第二十四章「裏の取れない一行」
半年が、過ぎた。
俺はあの取調べ室に戻っていた。だが、以前とは、少し違った。
隣の席に、後輩が、座るようになった。生放送での一件が、皮肉なことに、俺の評価を変えた。ストーカー刑事の汚名は、事件の解決と、未編集の映像の公開で晴れた。それどころか、証拠のない状況から、一人の実行役を信じる呼びかけだけで、自首へ導いた手腕が、若い連中の注目を集めた。俺と組みたがる人間が、現れ始めた。二年間、空いたままだった隣の椅子に、今は、誰かが、座っている。
今日も、俺は取調べ室にいた。零時をとうに過ぎていた。目の前には、特殊詐欺の指示役の男。ふてぶてしい顔で黙秘を続けている。
半年前のあの夜を思い出した。あのときも、俺はこの部屋で、一人、詐欺師と、向き合っていた。同じ、白い蛍光灯。同じ、安物の茶の匂い。同じ、深夜の静けさ。景色は、何一つ、変わっていなかった。
だが、この部屋にいる、俺という男は、まるで別人になっていた。
あの夜の俺は、人の嘘を見抜くことだけが、生きがいの冷たい男だった。誰も信じず、隣に誰も置かず、裏の取れた事実だけを手帳に書き、それを賢さだと思い込んでいた。心を空っぽにすることで身を守っていた。空っぽの部屋には、風も吹かない代わりに光も差さない。俺はその暗い部屋で、二年間、うずくまっていた。
今の俺は、違った。同じ取調べ室で、同じように、嘘を見抜きながら、俺の心は、もう空っぽではなかった。帰る場所が、あった。信じる相手が、いた。裏を取らない、と誓った、たった一人が。その一人がいるだけで、同じ景色が、まるで違って見えた。
だから、俺は以前のように、目の動きだけを追ってはいなかった。俺はこの男の供述の裏を取る。同時に、この男が、どこかで、道を間違えただけの人間かもしれないことも、忘れずにいた。裏を取ることと、人を信じることは、両立しないと、俺は思っていた。だが、今は、違う。裏を取りながら、それでも、目の前の人間を頭ごなしに切り捨てない。その二つを俺は少しずつ、両立させ始めていた。
「……問題ない」
取調べの合間、後輩が、俺に、缶コーヒーを差し出しながら、聞いた。相馬さん、疲れてませんか、と。俺はそう、答えた。
言ってから、気づいた。
今の「問題ない」は、右上を見ていなかった。
二年間、俺はこの言葉をいつも、嘘で言ってきた。平気なふりをして。誰にも、心配をかけないふりをして。だが、今日の「問題ない」は、初めて、嘘では、なかった。俺は本当に問題ない。人生で、初めて。
◇
取調べを終えて、署を出ると、夜が、明けかけていた。
俺はまっすぐ家には、帰らなかった。少し遠回りをして、駅前の小さな花屋の前を通った。
まだ開店前の花屋。シャッターは、半分だけ、上がっている。その隙間から、明かりが、漏れていた。中で、澪が朝の仕入れの花を整えていた。
俺に気づくと、彼女は顔を上げて笑った。あの右の口角が、少し先に上がる、笑い方で。
「おはようございます。刑事さん。徹夜ですか」
「ああ。今、終わった」
「お疲れさま。──ちょっと、待ってて」
澪は店の奥から、一輪の花を持ってきた。青い、小さな花。いつか、植物園で、彼女が指さした花に似ていた。
「これ、今朝、入ったんです。めずらしいでしょう。──いつ咲くか、どんな色になるか、やってみるまで、分からないんですよ。裏なんて取れない」
「知ってる」
俺はその花を受け取った。
「でも、水をやって、待つんだろ。咲くって、信じて」
澪が目を丸くした。それから、嬉しそうに笑った。俺があの夜の彼女の言葉を覚えていたことに。
俺は二年間、動機でしか、人を見られなかった。人の笑顔の裏側ばかりを読んでいた。この人は、何を隠している。この好意には、どんな、裏がある、と。だが、今、俺の目の前にいる女の笑顔には、裏が、なかった。俺はその裏のない笑顔を裏を探さずにただ、受け取ることが、できた。動機のない好意を見て、それを信じることが。
