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第36話:疑惑

(……なんだ? これ……)


俺は、目の前にある何の変哲もない木箱から、視線を外せずにいた。

他の物資と同じ、ギルドの紋章が押された標準的な木箱だ。警告ラベルもなく、中身はおそらく保存食か何かだろう。


だが、俺のスキル――あるいは、遺跡での経験とスキルの暴走を経て変質した俺自身の感覚――は、この箱から放たれる微弱な、しかし明らかな『異常』を捉えていた。

それは、呪いのような負の感情でも、不安定な魔力反応でもない。もっと別の……例えるなら、空間そのものが、ほんのわずかに、不自然に『震えている』ような、あるいは調和の取れていない『ノイズ』のような感覚。

あの遺跡で感じた、『バグ』の気配にどこか似ている……。


(気のせいか……? 疲れが溜まっているのか……?)


俺は一度目を閉じ、深呼吸してから、もう一度その木箱に意識を向けてみた。

やはり、感じる。微弱だが、確かに存在する不協和音。それは、この箱を中心にして、周囲の空間に僅かな歪みを生じさせているかのようだった。


ちらりと監視役のユレクを見る。彼は相変わらず無表情で、俺が特定の箱の前で立ち止まっていることにも、特に気づいた様子はない。


(どうする……?)


この異常を報告すべきか?

だが、どう説明すればいい? 「この箱、なんだか変な感じがします」なんて言っても、信じてもらえるとは思えない。下手をすれば、俺の精神状態がおかしいか、あるいは、また何か特殊な能力を隠しているのではないかと、リゼット調査官にさらに疑われるだけかもしれない。


(でも、もしこれが本当に『バグ』の兆候だとしたら……?)


遺跡での恐ろしい経験が蘇る。あの空間崩壊、異形の怪物……。たとえ今は微弱でも、放置しておけば、いずれ大きな問題に発展しないとも限らない。ここはギルド本部の、重要な物資が保管されている倉庫なのだ。


(……スキルで、もう少し詳しく……いや、ダメだ)


監視の目がある前で、迂闊にスキルを使うわけにはいかない。特に、対象の『情報』に深くアクセスするような使い方は危険すぎる。先日の危険物収納の時のように、何らかの異常な反応を引き起こしてしまうかもしれない。


俺は、スキルを発動するのではなく、ただ意識を集中させることに留めた。エリシアに教わったように、対象の『情報』を無理に読み取るのではなく、ただ、そこから発せられる気配、波動のようなものを、慎重に感じ取ろうと試みる。


(……やっぱり、何かおかしい。箱の中身…はおそらく普通の保存食だ。それ自体に異常はない。でも、その保存食が入っている『空間』、あるいは箱そのものの『情報』が、ほんのわずかに……不安定に揺らいでいる?)


それは、極めて微細な変化だった。普通の人間には、おそらく絶対に感知できないレベルの。俺がこれを感じ取れるのは、やはりあの遺跡での経験と、スキルの変質によるものなのだろうか。


(……今は、下手に騒ぎを起こすのは得策じゃない。でも、このまま放置もできない……)


俺は決めた。

まずは、この箱を他の物資と同じように、指示された場所へ『収納』する。ただし、その場所と、箱に書かれた管理番号のようなものは、しっかりと記憶しておこう。

そして、後でエリシアさんに相談するんだ。彼女なら、何か分かるかもしれない。


俺は、努めて平静を装い、その奇妙な木箱に右手をかざした。

意識は『ただの収納』に集中する。流れ込もうとする微細なノイズや空間の揺らぎの『情報』は、可能な限り遮断する。


収納ストレージ


ふっ、と木箱が消える。幸い、特に異常な反応はなかった。だが、スキルを発動した右手に、ほんの一瞬、静電気のような、あるいは不快なノイズに触れたような、嫌な感触が残った気がした。


俺は顔には出さず、指示された棚へと移動し、再びスキルを使って木箱を取り出し、棚に収めた。

ユレクは、最後まで特に変わった様子は見せなかった。


その日の業務が終わり、俺は少し重い気持ちを抱えたまま、エリシアとの合流場所へと向かった。


一方、その頃。

エリシアは、ギルドの資料室で、埃っぽい古文書の山と格闘していた。退屈な作業ではあったが、彼女は持ち前の集中力と好奇心で、膨大な記録の中から興味深い記述を探し出そうとしていた。


(……ん? これは……)


彼女の目が、ある古い報告書の記述に留まった。

それは、数十年前に、今回とは別の小規模な遺跡から回収された遺物の管理記録だった。遺物の詳細は不明瞭にされていたが、「長期保管中に、周囲の空間に微細な異常(原因不明の温度変化、磁場の乱れ)を発生させた記録あり」「現在は地下特別保管庫にて厳重保管中」といった記述があったのだ。


(空間に異常……? まさか、これも『バグ』と関係が……?)


エリシアの胸に、新たな疑問と可能性が浮かび上がっていた。


***


廊下の隅でエリシアと合流した俺は、すぐに今日の倉庫での出来事を小声で伝えた。

普通の木箱から感じた、奇妙なノイズと空間の揺らぎ。それが、遺跡で感じたバグの気配に似ていたこと。


俺の話を聞くうちに、エリシアの表情がみるみる真剣なものに変わっていった。

「……空間のノイズ? 揺らぎ? それ、どんな感じだった!?」


俺は、感じた感覚を懸命に言葉にしようとする。

「えっと……うまく言えないんですけど……ジジジ、って感じのノイズというか……空間が、ほんの少しだけ、こう……水面みたいに震えてるような……」


俺の説明を聞いたエリシアは、息を呑み、そして目を見開いた。


「空間のノイズ……揺らぎ……まさか! それって、私が今日読んだ古い報告書にあった『空間異常』の記述とそっくりだよ! しかも、その遺物も地下保管庫に……! ってことは、ギルドは他にも同じような『バグの種』みたいな物を保管してるってこと!? しかもノアはそれを感知できるなんて!」


(エリシアさんの言う通りなら、ギルドの倉庫にもバグの種が…!? まさか、そんな…!)


エリシアの言葉の重大さに、俺は背筋が凍るのを感じた。

あの木箱は、ただの物資ではなかったのか?

だとしたら、ギルドは気づいているのか? いや、気づかずに保管しているとしたら……。


遺跡の外に出たはずの俺たちの目の前に、再び『バグ』の影が、静かに忍び寄ってきているのかもしれなかった。

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