気後れ帰省
翌日も久弥が来てから起きる羽目になった。
熱が引いた自覚は無いが、朝五つの半時には久弥と入れ替わるように草刈殿が訪れ、挨拶代わりに盛大に溜息を吐かれた。
「あんた、どうしようもないわね」
「面目の次第もございません」
「お医者さんには……掛かってるわけ無いか」
「ああいえ、一応、時川殿――道場の師範代の伝で、久弥が連れては来てくれました」
「それなら、薬は飲んだんでしょ?」
「まぁ、一応……」
「さっきから一応一応って、自分の事でしょ?」
上がりながら言われ返事を返しても、納得した様子は見せなかった。
「とりあえず、昨日の直してきたから。ちょっと立ってみて」
草刈殿が風呂敷から取り出したのは、先日古竹さんから預かった藍染の着物。
先日と同じように背中から掛けられて仔細を整えられる。
「ん。丁度良いみたいね」
「助かります」
「それと、これ……」
帯を結んでいると、つっと手が差し出された。
夜明け色の柔らかな縮布で作られた丸い童人形。
糸を幾重にも丸めて縫われた瞳には愛嬌があり、口元も薄桃色の糸で縫われて優しい弧を描いている。
どことなく、面差しが彼女の母に似ている気がした。
「あたしの代わりに、十重さんに渡して。待ってるからって」
「分かりました。お預かりいたします」
預かった人形を袱紗に仕舞えば、草刈殿の瞳が微かに驚きに見開いていた。
「必ず、お渡しいたします」
告げて袖内に仕舞い込む。出掛ける段が整ったのを見て、土間の傍らに放置されるように置いたままだった白雛を手に、青海色の風呂敷で簡単に包んだ。
「必要ないじゃない」
「不十分な手入れのままで置いてしまいましたので、出掛けついでに磨ぎ直しに出そうかと思いまして。行きましょうか」
常なら腰に挿すが今は軽く抱くようにして白雛を持ち、やはりゆるゆると道を歩く。
足元の覚束ない中、時折近くの壁を借り、時折店の軒先を借りて歩くため、うっかりすると往来を行き来する人にぶつかりかけて、その度に文句を言われる。
「ぶつかっといて挨拶もなしか餓鬼ぁッ!」
「申し訳ございません」
「そっちがぶつかって来ただけじゃない」
前から思ってはいたが……草刈殿は喧嘩が早い。
昼時分時から酒を煽ってきただろう赤ら顔の男に、面と向かって遠慮もせずに言い放っていた。
「ぁんだと、てめぇがフラフラ歩いてたせいだろが」
「お酒に飲まれて、ふらふら歩いてる人に言われる筋合いは無いわよ」
鼻息荒く両手を腰に当てて息巻く彼女の姿に、他の人が恐ろしいものを見るような目つきで眺めている。
これ以上人が集まれば、一層面倒になりそうだな。
「申し訳ありません。先を急ぐ身故に、平にご容赦を」
言いながら草刈殿を後ろに庇えば、引きずった足元に赤ら顔の目が向き、定めるような嫌な視線が上がり手元で止められた。
次いでゆっくりと草刈殿へ視線が移ったようで、慄くように身を引いた音が聞こえた。
そして、僅かだが周囲の野次馬達へ目を向けて、「見世物じゃねぇ!」と怒鳴り散らして、盛大な舌打ちと共にくるりと踵を返し、近くの野次馬の一人を突き飛ばして歩いて行った。
「何よアイツ」
「下手な喧嘩騒ぎよりマシだと思いますよ」
正直、本当に喧嘩乱闘にならなくて良かったと思っている。
「なに女々しい事言ってんの。大体、あたしが後れを取るなんて思ってるわけ?」
「……そう軽い気持ちで、相手の息の根を止められては困りますからね」
「そんな役人の世話になる程にはしないわよ」
ふんっ、盛大に鼻息を鳴らして赤ら顔の去っていった方へ、キツイ視線を向けていた。
丁度、先の男のくたびれた藍縞木綿の背中が怒声を上げて、人影に飲まれて見えなくなるところだった。
実家に着いたとき、二人揃ってそれぞれの理由で、玄関の前で吐息を零していた。
「想像してたより、こじんまりとしてるのね」
「はぁ……」
先に御剣のお屋敷に伺ったせいもあるのか、后守頭領の実家という事で、妙に広い屋敷でも想像されたらしく、曖昧な返事を返す。
二階建ての家と言うのは、この町では商いを営む者の家という考えが強くあり、珍しいには珍しい。それに、不在がちではあるが頭領と琴世様の二人だけで住んでいるのだから、ちょうど良いと思う。
