第128話 届けるべきもの
Side:オズヴァルト
その日の午後、オズヴァルトは国王夫妻のもとへ呼ばれていた。
「前の書状も、そこにある」
国王が示した束から、オズヴァルトは一通を抜いた。
折り目の深くなった紙には、都市の井戸と貯水池の様子が記されていた。水位の低下。運び込む水の量。水を待つ人々の列が、日ごとに長くなっていること。
新しく届いた書状では、いくつかの井戸が、もう使えなくなっていた。
「ずいぶん、切迫してまいりましたね」
オズヴァルトは二通を並べた。
机の向こうで、兄である国王が頷く。
「魔女の派遣を、重ねて願い出ている。今度は、現地の者たちの訴えまで添えてきた」
束の下には、幾人もの名が連ねられた紙があった。
商いを続けられなくなった者。畑へ回す水がなくなった者。家族に飲ませる水を得るため、仕事を休んで並んでいる者。
先方の使節は、これを読み上げたという。
オズヴァルトは、残る書状にも目を通した。
別の国では、植熱病の広がりによって、人が去った村が増えている。さらに別の報告には、作物の不調に重なるように、人々の病が記されていた。
歯茎から血が出る。傷の治りが悪い。次第に身体が弱り、起き上がれなくなる者もいる。
「衰血病、と呼んでいるようです」
傍らの椅子から、王妃が言った。
「傷んだ作物を口にしたせいだという者もいるそうですが、確かなことは分かっていません。食べられる物が減っている土地で、病人が増えていると」
「こちらは、薬の魔女を求めているのですね」
「そうだ。以前にも似た症状の者はいたようだが、これほど増えたことはなかったという」
国王は、机へ置いた両手を見下ろした。
「これまでは、派遣を約束せずに返答を続けてきた。あの者たちが何を使って人を救っているか、我々は知っているからな」
扉は閉じられていた。給仕も、書記も、この部屋には残っていない。
「イネスは、人を助けたいと望んでいる。その気持ちを当てにして、こちらから命を使うよう頼んでよいものかと、ためらっていた」
オズヴァルトは、書状の端を揃えた。
そのためらいの間に、先方の井戸は使えなくなった。
それでも、国王がすぐに派遣を命じることはないだろう。魔女を王宮へ迎えてから、そうした扱いはますます慎重になっていた。
「ですが、この訴えを、もう読まなかったことにはできません」
王妃は、名の連なった紙へ目を向けた。
「事情を伝えて、どうしたいかを聞く必要はあると思います」
「私も、そう考えている」
国王は、新しく届いた書状へ手を置いた。
「ユリウスにも、これまでの要請については話してある。ただ、隣国へ発つ前には、まだ派遣する話は進めていなかった」
国王の指が、訴えに添えられた名の上を辿った。
「この訴えが届いたのは、出立のあとだ。向こうにも知らせてくれ。だが、帰りを待ってから話を始めたのでは、それだけ先方を待たせることになる」
国王が、オズヴァルトへ目を向けた。
「オズヴァルト。あの者たちの意向を確かめてくれぬか。引き受けるのであれば、先方との話も整えてほしい」
「承知いたしました。まず、雨を求めている都市の件から伺いましょう。受け入れの支度と、こちらから向かう際の条件を、先方へ確認する必要がございます」
「本人の返事が先だ。それを得る前に、派遣すると約束してはならぬ」
「もちろんでございます」
「一度引き受けたからといって、先方の求めるままに力を使わせることもできません」
王妃が続けた。
「受けるかどうかも、どこまで引き受けるかも、本人と話してください」
オズヴァルトは一礼した。
「まずは、この都市と、その周辺から寄せられている要望を整理いたします。ほかの土地の依頼を、際限なく加えられることのないように。滞在中の警護と、帰還の保障も求めましょう。こちらの護衛を付け、現地での案内も用意させます」
国王は、しばらく書状を見てから頷いた。
「頼む。国内にも、あの者たちを待っている土地がある。そちらとの兼ね合いも忘れぬように」
「はい。調整を進めます」
オズヴァルトは、預かった書状をまとめた。
国王夫妻の前を辞し、扉を抜ける。廊下に控えていた者が、すぐに後ろへ従った。
*
執務室へ戻ると、オズヴァルトは水不足の都市に関する書状を、手元へ分けた。
使節が添えた図には、街の水場と、周辺の農地が描かれている。
井戸と貯水池を満たすだけでも、多くの人が助かる。農地まで救えれば、次の収穫にもつながるだろう。
