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第39話: 風のない地で誰が追いかけるのか

静か。


ただの静けさではない。


耳を圧迫するような、重苦しい静けさだ。


世界の傷口の縁で、


ケイリス・ヴェイラは身動きせずに立っていた。


風…… 存在しない。


吹くこともなく、


ささやくこともない。


生まれて初めて、


彼は世界の「声」を聞くことができなかった。


「……おかしい」


寒さでもなく、


闇でもない。


これは…… 虚無だ。


彼はゆっくりと息を吸い込む。


だがその息さえも、鉛のように重たい。


まるでこの空気は…… 生き物のためのものではないかのように。


「……誰かに見られている」


目を細める。


本能が叫んでいた。


逃げろ、と。


だが足は一歩も動かない。


彼の中の何かが、こう告げていたからだ。


見ろ、と。


亀裂の前の地面が……


震えている。


微かに。


まるで脈打つかのように。


ドクン。


一度。


ドクン。


二度。


ケイリスは即座に手を上げた。


体に残ったわずかな風が集まる。


細く、


だが鋭い刃となって。


「……出て来い」


地面の亀裂が…… さらに深く広がる。


中の闇がうごめき、


何かが…… ゆっくりと上がってくる。


一つの頭が現れ、


次に二つ目。


そして最後に、


三つ目の頭が姿を見せた。


三組の瞳が同時に開かれる。


どの瞳も虚ろで、


魔力もなく、


感情もない。


ただ…… 命令だけが宿っていた。


その生き物が完全に外へ出る。


巨大な体は、影と肉が混ざり合ったような姿をしている。


皮膚には黒い亀裂が無数に走り、


口を開けても、


声は何も出さない。


ただ…… 生気の感じられない息遣いが漏れるだけ。


ケイリスはじっと見据えた。


「……これは」


「……生き物ではない」


「……間違いだ」


彼が先に動いた。


体から風が爆発するように放たれ、


ゴウッ!


風の刃が生き物の体に叩きつけられる。


切り裂き、


粉々にするはずだった。


だが、


わずかに…… 位置をずらしただけ。


ケイリスの目が大きく見開かれる。


「……反応がない……?」


生き物は後退りもせず、


微動だにもしない。


三つの頭のうち一つがゆっくりと向きを変え、


まっすぐケイリスの方を向いた。


そして次の瞬間、


その姿が消えた。


「……っ!」


ケイリスは即座に後ろへ跳ぶ。


彼が立っていた場所の地面が、


一瞬で砕け散り、


大きな亀裂が生まれる。


この速さは……


「……速すぎる……」


再び手を上げ、


風を渦巻かせて、


空間全体に圧力を生み出す。


動きを封じるために。


だが生き物は、


その圧力など存在しないかのように、


突き破ってくる。


頭の一つが、ケイリスの顔のすぐ近くで、


空気を噛むように動く。


彼は急いで後ろへ退がるが、


少しだけ遅れた。


着ていた上着の袖が裂け、


細い血の筋が流れ出す。


動きを止め、


自分の傷を見つめる。


「……俺が、傷つけられた?」


そんなことは滅多にない。


ほとんど皆無と言っていいほどに。


視線を上げると、


生き物はもう攻撃してこなかった。


ただその場に立ち、


こちらを見つめ、


待っている。


「……凶暴なだけじゃない」


「……命令を待っているんだ」


その事実に気づいた瞬間、


どんな攻撃よりも恐ろしいものを感じた。


ケイリスは歯を食いしばる。


「……動きが全く読めない」


「魔力もない」


「法則性もない」


生まれて初めて、


風の魔術師としての絶対的な優位性が、


何の役にも立たなかった。


一歩後ろへ下がり、


さらにもう一歩。


目だけは生き物から離さない。


「……こんな所で死ぬわけにはいかない」


決意が固まる。


恐怖からではない。


ただ、


この事態を外へ伝えなければならないからだ。


「……一人で対処できる相手じゃない……」


彼は体の向きを変え、


走り出した。


体の風が彼を押し上げ、


速度を上げる。


だが、


背後で再び地面が砕ける音が響く。


生き物が動き出した。


追ってくる。


音もなく、


感情もなく、


ただ一つの目的だけを持って。


標的を捕らえるために。


闇の奥深く、


玉座は静かに佇んでいた。


アーギエル・ルシファーが無表情に腰を下ろし、


その側では、


レイラー・ゼルナルダが薄く笑みを浮かべていた。


「……まだ死んでいないようですね」


アーギエルは微動だにしない。


「……放っておけ」


冷たい声で答える。


レイラーは首を傾げる。


「……逃がすおつもりですか?」


アーギエルは前を向いたまま言った。


「……恐怖を抱えたまま、外へ行ってもらう」


しばらくの沈黙。


やがて、


アーギエルはわずかに顔を向ける。


「レイラー」


低い声で呼ぶ。


「……ケルベロスとは、何だ?」


レイラーは笑みを深める。


まるで当たり前のことを説明するような口調で、


手をゆっくりと上げると、


二人の足下の闇がうごめき、


一つの輪郭を描き出す。


「三つの頭、」


「三つの本能、」


「そして一つの命令だけを持つ存在です」


瞳に微かな光が宿る。


「魔力を持たず、恐怖を知らず、」


「迷うこともなく、」


「標的が消えるまで…… 決して止まることはない生き物」


アーギエルは黙って聞き、


ゆっくりと頷く。


「……悪くない」


レイラーの笑みがさらに大きくなる。


それから、


いっそう柔らかな声でこう続けた。


「……私たちの子供が……」


「……今、あの村にいます」


再び沈黙が訪れる。


アーギエルはすぐに答えなかったが、


その瞳の色が、


わずかに変わった。


「……知っている」


短い答え。


だがそれだけで十分だった。


玉座の下の闇が、


再びゆっくりと脈打ち始める。


世界の上空では、


ケイリスが走り続けていた。


呼吸は整っていたが、


心の中は…… 混乱したまま。


「……あの生き物は……」


「……通常の方法では止められない……」


小さな崖を飛び越え、


足下で雪が砕け散る。


振り返った瞬間、


彼はそれを見た。


遠くの方で、


生き物がまだ追いかけてくる。


速度を緩めることもなく、


止まることもない。


「……俺を、追っているのか……」


生まれて初めて、


風の魔術師は、


狩られる者の立場になった。


風が再び彼のもとへ戻ってくる。


だがそれは、道しるべとしてではなく、


ただ、


立ち止まらせないために……


彼の背中を強く押し続けていた。

「次回更新: 5月 12日 20:20」

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