第8話 グリモの異変
王国から送り付けられてきた『賢魔導書グリモ』がこの丸太小屋にやってきてから三日が過ぎたが、新入りの態度は相変わらずだった。
リビングに据えた書見台の上で、グリモは精霊体としての姿を現し、尊大に足を組んで宙に浮いている。
「――無意味ですわね。アリウス、貴方の行動には一切の論理的効率が欠如していますわ」
俺が暖炉の灰を掻き出していると、グリモは退屈そうに自分の爪を眺めながら言い放った。
紺色のボブカットを揺らし、モノクルの奥にある青い瞳で、朝から家事に勤しむ俺を冷ややかに見下している。
「その程度の雑務、使用人でも雇うか、下位の精霊でも呼び出せば数秒で終わるでしょう。なぜ英雄と呼ばれた者が、自ら灰に塗れる必要があるのです? 理解に苦しみますわ」
「……そうだな」
グリモの言う通り、もっと楽に生きる方法などいくらでもある。
「でも、これが俺の望んだ隠居生活なんだ」
そもそも俺は魔王討伐の際に、一生遊んで暮らせるだけの報奨金を貰っていた。
だが、俺はその全てを魔王軍の被害者へと寄付して、この身一つで隠居することにしたのだった。
「面倒も多いが、自分の手で自分の生活を整えるのは、悪い気分じゃない」
楽で便利な生活が必ずしも幸せとは限らない。
暖かな日差し、昨日より成長した作物――。
何気ない日常の中で、そんな小さな幸せに気づくことが、非日常を生きてきた俺が辿り着いた境地だった。
「……ふん、野蛮な肉体労働者の思考回路ですわね。私は世界中の英知を記録した至高の魔導書。貴方のそのような『趣味』に付き合って、貴重な魔力を浪費するつもりはありませんことよ」
彼女は未だ一文字もページを貸そうとはせず、ただ口だけを動かしている。
そこへ、薪を抱えたオルタがぷりぷりと怒りながらやってきた。
「ちょっとグリモ! お兄様が掃除をしてるんだから、貴女も知識を使って手伝ったらどうなの? 灰を消滅させる術式くらい索引にあるでしょう?」
「断りますわ。私から情報を引き出したいのなら、まずは純度九十九パーセント以上の魔石を百個ほど、供物として用意しなさいな。話はそれからですわ」
「な、なんですってぇ……!」
そんな代物、隠居した冒険者が到底用意できるものではない。
ここへ来て以来、彼女は事あるごとに理屈の壁を高く積み上げ、自分の聖域を侵させまいとしていた。
「お兄様! やっぱりこの本、燃やしちゃいましょうよ!」
「まあまあ。喧嘩はやめろ」
俺はオルタをなだめながら、今度は朝食の準備へと取り掛かった。
キッチンでは、リリィが器用にジャガイモの皮を剝きながら、グリモへと視線を向けた。
「お兄ちゃん、あの本、性格がトゲトゲしてるよ。リリィがちょっと削って、丸くしてあげようか?」
そんなリリィの威嚇にも動じず、グリモは優雅に空中でページをめくっている。
「無駄ですよ。私を動かせるのは、私を納得させるだけの圧倒的な『利』か、あるいは私の理屈を上回る『正論』のみ。野蛮な暴力や情理に訴える言葉は、私の装甲を一枚も剥がせませんわ」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く彼女だが、その傲慢な態度とは裏腹に、俺はある「違和感」を捉えていた。
彼女の精霊体の指先が、時折わずかに震えている。
それは恐怖ではなく、どこか乾燥した不快感を堪えるような仕草だった。
「……グリモ、少し表紙を見せてみろ」
俺は料理を中断してグリモへと歩み寄る。
「なっ、何ですの? 言っておきますが、不敬な真似をすれば、今すぐこの家を禁忌魔術で消し飛ばして――」
警告を無視して、俺は彼女の精霊体の肩越しに、本体である魔導書の背表紙へと指を伸ばした。
グリモは「ひゃっ!?」と喉を鳴らして身をすくめたが、俺は構わずその表面をなぞる。
「……やはりな。背表紙の角が乾燥して割れかけている。おまけにページの綴じ目、ここにも魔力の澱みが溜まっているな」
長い間、魔導省の倉庫で厳重に縛られていたせいだろう。
彼女の魔力の流れは、オルタやリリィに比べて明らかに滞っていた。
知を誇る魔導書にとって、本体の劣化は致命的なはずだ。
だが、高すぎるプライドが邪魔をして、彼女は自分自身の「悲鳴」に気づかないふりをしていたらしい。
「グリモ、お前……最後に油を差してもらったのはいつだ?」
「油……? そんな、機械人形のような言い方を……! 私は魔導書です。知識さえ蓄積されていれば、外装など些事な――」
「些事ではない。表紙は知識を守る鎧だ。角の銀細工も煤けているし、何より、乾燥でページの繊維が悲鳴を上げているぞ」
「そ、そんなはずありませんわ! 私は完璧……っ、ただ、少しだけ……そう、倉庫の湿度が最適ではなかっただけで……!」
焦ったように言い訳を重ねるグリモを見て、俺は溜息をついた。
このまま放っておけば、貴重な知識の頁が脆くなり、精霊体としての彼女の存在まで揺らぎかねない。
「オルタ、リリィ。いつもの道具一式を持ってきてくれ。それと、以前調合しておいた『高純度・魔銀羊脂』のクリームもだ」
指示を出すと、様子を伺っていた二人が、待ってましたと言わんばかりに動き出した。
「あらあら。お兄様に目をつけられたら最後、もう逃げられないわよ?」
「さあ、グリモさん、お楽しみの時間だよ」
不穏な笑みを浮かべる二人に、グリモの顔がみるみる青ざめていく。
「な、何を……何を企んでいますの!? やめなさい! 私は古今東西の知識を蓄積した叡智の結晶! それを貴方のような無骨な男の指が触れていいはずが――」
俺は抵抗するグリモの腰を片腕でしっかりと固定し、彼女を俺の膝の上へと引き寄せた。
逃げ場を塞がれた賢魔導書は、顔を真っ赤にして「非礼ですわ! 万死に値しますわよ!」と叫んでいる。
「大人しくしろ。これは持ち主としての管理義務だ。知識を大切に思うなら、その入れ物を疎かにするな」
「わ、私に対して、そんな偉そうに……っ」
彼女は屈辱に震えるが、傷ついた道具を見て見ぬふりはできない。
こうしてグリモへの手入れが始まった。
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