この規模の都市へ水を運び続けるには、人も、馬車も、費用も要る。
雨の魔女が向かえば、その働きを大きく補える。
それに、これほど困窮した時の援助は、先方も忘れまい。
礼として差し出される金銀だけが利益ではなかった。特産品や鉱石を得る取引にも、今後、こちらの求めに応じてもらう交渉にも使える。
救援を成し遂げれば、得られるものは大きい。
「この都市について、使節から届いている資料を揃えてくれ。水の残り具合と、受け入れの支度が分かるものを。イネス殿は、戻っているか」
机の向こうに立った男が答えた。
「まだでございます。農地の件で、役所へお出かけと伺っております」
「では、戻り次第、面会を願いたいと伝えてくれ。国外からの雨の要請についてだ。書状は、こちらで用意しておく」
「かしこまりました」
「王太子の帰還の予定に、変更は?」
「今のところ、そのような知らせは届いておりません」
「今回の要請について、あちらへ送る書状は、もう出ているか」
男は、手元の控えを確かめた。
「いえ、まだでございます」
「では、面会の結果も添えよう。今日のうちに文案を整えておけ」
男が頷き、退室した。
ユリウスが戻るまでには、まだ間がある。知らせを送っても、すぐに返事が届くわけではない。
本人がどう受け取るか。断れる状況か。引き受けたとして、それは望んだ返事なのか。
魔女を迎える際にも、繰り返し聞いたことだった。
今回も、同じことを確かめたがるだろう。
本人から承諾を得て、手配も進めておけば、話は早い。
先方も、いつまでも待てるわけではないのだ。
オズヴァルトは、図の上へ書状を広げ直した。
*
窓から入る光が傾き始めた頃、イネスが役所から王宮へ戻ったとの知らせが届いた。
面会へ伺うとの返事を受けてから、ほどなく、イネスが訪れた。
淡い灰金色の髪を低くまとめ、薄い外套を腕に掛けている。
「失礼いたします、殿下」
「お戻りのところ、お呼び立てして申し訳ありません。どうぞ、お掛けください」
オズヴァルトは向かいの椅子を示した。
イネスが腰を下ろすのを待ち、控えていた者へ下がるよう告げる。
扉が閉じられてから、書状を差し出した。
「陛下より、国外から寄せられている救援の要請をお預かりしました。まず、こちらを御覧いただけますか」
「雨についてのお願いと、伺いました」
「ええ。以前から水不足が続いている都市です。井戸と貯水池の水が減り、周辺の農地も、収穫を待てるか危ぶまれています」
イネスは、書状へ目を落とした。
すぐには返事をせず、添えられた図も手元へ寄せる。
「こちらの池から、畑へ水を回すことはできないのでしょうか」
「近い場所へは運んでいるようです。ただ、ここから離れた農地までは、水路がありません。人と馬車で運んでおりますが、街の水をまかなうことにも手が足りず、畑まで十分には回せていないと」
オズヴァルトは、書状の一節を示した。
イネスの指が、その下で止まった。
「……そうですか。では、池を満たすだけでは、すぐには届かない畑もあるのですね」
「はい。先方は、貯水を戻すことと、畑へ雨を降らせること、その両方を求めています」
イネスは、もう一度図を見た。
「お力を貸していただけないでしょうか」
オズヴァルトが尋ねると、イネスは顔を上げた。
「困っていらっしゃる方のお役に立てるなら、私も、そうしたいと思います。ただ、今、国内からも雨のご相談をいただいています」
「どちらの土地ですか」
イネスが答えた名を、オズヴァルトは手元の紙へ控えた。
「以前に伺ったところです。今、どのくらい水が残っているのか、いつ頃を望まれているのかを、確かめていただいています」
「向かう日は、まだ決まっていないのですね」
「はい。ですから、まず、そちらのお返事を待ってから……」
「では、出立までの日程に組み込めるか、確認しましょう。国外へ向かう支度にも時間は要ります。その間に国内の土地へも向かえるよう、調整させます」
イネスは、わずかに口を開き、それから言葉を継いだ。
「続けて広い土地へ降らせるとなると、私も、休みを取らなければなりません」
「もちろん、日程を組む際には、それも考えます。国内の状況によっては、水を運ぶことで補えるかも確かめましょう。どちらかを諦める前に、手配を考えるべきかと思います」
オズヴァルトは、控えた土地の名へ印を添えた。
これで担当の者へ確かめさせられる。
イネスはしばらくその紙を見たあと、再び、国外の街の図へ目を戻した。
