ふつう
「ふつう」とはいったい何だろう。
それが、恐らく私の核に近い部分に、ずっと流れている疑問なのだと思う。
ちなみにどうしてこんなことを唐突に言い始めたかというと、葬りきれずにいた過去の遺物に触れたからで、そこには多感な時期の私の叫びが綴られていたからだ。それを要約するとこの文章の書き出しになる。
ふつう。
便利な言葉ではあると思う。社会生活を送る上で、ある程度の共通認識みたいなものは必要だ。
日常会話の中でもよく出てくる。その全てをいちいち気にしていたら身が持たない程度には。
ところで私は、母親から「ふつうじゃない」という言葉を一身に受けて育った。
割とやることなすこと全てを否定されたので、常にその顔色を窺い、その人の言う「ふつう」を探ろうとしては失敗した。そしてまた「何でふつうにできないの」と怒られる無限のループだった。
うっすらとそういった背景があるので、恐らく必要以上に「ふつう」という言葉に過敏になったのだろう。
そして今でも、気付くとその問いを延々と考えていることがある。
ここまでの人生で、私に対して異様なまでの「ふつう」を求めた人は数人いた。
どうにかそれに応えようと、要らぬ方向への努力をしていた。エネルギーの使い道を完全に間違えていたわけだが。それもまた、この人生に必要な学びだったのだろう。これ以上は勘弁願いたいけれど。
安全地帯に辿りついて冷静に振り返ってみると、その人たちの言う「ふつう」はまあ、ふつうではなかった。そしてその「ふつう」の基準は常に相手にあったのだと思う。そこには対等とか尊重とかいった概念がなかった。
何だろう、私という人間に対して、常に相手の完璧な理想像通りに振る舞うことを要求されましても、である。
必死でそれに応えようとしていた私もまた、自分というものを見失っていたわけだけれど。
生きる上で踏み越えてはならないラインは存在するし、何気ないおしゃべりの中で常に細かい前提を共有しつつ会話するわけでもない。
もしかするとその辺りに、よく耳にする「ふつう」という概念は流れているのかもしれない。
けれど、人の数だけ考え方や感じ方があり、伝え方がある。
私にとっての「ふつう」が、極端に言えば誰かを傷付けてしまうこともあるし、逆もしかりだ。
そういったことを極端に恐れる必要もないのだろう。相手に対する敬意を忘れずにいれば、余程のことがない限り、会話を重ねる上で誤解は解くことができるだろうし、いつまでも噛み合わない場合はきっとそこまでのご縁だろうし。波長の合う合わないはある。
などとぼんやりと結論めいたものを出してみても、幼い頃から刷り込まれた「ふつうじゃない」といういっそ呪いのような言葉は今も私を縛っている。
きっとみんなそれぞれ、どこかふつうじゃないのに。




