勇み足
久弥と草刈殿の二人が帰った後、疲れもあり、すぐに深い眠りに就いていた。
そのまま朝まで寝ていられたのなら、少しは違ったのだろうが、隣人の高鼾が聞こえるような時分に目が覚めた。
夜着を捲り、念のため体を解してみる。
まだ少しばかり体全体の重だるさはあるが、動かした分だけ軽くなった気もする。
足の方はまだ痛みがまだあるが、抉られるような痛みよりも鈍痛で続く状態だ。
灯明皿に火を入れ、薬箱を箪笥の上からゆっくりと降ろす。
医師が往診で下げる薬箱よりは小さいが、普通の家で使う薬箱より大きい箱。うっかりと手を滑らさないとも限らない。
慎重に薬箱を降ろし、痛み止めの練り薬で足に湿布して、キツめに巻き止め、寝崩れた着物を調えて帯を巻く。
火の始末だけして、音を立てすぎないように気をつけ家を出る。
痺れる痛みを堪えて、時折近くの塀に体を預けながらゆっくりと道場に向かい、普段の倍以上掛けて辿り着いた。
誰もいない真っ暗な道場の敷地内を月明かり頼りに進み、地下へ潜る。一番の難所に、暫くのうちは頭の芯に痛みが響いて動けなかったが。
手探りで部屋に入り、机の上に打ち付けてある灯明皿に火を灯す。光苔の仄かな明かりから、炎の煌々とした明りで部屋が明るくなる。
変わらず威圧感のある黒い鉄扉に掛かる閂を横に外し、通れるだけの隙間を作った。
「ふぅ――」
門扉の重さに思わず息を吐いたが、もう一つ机の上にある灯明皿に火を移して、暗い隙間を潜った。
中に入るのはこれで二度目。初めて入った時もこびり付いた饐えた臭いに顔を顰めたが、今は更に臭いがキツくなっている気がする。
階段を降り、気配のある牢に近付く。
小さな牢の中で窮屈さも感じて居ないかのように、悠々と足を伸ばし背を向けて寝そべている人。
「なんだ、忘れ物かよ?」
振り返ることもなく言われた言葉が、思ったより元気そうで安心する。
「十重殿」
声を掛ければ寝そべっていたはずの十重殿が飛び上がり、格子に縋り付いて来た。
「坊ちゃん――ほ、んとうに? いやそんな……」
驚かれ具合と夢かと疑われしまったことに、苦く笑う。
「本物ですし、ちゃんと生きてます」
「あぁ……良かった。坊ちゃんに何かあったら、死んで詫びても足りないくらいだ」
「そんな大袈裟な。むしろこの様な処遇にまで追い込んでしまった事を、お詫びしなければなりません」
「止してください! ワシは――」
言いかけ、俯いたまま言葉を途切れさせた。長く影担いとしての経験を持つ十重殿だから、何か思うところがあるんだろう。
「十重殿、一つ頼まれて頂きたいのですが」
「ワシにですか?」
こんな牢の中に居る人間に何を頼むのか、ありありと浮かんでいた。
「此処から出て頂けませんか? 貴方から学びたい事がまだ、沢山あるのです」
願いと望みを託して告げた言葉に、十重殿は暫し呆然としてそして、首を横に振った。
「いけません、坊ちゃん……」
「如何してですか?」
弱々しく首を振ったまま、目線が地面に落ちたまま。
断られるとは正直思っていなかったオレは、格子に掛かっている無骨な手に触れた。
「何故? オレはこうして生きています。本来、貴方が一人で負うモノではない筈です!」
「坊ちゃん、今日はどうぞお戻り下さい――これ以上の無理をされれば、歩く事も侭ならぬ足になってしまいます」
「十重殿!」
「お願いしやす、今日のところはどうぞ、お戻り下さい」
掴んだはずの手が、するりと格子の内側に落ちていく。
そして、懇願されるように両の手を地面に付けられていた。
「すみません……貴方にその様な事をさせるつもりはなかった。今日は、これで戻ります」
頭に上っていた血が一気に引いた気がした。
「おはようございまーす」
明六つの鐘の音と殆ど同時に久弥がやって来たが、何時もとは違い、夜着を片付けた上で迎え入れる事が出来なかったどころか、体を起こしただけでくらりと来た。
それが一瞬、昨夜の一件の尾を引いているせいかと思ったが、どうも違うようだった。
「うわっ! 冬臥先生、大丈夫?」
「すまん、大丈夫だ」
熱く歪んだ視界を頭を振って誤魔化そうとしたが、どうにも上手くいかなし、汗で体に張り付く布地が不快感を増している。
「ちょっと良い?」
そう言って久弥の手が額に置かれると、見る間に険しい表情になっていく。
「熱あるじゃんっ! ちょっと待ってて」
水を桶に移し、手拭を何枚か傍らに積むとその内の一枚を濡らして渡してきた。
「えーっと、あと、着替え着替えっと」
勝手知るなんとやらだな。
渡された手拭で汗を拭きながら居れば、着物と傷薬などを桶の傍に集めおいた。
「晒しもびっしょりだし……乾いてるのあったかなぁ」
今回は傷も酷くて洗うのも一苦労していると一緒に零されたが、乾いた物を見つけると安心したように後ろについた。
手拭を久弥に渡し、体に巻きつけている晒しを自分の覚束ない手で外す。
外し終われば久弥が一度濯いだ手拭で、背中の傷に気をつけながら拭いてくれる。
「でも、本当に良かった。冬臥さんが目を覚ますまで、ほんと気が気じゃなかったんだよ」
「そいつは悪い事をした」
「良いよもう。でもさ、草刈さんが部屋にいた時は本当に驚いたけどね」
笑いながら言われ、こちらも苦笑するしかないが、背中に塗られる薬の冷たさが心地いい。
「何にも知らないで家に来たら、知らないお姉さんとお医者さんがいてさぁ、しかも草刈さん、べそべそ泣いてるもんだったから、死んじゃったのかと本当に思ったんだよねぇ」
「ほお……なら、もう少し寝ていた方が良かったか?」
「そうじゃないってば! 大体、起きるまでの間にも何度か、今みたいに熱が何度も出たりして、ホントッ大変だったんだから!」
無事だからこそ言っているんだと言う久弥に、もう一度詫びた。
「無茶、しないでくださいね」
しおしおと項垂れていく気配に、分かったと重ねた。
「あ、あとこれ。この前きた時に白い鳥が落としてったんだけど」
忘れていたと言う具合に、久弥が自分の荷物の傍に置いておいた手紙を差し出してきた。
宛名は書かれていても差出人の名前が書いてない。
だが、乱雑に書き殴られた文字には見覚えがある。
三つ折の手紙を開けば斜めに走るように“大馬鹿野郎”とだけ。
「……なに、これ?」
晒しを巻き直しながら、見えた手紙の内容を指して問われる。
もう笑うしかない。
この一言に一体どれだけの思いが込められているのか、垣間見えて笑うしかない。
「さぁな」
笑いすぎて痛む骨を抱え、ひとしきり笑ってから手紙を元の形に畳めば、久弥の不服そうな視線が向けられていた。
「人の手紙だ、あまり気にするのは良くないぞ」
そう窘めれば、短く「はい」と返って来た。
手当てと着替えも終れば、久弥が汚れたものを纏めて洗いに出て戻ってくると、床に就いて居ろと言われてしまった。
「とりあえず、今からカナデねーちゃんのとこ行って、先生連れて来るからね!」
そう、念を押されてしまった。
久弥には今度、礼を兼ねて、我が侭でも聞いてやらないとダメだろうな。