「こちらへは、まだ伺ったことがありません。実際に見なければ、どこまで、どのくらい降らせればよいのかは分からないのですが……」
「そこは、現地の者に案内させましょう。水場と農地を御覧になってから、雨の降らせ方をお考えいただければ」
「はい。ただ、こうして離れている畑を、いくつも潤すとなると、一度では済まないと思います」
イネスの指が、図の端に描かれた農地を辿った。
「まず、池に水を増やして、そのあいだに、畑へ運ぶ支度を整えていただくことはできませんか。それから、どうしても雨の必要なところを見て……」
「街の水は、戻せるでしょう。けれど、この畑の作物は、そこから運ぶ支度が整うまで持つでしょうか」
オズヴァルトは、初めに見せた書状を、もう一度開いた。
前の報告では、葉がしおれ始めているとあった。新しい報告には、実りを待たずに枯れたものが増えたと記されている。
「人と馬車を増やせば、今より運べる水も増えるでしょう。ですが、先方は既にそれを続けていて、なお足りないと言っているのです。だからこそ、雨の魔女の力を求めている」
イネスは示された箇所を読み、唇を結んだ。
「……畑にも、雨が必要なのは分かります」
「ええ。飲む水が戻っても、作物を失えば、その先の暮らしが立ちません。池と畑を、別々の救援として考えるのは難しいかと」
「けれど、広い土地へ降らせる間は、私もずっと力を使います。何度も続けるとなれば、その分だけ……」
イネスは、胸元へ手を添えかけ、膝へ戻した。
「命を、使うことになります」
「承知しております。陛下も、それを御存じだからこそ、これまで派遣をためらっておいででした」
オズヴァルトは、図と重なっていた紙をずらした。
現地から寄せられた訴えの末尾に、名が幾列も並んでいる。
魔法を使えば命が減る。
そういう力を持つものなのだと、彼も知っていた。
その性質ゆえに、救える人間を救わずにおくというのは、オズヴァルトには筋の通らぬ話だった。
イネスは、名の記された紙を手に取った。
少し読んでから、顔を上げる。
「現地には、どのくらい滞在するお考えですか」
「先方と、これから詰めます。街と周辺の農地へ、当面必要な水を戻すことが目標です」
「雨を降らせて、池にも水を残して……それを見て、帰る時期を決めるのでしょうか」
「はい。何日で足りるかは、現地を御覧にならなければ分からないのでしょう。その前に帰る日だけを決めてしまっては、必要なところへ届かぬおそれがあります」
イネスは、すぐには答えなかった。
「私にも、できることには限りがあります」
「もちろんです。動けなくなるまで続けていただこうとは思っておりません」
オズヴァルトは、静かに答えた。
「どのくらいのお休みが必要でしょうか」
「それも、降らせる雨によります。広さも、長さも、土地によって違いますから。ただ、眠って休めば、使った命まで戻るわけではありません」
「休息については、その都度、現地で判断していただきましょう。先方には、雨を降らせ続けられるわけではないと伝えます」
オズヴァルトは、手元の紙に休息の調整と書き添えた。
彼女の指が、紙の縁を押さえ直した。
休ませることまで拒むつもりはなかった。
倒れれば、雨を降らせることもできなくなる。移動にも支障が出る。使える力を損なうような扱いは、こちらにとっても損だった。
ただ、苦しいというだけで役目を減らしていては、救援は進まない。
「国内の土地についても、先方からの返事が分かり次第、日程を考えましょう。出立する日と、現地で迎える支度が決まれば、そちらも組みやすくなります」
イネスは紙を置き、膝の上で手を重ねた。
「殿下。明日の朝、確かめておきたいことがあるんです。私の力の使い方について。そのあとで、改めて御相談させていただくことはできませんか」
「魔法をお使いになれない事情でも?」
「いえ、そうではありません。ただ、今後のためにも、先に確かめられたらと思って……」
「明日の朝ですね。でしたら、出立前に済ませていただけます。国を出る支度が、その前に整うことはありません」
「はい。ですが、その結果も聞いていただいてから、お返事を……」
オズヴァルトは、イネスを見た。
青緑の瞳が、まっすぐこちらへ向いていた。
「その確認によって、この街へ向かうこと自体が難しくなるのでしょうか」
イネスは一度、図へ目を落とした。
「……向かうことが、難しくなるわけではありません」
