第25話: 何が委託されているのか
黒花と日の村の間に広がる森は、どこか様子がおかしかった。
動物の鳴き声一つしない。
新鮮な空気を運ぶ風さえ、止まってしまったかのようだ。
ただ一つ、聞こえるのは――
足音だけ。
ゆっくりと。
規則的に。
そして、二人の緊張感だけが、辺りを支配していた。
先頭を歩くのは、不知明秋原。
視線は真っ直ぐ前を向いているが、その瞳は決して油断していない。
わずかな影の動きも…
折れる枝の音さえも…
彼は全てを見逃さない。
その後ろを、
リオラ・ライゼンが
ノアを大事そうに抱えてついてくる。
手つきは安定しているが、
その目は時折、背後を振り返る。
「…まだ、感じる」
リオラが小さく呟いた。
秋原は振り向かない。
「ああ」
たった一言。
だが、それだけで十分だった。
何かが、
確実に自分たちの後をついてきている。
近づいては来ない。
だがといって、
離れてもいかない。
ただ、見ている。
待っている。
再び、重たい沈黙が二人を包み込んだ。
しばらく歩いた後…
リオラは少しだけ視線を落とし、腕の中で眠るノアの顔を見た。
その寝顔はあまりにも穏やかで、
まるでこの世の悪いものなど、何一つ存在しないかのようだった。
「…不思議な子だね」
秋原が少しだけ横目で見る。
「この子って…」
リオラが再び、静かに言葉を続ける。
「いつだって、落ち着いてる」
秋原はすぐには答えなかった。
「…まだ、何も知らないからだろう」
――あるいは、
本当は何もかも知っているのかもしれない。
だが、その言葉は口にしなかった。
二人の足は止まらない。
そして、ついに――
光が見えた。
木々の間隔が開き、
風の音が変わり、
彼らの目の前に、
日の村が現れた。
静かで、
温かく、
まるで外の世界の荒波など、最初から存在しなかったかのような場所。
リオラが小さく息を吐く。
「…着いたね」
秋原がゆっくりと頷く。
だが、彼の足取りは緩まない。
これから自分がここですることが、
どれほど困難なものになるか――
彼自身が一番よく知っていたからだ。
村の中へ足を踏み入れると、住民たちの視線が一斉に集まった。
秋原のことを「アキラ」として知る者も多い。
だが、
彼らの眼差しは決して友好的とは言えなかった。
そこには、戸惑いがあり、
そして、明らかな恐怖があった。
特に――
リオラの腕に抱かれた赤ん坊を見た瞬間、空気は一層張り詰めた。
ひそひそと、囁き声が漏れ始める。
「あれは…誰の子だ?」
「なぜ、今になって戻ってきたんだ…?」
「あの時の出来事があって…」
秋原が足を止めた。
村の広場の真ん中で、
ゆっくりと人々を見渡す。
沈黙が広がり、
全ての視線が彼に注がれる。
秋原が、ゆっくりと口を開いた。
「…皆に、頼みがある」
声は大きくない。
だが、場の全員にはっきりと届く声音だった。
彼は一歩、前に踏み出す。
「この子を…」
ノアの方を見つめ、
「…どうか、守ってやってほしいんだ」
静寂。
誰もすぐには応えない。
住民たちは顔を見合わせ、
ためらい、
そして怯えていた。
すると、一人の老人が前に出てきた。
「…アキラ」
その声は、慎重だった。
「俺たちは、お前が良い男だってことは知ってる…だがな」
老人はノアに視線を移す。
「お前が戻って来てからというもの、この村では奇妙なことばっかり起きる。これ以上、何かあったら…俺たちはもう、リスクは負えないんだ」
周りからも、低い同意の声が上がる。
「そうだ、何かあったらどうするんだ…」
声は小さくても、
その重みは確かに、二人の心に突き刺さる。
リオラはノアを抱く腕に、自然と力が入る。
表情は強張っているが、何も言い返さない。
秋原はただ、静かに立っていた。
怒るでもなく、
傷つく様子もない。
なぜなら、彼自身も――
彼らの言うことが正しいと、分かっていたからだ。