同じ目だった。氷室と、俺は同じ目をしていた。人をそのままじゃ、信じられない目。だが、俺の目は、変わった。同じ景色の中に、以前は、見えなかったものが、見えるようになった。裏のない、好意が。証明できない、けれど、まぎれもなく本物の優しさが。
◇
拓のことも、少しずつ、動いていた。
彼は自首した後、正直に、すべてを話した。使い捨てにされる駒だった彼は、司法の手続きの中で、更生への道を歩き始めていた。楽な道では、なかった。罪は、罪だ。だが、彼には、出口が、あった。姉が、いた。彼を犯罪者としてではなく、抜け出したい一人の人間として信じ続ける、姉が。そして、そういう人間には、必ず、やり直す力が、残っている。俺は二課の刑事としてそれを信じていた。
加賀美とは、時々、連絡を取った。彼女はあの生放送での告白で、一時は、叩かれた。だが、自分の弱さを正直に、さらけ出した姿は、やがて別の共感を呼んだ。計算で生きてきた女が、初めて、計算に合わないことをしてみた。その一度が、彼女自身を少しだけ、変えたようだった。「あんたのせいで、調子、狂ったよ」と、彼女は笑って言った。
榊は番組を降りた。本物なんて退屈だと、言っていた女は、あの生放送の本物の一撃を最後に、あの箱から、去った。何を思ったのかは、俺には、分からない。ただ去り際に、一通の短いメッセージを寄こした。「あなたの恋だけは、編集の必要が、なかったわ」。それが、あの女なりの負けの認め方だったのかもしれない。
◇
花屋の半分開いたシャッターの前で、俺は上着の内ポケットから、あのくたびれた黒い手帳を取り出した。
最後のページ。半年前、あの生放送の夜、俺が書こうとして書けなかった、一行。
俺はペンを握った。もう震えていなかった。
裏の取れた事実だけを書いてきた手帳。確かめたことしか、載せなかった、俺の一冊。その最後に俺は生まれて初めて裏の取れない、一行を書いた。
『一ノ瀬澪を信じる。──裏は、取らない。取る必要が、ない。』
証拠のない、一行だった。証明できない、たった一つの事実。だが、それは、俺がこの二年間で、いちばん確かだと、思えるものだった。
俺は手帳を閉じた。ポケットにしまった。手帳の硬い角が、指先に触れた。二年前と、同じ感触。だが、その中身は、もうまるで違っていた。
「相馬さん?」
シャッターの向こうから、澪が俺を呼んだ。
「よかったら、コーヒー、飲んでいきませんか。淹れたてです」
「ああ」
俺はシャッターをくぐって店の中へ入った。花の匂いが、した。作りものではない、本物の花の匂いだった。あの合宿所の天井から降ってきた、無臭のはずの芳香剤とは、まるで違う。土と、水と、生きている花の混じり合った匂い。裏のない、匂いだった。
澪が二つのカップに、コーヒーを注いだ。湯気が、朝の光の中で、ゆっくりと、ほどけていく。彼女はその一つを俺に手渡した。温かかった。かつて、テラスで、ココアを差し出してくれた、あの手だった。傷だらけの花屋の手。俺が疑い、洗い、それでも、最後には、信じ抜いた手。
俺はそのコーヒーを一口、飲んだ。苦かった。だが、あの取調べ室で、一人、飲み干した、冷めきった茶の苦さとは、まるで違った。同じ苦さでも、隣に誰かがいるだけで、味は変わるのだと、俺は知った。
外は、夜が明けていく。あの取調べ室の白い蛍光灯とは、まるで違う、朝の光が、花屋の小さな窓から、差し込んでいた。青い小さな花が、その光の中で、静かに咲く順番を待っていた。いつ咲くかは、分からない。裏は、取れない。だが、俺はもう、それを恐れなかった。裏の取れないものを待つ。咲くと、信じて。それが、今の俺の生き方だった。
俺はもう、一人ではなかった。裏の取れない、たった一人のそばにいた。
そして、その一人だけは、俺は一生、裏を取らない。取る必要が、ない。
──それが、俺の最後の供述だった。




