をその袖の内に隠してゆるゆるとした足取りで此方に近づいてきた。
「今日が月忌だったのかい?」
「ええ……」
「そうかい」
ふふっと小さく笑い、隣に来ると花の前にしゃがみ込み手を合わせてた。
自然と見下ろす形になり、流れる黒髪は日に当たっているせいか、純粋な黒だけではなく幾らか灰色掛かり、そこから微かに見える白い首筋に、妙に焼けた色が見えた気がした。だが、立ち上がられてしまえば、履く高下駄も相まって見上げる事になってしまう。
彼の柔らかな物腰に見え隠れする冷たさと、どこか圧する所作が妙に気になる。
誰か達に似ている……誰か、では無く“達”という複数。それ故に、誰とも特定できないけれど、特定出来ないからこそ、目に付いて、気になってしまった。
「良い日に来たよ。君の慰め人には、申し訳ない事をしたかも知れないけれどね」
「いえ、お気になさらず」
掛けられた言葉に、考えを振り払い、次に浮かんだのは草刈殿……結殿なら気にしないで良いと、きっと言うだろうなと、言うことだった。
それに、廃村で辛い記憶を思い返しながら参るより良いと言っていたしな。
「しかし、はてな。随分やつれて見える。若い者が無理をしてはいけないよ」
ゆっくりと、首を傾げた男の緩やかな物言いに釣られるように首を振った。
「お気遣い有難うございます」
「いや、良いさ。私も君を見習って、次は花の一つも持って来るとしようかね」
柔らかく重ねたこの人が花を持てば、女性のように良く似合うだろう。
そんな不躾な事を想像してしまったが、「きっと喜ばれますよ」とだけ返しておいた。
「そうかい」と、優しく笑う狐のように瞳を細めて、男は来た道を引き返すように踵を返したが、ふと思いついたのか、半身をこちらに捻るように振り返った。
「最近、無頼の輩が多いという話を聞くよ。そのせいで辺りの空気が変わってしまった。十分気をつけたまえよ」
男に言われた言葉に浮かぶ顔は一つあった。確証は無いが、おそらく哭纏だろう。
「貴方もお気をつけて」
「ああ、ありがとう」
忠告した男は軽い足取りでまた去って行った。
帰り道、相模刀具店へ赴けば、淡い赤珊瑚色の異国の服を纏い、淡く浮かぶように背に流れる深緑色の髪を持つ人が、店主と揉めている姿が遠目に見えた。
大陸と交流のある西側ならさほど珍しい光景ではないだろうが、この町ではかなり珍しい。
近付けば、言葉が通じなくて難儀していると言うわけでも無さそうだ。むしろ、物凄く流暢で聴く限りなら違和感も何もない。
「何度も申し上げている通り、こちらは預からせて頂いている一振り。手前共の一存でお譲りなど出来ません」
柔らかいがきっぱりと店主が言い、二人共が近づいたオレに気がついて視線を向けてきた。
顔馴染みの店主は恥ずかしいところを見られたと言うより、困り果てたと両の眉を下げている。
もう一人は、気を抜くとその存在が目の前に居る事すら忘れそうなほど儚い雰囲気を纏っていて、正直この場所には似つかわしくない、線の細い女性だった。
その女性は当然、後から来たオレに訝しがった目を向けて、僅かに視線と気配で探られた。
それに気がつかない振りをして、店主の傍らに近付き、中への案内を願った。
自然と狭い間口を譲ってもらうこともあり、頭を下げれば、思いがけず真っ直ぐな視線を向けられていた。
白銀にほんのりと蒼を混ぜたような、不思議な、銀水色とでも云うべき瞳。
「ねえ」
短く発せられた声は、上等な硝子鈴の音を連想させ、思わず足を止めてしまった。
聞き惚れたと問われれば、その通りだと言えよう。決して大きな声でもなく、どちらかと言えば控えめに発せられた声を、零さずに捉えていた。
霜月本家で咒に掛けられていた時に見た環様のような、神々しさで人を魅せているような、さりとて儚さで意識を留めさせているような、なんとも不思議な人だ。
「あなたの、見せていただけるかしら」
「オレの……ですか?」
視線を彼女から引き剥がし、包んでいるが手に持っている木刀へ目を落とした。
「言い方が悪かったかしら。あちらに飾ってあるものよ」
淡い赤珊瑚色の服は外套だった。その隙間から、そっと忍ばせるように差し出された細長い指先が、正しく刀掛けに掛けられている白雛を指し示した。
驚き思わず店主へ目をやれば、目を開いて首を横に振った。
一言も教えていないと。
「ダメかしら」
計らずとも沈黙してしまったオレに、彼女は再び視線を、刀掛けに投げかけるように外した。
戸惑い躊躇いはするが、彼女が纏う空気は尋ねた言葉と等しく落胆していた。
何を思い白雛を見たいと思うのかは分からないが、悪意を持って尋ねた言葉でもないか。
「見る、だけで宜しければ」
「ありがとう」
ふんわりと口元を緩めて笑った彼女に、不意に心臓を掴まれたような痛みを覚えた。
片隅で考えなくても分かる。オレは、目の前の女に警戒した。
対して、傍に居た店主は、女の儚い笑みに魅せられていたようで、融けたような吐息を零して、促したオレに慌てて案内をしてくれた。
相模刀具店は受注者の完成品を、奥の高価な硝子窓で遮った刀掛けに添えてある。
御剣家御用達ともあり、お館様の持つ物と似た拵えの刀を展示し、以下の者達の刀を店の奥に飾り魅せる。
刀を見せ、鍛冶師の力量を人に見せ、収める鞘の清廉さを見せる。
良い刀を正しく欲する者の欲を刺激する為だと、いつぞやか店主に言われた。
「お待たせいたしました」
汚さぬようにと真新しい布越しに白雛を持ち、傍まで膝行してきた。
「有難うございます。拝見いたします」
受け取り、店主が下がり姿勢を整えたのを見てから、鞘ごと白雛を目の高さに持ち上げる。
鞘への収まり、傷、柄の結び目。それらを確かめ一度、畳の上に置き懐紙を咥えて、刀を抜き放つ。
僅かに光を反射し、今まで以上に白く綺麗な刀身を見せ、思わず感嘆の溜息を零したくなった。
そのまま切っ先から、峰、鍔元への収まり、反りを両面確かめて戻し懐紙を外した。
「確かにお受け取り致します。鍛冶師殿にも変わらぬ感謝を」
一礼を交わし、控えて座る旅人に向き直った。
「美しい刀だったわ。鉄を打っただけなのに、温かな表情があるみたい」
面白い表現をする方だ。刃紋が綺麗だと言うのはオレも同じ意見だったが、温かい表情とは思ってもいなかった。
「白雛という銘を頂いております」
「名前の響きも良いのね」
心の奥底から零された彼女の吐息に、おや? と首を捻りかけた。
この方は何かの目的があり、白雛を譲り受けようと店主に頼みこんでいたはず。
なのに、困ったと言う風情を見せるだけだった。
最も、此処で譲って欲しいと云われても、当然断るつもりだが。
「それでも、まだまだなのね」
言われた言葉に思わず、傍らに座っていた店主と顔を見合わせてしまった。
「それはどう言う……」
問いかけようとしたときには、彼女の姿は無かった。店を出た気配の欠片も感じられず、再び店主に振り返ったが、店主もやはり狐につままれた面持ちだった。
まだまだ、と云われた言葉が妙に引っ掛かりを覚えさせ、思わず白雛へと目を落としていた。
何と言うか、分からないけれど、何か間違えてはいけないような……漠然とした不安にも似た引っ掛かりだった。