第2回 『笑うあげは』
二人目の部員とは、入部二日目に遭遇した。
僕が『堕天作戦』の感想を述べて咲夜にねちねち駄目出しされている最中だった。廊下に足音が聞こえ、ドアが開いて小さな人影が駆け込んでくる。
「咲夜さんっ、新入部員ってほんとうですか!」
黒蜜のような長い髪が目を惹く女子生徒だった。咲夜とは対照的な和風お姫様然とした娘で、大河ドラマで沢口靖子の少女時代でも演ってそうな雰囲気である。
「あっ、こちらが?」と彼女は僕に気づき、深々と頭を下げてきた。「騒々しくて申し訳ありません、はじめまして! 私1年1組の久見坂燈子と申します」
「あ、はあ、……1年6組の塚本弘夢です」
咲夜とは打って変わってまともそうな人だった。人間としての様々なレベルがはるか高みにありそうな点だけは咲夜と同じだけれど。
「うれしいです、いつもの三人だけでは少しさみしい、と咲夜さんやミュウさんと話していたところなんです。しかも男性の方なんて理想的です! 女だけだとどうしても漫画の守備範囲が偏ってしまいますから」
初対面でこんなにも熱烈歓迎されると恐縮してしまう。
「ええと、僕も全然守備範囲広くないけど、はい、よろしく」
「弘夢さんはどういった漫画がお好きなんですか?」
やはり最初にその質問が来てしまうか。
咲夜の言っていた一流どうこうを気にしているわけではないけれど、侮られたくない、なにか気の利いた答えを返してやりたい、という欲はあった。
でも僕が答えあぐねている間に咲夜が横から言ってしまう。
「塚本くんは講談社ご挨拶系のメジャーどころばかり押さえている三・七五流の漫画読みだから期待しない方がいいわよ」
小数点以下で刻むなら八流までとか言わなくてよくない……?
「あ、その系列ですね。私も好きな作品がたくさんあります」と燈子は目を輝かせる。「たとえば『モーニング』なら――」
こういういかにも女性向きを好みそうな人だと、どれだろう。『働きマン』とかだろうか。あるいは『天才柳沢教授の生活』とか?
「やはり『ギャンブルレーサー』ですね!」
「えっ……?」
「ご存じなかったですか? あの、最初はギャグ漫画として始まったのにいつの間にかディープでリアルな競輪漫画に変貌して私のような女子中高生読者を競輪場の深淵に導いた異形の傑作を」
「導かれるな! 未成年は競輪だめでしょ!」
ものすごい作品名がいきなり出てきてしまった。そういえば親父がたまに買っていた『モーニング』に、やけに脂っこくてコンパクトな絵柄の競輪漫画が連載されていたっけ。僕には縁のない世界の話だと思って読み飛ばしていたけれど。
燈子が続けて言う。
「それに『イブニング』でしたらなんといっても」
冬目景か日本橋ヨヲコあたりだよね? 女の子が好きそうなのっていったらね?
「『極悪がんぼ』ですね!」
「なんでッ?」
「『ナニワ金融道』から連綿と続く金と欲望と破滅と情念の物語をベースに暴力エッセンスを強く打ち出した特濃どろどろ裏社会漫画、あの汁無し担々麺みたいな絵柄も最高です」
女子高生が読む漫画じゃねえだろ……。
「そして『アフタヌーン』系列でしたらここはやはり」
ここは『宝石の国』とか『ブルーピリオド』とかでしょ? そういうことにしようよ?
「いちおしは『エンバンメイズ』です!」
「し、知らない……なにそれ」
「ええっ、あの刺しまくり出血しまくり人死にまくりの強烈痛快賭けダーツ漫画の傑作をお読みになっていないんですかっ?」
おまえはなんでお読みになってるんですか?
「燈子はヤクザものとかギャンブルものが大好きなのよ」と咲夜があきれた顔で言う。「『ゴラク』とか『近代麻雀』を買ってくるのも燈子だし、『静かなるドン』と『湯けむりスナイパー』が完結して『漫画サンデー』が休刊したときは一日中泣いてたわ」
「その頃小学生でしょッ? なんでそんなおっさん向け漫画読んでるのっ?」
「おっさん向けではありません!」と燈子は怒った。「金と暴力は人間の本質をえぐり出す普遍的なテーマです、年代や性別に関係なく心に響く作品ばかりですよ!」
「あ、はい、すみません……」
そこにまたも横から咲夜が口を出してくる。
「こんなふうに塚本くんはいまいち漫画を見る目がないのよ。燈子、あなたもなにかおすすめしてあげたら」
「はい! ぜひ!」
輝く瞳がまぶしい。
「どのあたりがいいでしょうか。弘夢さんのご趣味がまだちょっと把握できていないので迷います……」
しばらく考え込んだ後で燈子はぱあっと顔を明るくして言った。
「やはり麻雀漫画ですねっ」
「麻雀漫画ですか……」
「はい。弘夢さんもこの部に入るくらいですからたくさんお読みでしょうけれど、麻雀漫画界は広く歴史も長いですからまだまだご紹介できる名作がきっと」
「いや……あんまり。『アカギ』くらいしか読んだことない。僕そもそも麻雀のルールよく知らないから」
燈子は目を剥いた。
「『アカギ』だけっ? それでは『天』を読まずに『アカギ』を? そ、そんな、まるで北京ダックで肉を食べずに皮だけ食べるような暴挙じゃないですかっ」
北京ダックってもともとそういう料理じゃなかったっけ?