だがしかし、玄関に手を掛ける事も内に向かい声を掛ける事も、躊躇ってしまう。
無事な姿を見せてやらなくてはと言う思いと、見栄を張って家出した手前戻りにくいと言う……何とも情けない心持ちのままで、立ち竦んでしまっていた。
「それで、あんたが先に行ってくれないと、あたしも困るんだけど」
「……はい」
なにより、どう呼びかけて入るべきか……悩んでしまった。
「やっぱり、女々しいわね」
二度目に言われた言葉に返す言葉もなかった。
「ごめんくださーい!」
本当に行動が早いな。
躊躇っている間に草刈殿が玄関の戸を軽く叩き、近くにいたのか、か細い返事と戸が開けられるまでは割りと直だった。
久方振りに見た母上の姿に、小さくなられた輝政殿の姿が重なった。
以前は黒く艶やかだった髪は白いものの方が多く、骨が目立つように面やつれし、肌も青白く艶が失せて――記憶にある母上とは別人だった。
「あら?」
先に立つ草刈殿に戸惑っていたが、絶句して動けなかったオレを見つけると、手にしていた箒を落として両の掌を口元に当てて、息を呑んだのが分かった。
「十斗……」
呼ぶ人の居なくなった名を、溢れ流れていく涙と掠れた声に初めて、どれほど心配を掛けていたのか思い知らされた。
だから、余計に言葉が出なかった。
何と言って声をかければ良い?
線を引き、勝手をしているのはオレだ――
心配させていた。この先も心配をさせるんだろう。そう思うと同時に、やはり立ち寄るべきではなかったと……後悔した。
「あの、はじめまして、草刈香月と申します」
「あ、あらあら」
互いに動けなかった空気を和らげるように、草刈殿の淡々とした挨拶に嬉しそうな驚きの声が零れていた。
「さあさあ、二人とも中にお上がりなさい。私ったらちっとも気がつかなくて」
ぐすっと洟を啜り、濡れた目頭をそっと拭うと、戸を大きく開けて中に入るように促した。
草刈殿と共に揃い居室に座っていると、軽やかな足取りで茶が運ばれてきた。
長く心配を掛けたことに詫びを入れれば、寂寥を含ませてゆるく頭を振られた。
「后守に名を連ねる以上、覚悟はしていますよ」
そう、柔らかく言われた。
今日じゃないと思った! もっと、もっとずっと先になると思った、ただそれだけよ!
不意にそう叫んだ草刈殿を思い出して盗み見れば、やはり思い出していたのか、くっと口元を引き締め堪えていた。
「それで、今日は一体どうしたの? そちらのお嬢さんは? 何処で知り合ったの? 今はどんな仕事をしているのかしら? うちの子と――」
茶を一口含んでから母上が矢継ぎ早に一気に言い、思わず制止するように手を上げた。
「そんな一気に聞かれても困ります」
「あらやだ。ついつい、嬉しくてねぇ」
悪びれる事もなくころころと笑う姿は、記憶にある姿と変わらなかった。
しかも、一瞬変な質問まで混じった気もする。
「こちらは草刈香月殿。女性ながら親子二代に渡り影を担う、良き同胞です」
そう草刈殿を紹介すれば一瞬だけ、虚を突かれたような視線が向けられてきたが、黙って頭を下げてくれた。
「草刈香月と申します。母、結の遺志を継ぎ、共に影担いの勤めをしております」
「これはご丁寧に。冬臥の母、琴世と申します」
互いに深く礼を交わし、顔を上げると優しく草刈殿を見つめていたが、
「まあ、堅苦しい挨拶はこれまでにして、今日は一体どうしたの」
なにやら物凄く上機嫌に問われ、はじめに見たときよりも肌に血が通ったように上気していた。
「あ、えっと……その」
問われた視線はオレにではなく草刈殿にだった。それ故に困惑して助けを求められる。
母上もそれを見て、ふふっと口元を綻ばせている。
「紀代隆様や古竹さんから治術士の話しを伺い、参りました」
告げれば、柔らかく見せていた表情に硬いものが混じった。
「あら、皆に内緒にしてねってお願いしてたのに」
隠していたものが見つけられ、諦めたような溜息が零れた。
「オレは、お二人から聞くまで知りませんでした。何故に隠されたのですか?」
話を聞いて疑問に思った事を尋ねれば、にっこりと口元に弧を描かれ、思わず草刈殿と共に怯えを滲ませて、顔を見合わせてしまった。