第2話:『神の供物(カリカリ)と、崩壊する規律』
立ち込める白煙と焦げたオゾンの臭気。
原生林の柔らかな土を無残に抉り取った金属ポッドの周囲を、即座に犬帝国の前線迎撃隊が包囲していた。
「包囲網を狭めろ! 風下に回るな、鉄の毒気に当てられるぞ!」
先陣を切ったドーベルマン卿が、抜刀した木削りの長剣を構えて鋭く号令を下す。背後には、樹皮の鎧で身を固めたシェパードやロットワイラーの重装歩兵十数頭が、一切の足音を乱さず槍衾を作っていた。
頭上の巨木の枝には、ベンガル率いる猫同盟の暗殺部隊が気配を消して張り付いている。
さらに上空では、カラス航空連合の偵察隊が「カァ、カァ」と金属ポッドのサイズと熱源反応を計測し、地上へと警告の旋回を描いていた。
一触即発の睨み合いをしていたはずの獣たちが、今や一つの「未知なる脅威」に向けて、完璧な生態包囲陣を敷いている。
金属ポッドのハッチから、プシューッと甲高い減圧音が漏れた。
ヒンジが軋み、重々しい鉄の扉が外側へと押し開かれる。
「……煙幕に警戒せよ! 何が出てこようと、大地を汚す機械の眷属なら即座に刺突――」
ドーベルマンの指示が、途中で凍りついた。
煙の中から転がり出るようにして姿を現したのは、三つの人影。
繊維で織られた白い宇宙服に身を包み、ヘルメットのシールド越しに咳き込むその姿には、四足の獣のような豊かな体毛も、空を裂く翼も、水流を操る鰭もなかった。
二本の足で立ち、何よりその両手には――かつてこの惑星の生態系を支配し、そして踏みにじった『親指』が存在していた。
「……サピ……エンス……?」
誰かが低く呻いた。
マルチーズ卿の絹毛が、恐怖と嫌悪で限界まで逆立つ。
樹上のベンガルの瞳孔が、極限まで細い針となって収縮した。
「悪魔が……神話の破壊者が、天から戻ってきたというのか……!」
「我らを捨て、鉄のゆりかごで逃げ去った旧主が……!」
ざわりと、包囲網全体に殺気と憎悪の波が広がった。
数千年の間、口伝と神話によって受け継がれてきた「かつて地球を殺しかけた傲慢な創造主」への呪詛。
「――殺せッ!!」
ドーベルマン卿の怒号が響いた。
重装歩兵が一斉に地を蹴り、鋭利な木槍の穂先が、まだ態勢の整わない三兄妹――レインスト、アミィ、ルミナリアの喉元へと殺到する。
「ルミナリア、アミィ、伏せろ!」
長男のレインストが叫び、妹たちを背後に庇う。
だが、こちらは大気圏突入の衝撃で満身創痍。生身のサピエンスが、鍛え抜かれた知性獣の突撃を躱せるはずもなかった。
最前線のシェパード兵の鋭い牙が、レインストの首筋に届く――そのコンマ数秒前。
レインストの手が、腰の緊急サバイバルバッグを無我夢中で引き裂いた。
「これでも食らえッ!」
投げつけられたのは、手榴弾でも、光線銃でもなかった。
真空パックが破裂し、宙に散らばったのは――茶色く乾燥した、親指大の小さなブロック片の群れ。
ケプラー452bで兄妹が「いつか帰れた時のために」と、旧時代の古代製法を忠実に再現して手作りした、無添加・天日干し鹿肉の宇宙保存食。
パチパチと乾いた音を立てて、土の上にそれが転がった。
その瞬間。
フシュッ――
大気中に広がったその匂いが、犬たちの鋭敏な嗅覚器官を直撃した。
数千年の自然交配と知性化の歴史を経ても、決して消し去ることのできなかった遺伝情報の最深部。
「主の手から与えられる、この世で最も尊き報酬」の記憶が、強烈な奔流となって兵士たちの脳幹をハッキングする。
「ガッ……!?」
先頭を走っていたシェパード兵が、空中で無理やり前足を突っ張り、土煙を上げて急停止した。
槍を構えていたロットワイラーたちが、突如として激しい痙攣を起こしたように両足を揃え、腰をストンと地面に落とす。
完璧な、寸分の狂いもない「おすわり」の姿勢。
「なっ……馬鹿者ども! 何を止まっている、突撃しろ!」
後方からドーベルマン卿が怒鳴りつける。
だが、当のドーベルマン自身も、鼻腔をくすぐるその匂いに直面した瞬間、カチリと喉仏を鳴らし、木剣を持つ手が小刻みに震え始めていた。
(な、なんだこの芳香は……!? 野生の鹿肉のそれではない……! じっくりと熱を通し、繊維の奥まで旨味を凝縮させ、なおかつ『善き行いをした時だけに許される』……あの神聖な匂いは……ッ!?)
兵士たちの視線は、もはや兄妹の首ではなく、地面に転がる茶色い塊に完全固定されていた。
荒い息遣いとともに、ハッハッと舌がはみ出し、ピンと張られていたはずの軍規はどこへやら、数頭の後ろ足からは「トントン」と無意識に地面を叩く音が漏れ始めている。
「……おい、レインスト」
次女のルミナリアが、ヘルメット越しに引きつった声を出した。
「この巨大な軍用犬たち……完全にヨダレ垂らして硬直してるんだけど」
「アミィ……これ、効いてるのか?」
レインストの問いに、生体通信の資質を持つ長女のアミィが、恐る恐るヘルメットのバイザーを上げた。
澄んだ外気の匂いを吸い込みながら、アミィは最前列で目を白黒させているシェパードの前に、ゆっくりと歩み寄る。
「貴様、動くな……ッ! サピエンスの悪魔め、我らを愚弄する気か……!」
シェパード兵は必死に威嚇の唸り声を上げようとするが、口角から溢れる唾液のせいで声が間抜けに濁る。
アミィは怯むことなく、そっと素手を伸ばした。
そして、緊張で強張るシェパードの三角耳の付け根――人間が数万年かけて愛犬に施してきた「最も気持ちの良い耳裏のツボ」へと、柔らかく指先を滑り込ませた。
「……怖がらせてごめんね。ずっと、会いたかったよ」
クゥゥゥゥン…………
歴戦の巨漢兵士の喉から、およそ戦場には似つかわしくない、情けないほど甘えた高音が漏れ出た。
「ひっ……!? へ、兵士長が堕ちたぞッ!」
樹上のベンガルが叫ぶ。
「犬ども、しっかりなさい! それは旧主の精神汚染トラップですわ!」
だが、叫ぶベンガル自身の鼻腔にも、風に乗って微かな匂いが届いていた。
レインストのサバイバルバッグの底からこぼれ落ちた、もう一つの小袋――『天日干し宗田節(削り粉)』の香ばしい匂いが。
「フニャッ……!?」
ベンガルの細い尻尾が、ボフッと一瞬で三倍に膨れ上がった。
(第3話に続く)




