解釈
自分の作品が、受け取った方にはどう解釈されているのか。
物語を書いたり、その他の文芸、というか広く創作活動というものを行っていると、一度は抱く興味だと思う。少なくとも私は気にしたことがある。
小説というものを本格的に書き始めて少しした頃に思いがけない形で得た評価は、作者である私が意図した主旨とは異なるものだった。
それは私の文章の未熟さでもあった一方で、そう受け止められる程度の、ある種の強度のようなものは持っていたとも呼べるのだろう、と今では捉えている。もっとも、主題としたはずのものがそれほど強くは伝わらなかったという点は、やはり反省点であるが。
ただ、小説にしても詩にしても、あるいは絵画にしても音楽にしても、作者が意図したものだけが正解とは限らないと思う。
もちろん、作者としての意図というものは大前提として存在するし、それをいかに受け手に届けるかという部分は大切だ。
長編小説ならば描きたい物語があるし、その大筋をなるべく正確に届ける努力は惜しむべきではないだろう。
けれど。
例えば複数の登場人物が織り成す物語で、主人公とモブキャラの見ている世界はきっと違う。同じ作品の世界の中に、視点は数えきれないほどある。
それは現実世界でも、というか現実世界の方が顕著で、まったく同じ価値観を持っている人はいないだろう。
だから、作品の受け取り手の数だけ解釈は生まれるし、恐らくそのどれもが間違いではない。
作者の手を離れて世界に漂い始めた作品は、その瞬間から無限の可能性を秘めて旅を始めるのだと思う。
意図したものがすとんと届くこともあれば、たまに思いもよらぬ解釈が生まれ、世界が広がることもある。
個人的には小説には無数の伏線を散らしがちなので、その回収に気付いていただけた日には小躍りしたくなるが、その全てが読者の方に回収されなくても良いのだろう。
作品とは、作者の脳内の世界を精密に再現して誰かに届けるためだけの転送装置ではない。少なくとも私はそう考えている。
何をどう届けるかには工夫をこらしつつ、想定外の化学反応も楽しめれば、きっと創作活動はもっと楽しくなるような気がした。




