アナログ
このデジタルの時代に、私はアナログで記録することを好む。
さすがに小説はデジタルで保存するのだが、その他の記録は手帳やメモ帳に手書きで残しがちだ。ちなみに字はそれほど綺麗ではないと言うか、走り書きに関してはその解読は不可能である。
逆に私にとってデジタルというかPCを使って小説を書くことの利点は、脳内を流れる映像を文章にしながら進める際のラグが手書きよりも大幅に少なくなることと、そして何よりあとで読み返しても判読が可能だという点である。
手書きを好んでいるものの、気を抜くと一生解読不能の暗号が残されることになるのが私だ。
今年の五月頃に執筆を再開してからは、設定やプロットもPCに打ち込んで残すようにしたものの、十年ほどの休筆期間の前は手書きのノートで管理していた。
そのほとんどは処分したのだが、二冊ほど残しておいたものがあり、実は現在連載中の二つの作品のプロットはそこから発掘した。
判別不能な部分については、現在の価値観に基づいて補った。だから当時考えていたストーリーとはほんの少し異なるのだろう。あの頃から変わらない部分もあるが、変わった感覚もある。
――という話はさておき。
小説以外の短い作品、日記、ライフログ。そう言ったものを私は手帳やノートに残す。ものによってはデジタルでもバックアップを取る。読み返す際の手間を考えると、検索機能が使える文書データの方が効率的だ。
それでも手書きがやめられない理由は何だろう。恐らく二度と読み返さない、もとい暗号化してしまい読み返せない十数年前の日記も捨てられないのはどうしてだろう。
それっぽい理由を与えてみるのは簡単だ。
手書きした方が記憶できる気がするから、とか、そもそも紙とペンが好きだから、とか。
けれど私の場合、その手書きの文字はほぼほぼミミズがのたうちまわっていて読み返せない。
もちろんどこかに提出する書類だとか、読み返すことを前提としているものについては気を付けて書く。
が、日記なんかはもう、吐き出すように勢いに任せて書く結果、字が崩れてただのぐにゃぐにゃした線なのだ。これはもう記録するというより吐き出すことが目的なのだろう。
好きだからというのは事実だ。それと同じくらい、手書きは習慣となっているのではないか。何となくそう思う。
一度習慣になったものを辞めるのは、きっとそれなりの意志が必要だ。そして今の私は、手書きを辞める理由を特に見出せない。
増え続ける使用済みノートや手帳の山を横目に、今日もアナログで文字を書き、絵を描いたりする。
まあそれでいいか、と思う。