「…わかってる」
静かな言葉が漏れる。
彼は少しだけ肩を落とした。
「だから…俺たちは長くは留まらない」
沈黙。
だが、それでも
誰一人として、手を挙げる者はいない。
誰もが、怖がっていた。
その時だった。
パタ、パタ…
小さな足音が響いた。
ゆっくりと、
人混みの後ろの方から。
一人の小さな女の子が現れた。
髪はぱつんと切り揃えられ、
瞳は澄んでいる。
彼女はまっすぐノアを見つめ、
それから秋原の方を見上げた。
「…わたし、できる」
一同が驚いて振り返る。
「ひ、ヒナちゃん!?」
後ろにいた老婆が慌てて声を上げた。
ヒナは怯むことなく、一歩また一歩と近づく。
「…わたし、この子を守れる」
場の空気が、一瞬で変わった。
「バカ言っちゃいけない!」
「まだ子供なんだから!」
だがヒナは引き下がらない。
ただ真っ直ぐ立ち、
はっきりと言った。
「…この子、全然こわくないもん」
単純で、
だけど、純粋な言葉。
リオラが彼女を見つめ、
秋原もまた、その小さな背中を見た。
数秒の間、
誰も言葉を発することができなかった。
ヒナがさらに近づき、
迷いもなく――
ノアに向かって、ふわりと笑いかけた。
すると、ノアがゆっくりと動いた。
まつぶたが持ち上がり、
うっすらと開いた瞳がヒナを捉える。
そして、生まれて初めて――
小さく、微笑んだように見えた。
「…ほら?」
ヒナが小さな声で言う。
「いい子だよ」
沈黙。
その瞬間、張り詰めていた何かが解けた気がした。
秋原が、長く息を吐く。
「…本当に、いいのか?」
ヒナが、力強く頷く。
「うん!」
祖母は心配そうに見ていたが、
もう止めようとはしなかった。
しばらくして。
リオラが秋原の方を見る。
秋原はノアの顔をじっと見つめ、
そして、ゆっくりと頷いた。
「…じゃあ、頼む」
リオラが、ゆっくりとノアを差し出す。
手は少しだけ震えていたが、
もう引き返すことはしない。
ヒナが、それを大事そうに受け取る。
まるで、世界で一番尊い宝物を扱うように。
ノアは大人しく、
穏やかなまま、
それを受け入れているようだった。
リオラはしばらくその姿を見つめていたが、やがて小さく囁いた。
「…よろしくね」
真剣な、だけど柔らかい声。
ヒナが大きく頷く。
「うん!」
秋原は余計な言葉を発しない。
ただ一瞬だけその光景を目に焼き付け、
くるりと背中を向けた。
二人は村を後にする。
振り返ることはない。
だが、その足取りは――
来た時よりも、ずっと重たいものだった。
村を出て、少し離れたところで。
リオラが、やがて口を開く。
「…本当に、あれでよかったの?」
秋原は歩き続けながら、
低い声で答える。
「…この子が一緒だったら、標的になるだけだ」
たった一言。
だが、その意味は明確だった。
リオラは小さく頷く。
「…そう、だよね」
風が木々を揺らす。
二人の進路は南へ。
更なる闇の中へ。
彼らが目指す先は――
『ムシャフ王国』。
背後では、
日の村が再びいつもの静けさを取り戻していた。
まるで、何も起こらなかったかのように。
ヒナは自分の小さな家へと戻り、
ベッドにノアをそっと寝かせた。
祖母が、まだ戸惑いながら言った。
「…この子、大丈夫なのかねぇ…」
ヒナはくすりと笑う。
「だいじょうぶだよ。いい子だもん」
そう言って、ノアの顔を覗き込む。
ノアがゆっくりと目を開け、
天井を仰ぐ。
――その瞬間。
瞳の色が変わった。
深く、
暗い紅色へと。
そして、家の外では。
風が、ぴたりと止んだ。
遠くの木々の間から――
再び、黄金色の瞳が現れた。
前よりも、ずっと遠い位置に。
だが確かに、
それは存在し、見つめている。
そして今回、
その視線の先は――
日の村ではなく。
秋原とリオラの背中へと、
向けられていた。
「次回更新: 4月 28日 20:20」