「では、救援の準備は進められると思うのです。雨の降らせ方について新しく分かることがあれば、それも後から、計画へ加えられるでしょう」
オズヴァルトは、書状の横へ、手元の紙を置いた。
「今、先方へお尋ねしなければならないことが幾つもあります。警護、現地の案内、滞在の支度。それらを整えるには、こちらから救援へ向かうという方針を示す必要があります」
国内の土地の名の下へ、受け入れの確認と書き添える。
「今日のうちに始められることは、始めておきたい。あなたの明朝の御予定を妨げる話ではありません」
イネスは、紙へ動くペン先を見ていた。
「こちらの都市と、その周辺への救援です。それ以外の土地を、この派遣へ次々に加えるつもりはありません」
オズヴァルトはペンを置いた。
「そのうえで、改めて伺います。お引き受けいただけますか」
窓の外から、車輪の音が聞こえた。
イネスの視線が、机に広げられた図へ戻る。街の水場から、離れた畑へ。それから、名の連なる紙へ移った。
「私も、水を届けたいと思っています」
「ええ。そのための手配は、こちらでいたします」
「池だけではなく、周りの畑にも、雨を降らせるのですね」
「先方が求めているのは、その救援です」
イネスは小さく息を吸い、顔を上げた。
「分かりました。こちらの街と、その周りの畑への救援は、お引き受けします」
オズヴァルトは頷いた。
「ありがとうございます。陛下にも、そのようにお伝えします」
「ただ、雨を止めて休む時間は、取らせてください。それと、帰る時期も、御相談させていただきたいです」
「休息が必要なことは伝えます。行程の案が整い次第、あなたにもお知らせしましょう」
イネスは、重ねた手をほどいた。
オズヴァルトが書状を揃え始めると、その一枚へ目を留める。
「この、写しをいただくことはできますか」
「ええ。今、あるものをお渡しできます。図もお持ちください」
「ありがとうございます」
イネスは差し出された紙を受け取り、端を揃えた。
礼をして立ち上がり、外套を腕へ掛け直す。
「明朝の確認を終えましたら、日程と帰る時期について、改めて御相談させてください」
「ええ、お知らせください。こちらも、手配が進みましたら御連絡いたします」
イネスは頷いた。
扉まで見送り、その姿が廊下へ出るのを待つ。
閉じられた扉へ、オズヴァルトは少しの間、目を向けていた。
魔女は人ではない。
だが、衣服も食事も、人と同じ暮らしも与えられれば、その中で自分の都合を持つようになる。
国王夫妻もユリウスも、それを一つずつ聞こうとする。
イネスは、人を助けたいと言った。
少なくとも、その点は話を進めやすかった。
オズヴァルトは机へ戻り、控えている者を呼んだ。
*
「イネス殿の承諾を得た。都市と周辺の農地への救援として、準備を始める」
入ってきた男が、紙を広げた。
「使節へ、受け入れの支度について照会する文案を。警護と帰還の保障は、先方から明確な返答を得る。こちらの護衛と移動手段も調べておけ。出立日は、それらを見て決める」
「承知いたしました。現地への到着時期も、まだ記さずに?」
「そうだ。今から日を約束するな。まず、先方が何を用意できるかを聞く」
男は頷き、手元へ書き留めた。
オズヴァルトは、国内の土地の名を記した紙も渡す。
「こちらの雨の依頼についても、現況と希望時期の確認を。国外への出立前に組めるかを見たい」
「かしこまりました」
「滞在中に必要な費用を、どこまで先方が負担するかも確かめておけ。正式な返答の前に、使節から話を聞く場を設けよう」
男は、預かった書状と図を確かめた。
「では、これより手配いたします」
礼をして出ていく足に、迷いはなかった。
すべきことが決まれば、担当の者は動ける。
国外の使節にも、国王にも、ようやく次の話を返せるだろう。
オズヴァルトは、新しい紙を引き寄せた。
国王夫妻へ、面会の結果を報告する。救援を引き受ける旨の返事を得たこと。対象は、要請のあった都市と周辺の農地であること。出立日と行程は、先方の受け入れと国内の依頼を踏まえて調整すること。
ユリウスへ送る書状にも、この報告を添えるようにと書き付けた。
本人が、引き受けると答えた。
求められていた確認は済んでいる。
オズヴァルトは文面を読み直し、署名を添えた。
別の紙を取り、使節との交渉で求める条件を書き始める。
明日には、こちらから尋ねたことへの返答を待ちながら、動かせる人と馬車を絞れる。
廊下で、呼ばれた者たちの足音が重なった。




