宵明けの童人形
草刈殿が部屋の中に入ったのを確かめてから、オレは来た道を引き返した。
帰りの途中の通りで役人の町廻組に見つかってしまい、借家のある近くの町廻組に証明を立てて貰うのに、時間が掛かったのが少々面倒な出来事だったが。まあ、普通なら寝ているような時間帯に一人でふらりと歩いていれば、それなりに不審がられるのは分かっていたから仕方ない。
役人に聞けばこのところ、押し入り強盗が増えたらしく死傷者も少なからず居ると云う、そんな物騒な話を聞いて、帰宅の道から逸れて道場へ向かった。
草刈殿から預かったものを早く届けたかった。それに十重殿の……纏わり付いていた死の気配、とでも言うのか……深く思い詰めたものが怖くて、杞憂であって欲しいと願いながら、足早に向かい蔵の中へ入った。
中に下りれば、先から明りが零れていた。ヒカリゴケのものとも違う、炎の強い灯りだ。
先客が居る。
隠し部屋の中、灯る炎が動くたびにゆらりと揺れて、影を蠢かせた。
机の上に目をやれば、灯明皿の上に何か燃やしたのか灰が積もっている。誰がいるのか、それで予想が立つ。
見回すでもなく目の前の閂はやはり外れ、鉄扉も薄く開いていた。
先客はまだ中に居るのだろう。知らずのうちに唾を飲み込んで、隙間を僅かに押し広げ潜り抜けた。
一つだけ点けられた松明の灯りの下に一人、立っていた。
「冬臥か」
今、気が付いたと言う具合に頭領から声をかけられた。
「いつ、此方に戻られたのですか」
「さっきだ――」
淡々とした物言いだが、横顔に疲労感が影となって落ちている。
「坊ちゃん……あまり無理をして歩かれるのは」
牢の前に近付けば、運ばれた膳もそのままにし、力なく地面に座る十重殿が、心配そうな目を向けていた。
「今日、とても優秀な治術士の方に治療をして頂きましたから平気ですよ。まあ、余り世話にならないようにしたいと思いましたけれど」
思い出した痛みに一人で背を震わせれば、目の前の十重殿も、詰まった息をどうにか吐き出したような声を上げ、ついでに頭領も掌で隠した口元だったが完全に笑いを堪えていた。
「そうか、あれの治療を受けたか」
「はい。今日に至るまで知りませんでしたが」
そう答えれば、頭領から「不勉強だな」とあっさり言われた。
「お内儀様の治療も治術士の役目の一環だ。思いつかなかったのか」
分からないと口には出してないが表情がそうだったのだろう。そう重ねられて、なるほど、と至った。
会話の区切りが付いたところで、オレは格子に近づき袱紗を取り出し、中の人形を乗せたまま十重殿に差し出した。
微かに空気が張り詰めて、十重殿の大きな体がピクリと震えたのが見えた。
「お受け取り下さい」
一瞬伸ばされかけた手が、躊躇い、また膝の上に戻った。
「待っていると、伝えて欲しいと言われました。どうか……」
受け取って欲しいと願うが、ゆっくりと吐き出すと息と共に首を横に振られてしまった。
「ワシは今回の事ではっきりと決めたんだ。幽借如きで惑わされ、坊ちゃんを殺めかけた……下手を打てば影に着く后守全てを危険に晒す処だった」
だから……
続く言葉は飲み込まれ、沈黙が覆った。
だが、それをあっさりと翻したのは他でもない頭領だ。
あの人は壁に掛かる鍵を掴み、迷うことなく牢を開け放ち、中に押し入った。
「この、莫迦野郎が!」
殴るわけでもなくただ、額が付きそうなほどの間近で心の底から叫ぶ。
「茂、俺は言ったよな。影担いの指南まとめ役をお前に任せると。勝手に下りる事なんか絶対に許さん! 大体お前が居なくなったら、困るのは俺なんだよ! 古参は勿論、新しく入ってきた奴等の面倒なんか見てられるかッ。只でさえ西に呼ばれたり、琴世と一緒に居られなくてイライラしてんのに、お前まで面倒かけんな!」
……己の言いたい事を一気に言った頭領に、オレも十重殿も開いた口が塞がらなかった。
しかも、自分の事しか言っていないこの人の言い分に、笑う以外にどうしろと言うのか。
「頭領、それは、あまりにも酷くないですか」
「元凶のお前に言われたくない」
むづかりながら断言されれば、それがまた笑いの壷を刺激されてしまう。
本当に、オレ以上に我が儘をはっきりと言うから困るんだ。
――本当に、高すぎる壁だ。
「だが、お前達の謹慎処分は、まだ解くわけにはいかん」
気持ちを切り替えた仕草を挟んだわけでもないのに、静かに頭領の圧を加えられる。
まだ、少し笑いが収まっていない所だけは、容赦してもらったが、急に真顔になれと云われても無理な話しと言うところだ。
「冬臥。中に居る者への処遇に関してお前はどう思っている」
この部屋を預かる者として、そう含められたので頭領に倣う様に立ち上がり姿勢を正した。
「影担いとしての則を著しく乱したわけではありません。特殊な荒神により齎された物事には、慎重に慎重を重ねた上で、結論を出していただきたいと願います」
「自らの申し出により収まったと聞く。茂。それに相違は」
「……ありませぬ」
どう誘導するのかあからさま過ぎて、十重殿の視線が地面に落ちた。
「個人的な意見を加えるのなら、むやみに断じてしまえば、他の影担い達にあらぬ不信を生む可能性が高いでしょう」
添えた意見に軽く笑う音が聞こえた。率先して、楯突いてやると言い切れないのは、自分の弱さだろう。
それでも頭領からも十重殿からも続けられる言葉はなく、内側に居る頭領から鍵を投げ渡された。
「少し話をしたい」
外せと言われたので、それに従い鍵を元の場所に戻して、部屋の方に戻った。
話が終るまでの間、ただじっと待つしか出来ない。
ただ静かに、時間が過ぎていく。
ゆらりと炎が動いた気がした。それでも静かに待ち続ける。
どれほど経ったか。錆び付いた音が聞こえれば鉄扉の隙間から頭領のみが姿を現した。
互いに声をかける事も無く、挨拶代わりに向けられた視線に頭を下げ見送った。
歩く音が遠ざかるのを確かめてから、再び門の内側へ入った。
牢の鍵は外されたままだったが、床の上に胡坐をかく十重殿はあれから動いていないようだった。
「十重殿」
声を掛ければ、困ったと言うような僅かな変化を見せた瞳と口元が見えた。
だから、それ以上言葉を重ねずに頭領がしたように内側に入り、草刈殿から預かった人形を十重殿の手の中に収めた。
手の中の人形を眺めているのが分かって、袱紗を畳んだ。
重苦しく纏わり付いていた空気がほんの僅かに、緩んだ事を見届けて静かに後にした。