「ではでは片山まさゆきもご存じないのですかっ?」
「『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の人だっけ? 名前だけは……」
「片山まさゆきの最高傑作は『打姫オバカミーコ』ですっ! まず『ぎゅわんぶらあ自己中心派』が出てくるなんて嘆かわしいです、いいですか、片山まさゆきはギャグ漫画家だと思われていますが本質はシリアスなストーリー漫画家であってその資質はまず『ノーマーク爆牌党』で開花し――」
その後二十分くらい片山まさゆきについて語られたが正直さっぱりわからん。
「ではではでは麻雀漫画界の至宝、押川雲太朗も読んでいないのですかっ」
「ごめん、その人は名前も知らないや」
「弘夢さんみたいな無関心な漫画読みばかりだから『麻雀小僧』の雑誌連載が打ち切られてKindle連載を余儀なくされるんですっ、反省してくださいッ!」
なんで怒られてるの僕……?
「ああもう信じられません、『凍牌』も『バード』も『兎』も読まずに生きていられる人間が存在するなんて……」
いっぱい存在してるだろ。してなかったら世界滅びてるだろ。
「弘夢さんは重病ですね。これはかなりお薦めのチョイスに気を遣わなければ」
ついに病人扱いされてしまった。
「ではっ、思いっきり変化球でいきましょう!」
燈子は張り切って書棚に向かうと、四冊まとめて抜き出して僕のところに持ってきた。
「田中ユタカの『笑うあげは』です! 全力でお薦めします!」
カバーで目を閉じたまま艶然と微笑む女性キャラ、どこかで見た絵柄である。
「……って、田中ユタカっ?」
僕は思わず素っ頓狂な声をあげてカバーを三度見した。
「田中ユタカってあの田中ユタカ? 麻雀漫画なんて描いてたのっ?」
「はい、あの田中ユタカです」と燈子は得意げにうなずく。「大傑作『愛人[AI-REN]』で、庇護欲と庇護されたい欲が極限まで肥大した弘夢さんのような童貞読者の心をわしづかみにして涙の海に沈めた末に彼岸まで連れていってしまったあの田中ユタカの、麻雀漫画です」
なんかもう心置きなくどんどんディスられてるんだけど……童貞って言ってないよね? いやもちろん童貞ですけどね?
「普通の――麻雀漫画なの? これ」
「普通の、というのがどういうものを指しているのかわかりませんが、お読みになればすぐにこれは田中ユタカにしか描けない麻雀漫画だ、と確信できますよ」と燈子。「賭け麻雀をこよなく愛する盲目の美女、あげはさんを主人公にした、基本的には一話完結型の物語です」
盲目か。ああ、それでどのカバー絵も目を閉じてるのか。
目が見えないのに麻雀が打てるの? というつまらない疑問は『アカギ』を読んでいた僕は口にせずに済んだ。あれにも盲目の雀士が出てくるのだ。
「田中ユタカに麻雀漫画を描くように決意させた竹書房の担当編集は、もうこれだけで歴史的大偉業を成し遂げたといえますが、その上あとがきによると麻雀初心者の田中ユタカに代わって作中の闘牌作成を担当したのも編集者らしく、特に連載開始第一話は『盲目の雀士』という設定を完璧に使いこなした出色のできです。かといってその後マニアックに麻雀のみにフォーカスすることなく、田中ユタカの強みを存分に生かしたエピソード運びはさすが! 麻雀のルールをよく知らない弘夢さんにもきっと楽しめると思います」
「そ、そう? ううん……」
同じように言われて薦められた『哭きの竜』が全然理解できなくて第一話も読み切れずに挫折した経験があるのだ。
「なんといっても主人公のあげはさんが超絶激烈爆震壊滅鏖殺的にかわいいのです!」
「今の形容詞なに?」
「全盲のキャラクターというのは色んな漫画に登場しますが『笑うあげは』が出現した今、これまでの全盲キャラのほとんどはただ目が常時横線で描かれているだけの《設定上盲目》キャラに過ぎなくなってしまった――といっても過言ではありません。田中ユタカはこの作品を描くにあたってそうとうな取材と考察を重ねたとみえ、あげはさんの所作、特に人の気配がする方向への顔の向け方、不安定感あふれる首の傾け方、表情のアンバランスさがそれはそれはもうリアルかつ蠱惑的で、なんというかこう、ふと目を離した隙に全身が蕩けて蜜に変わってしまうのではないかと不安になるような危うい魅力があるのです!」
「そ、そうなんだ……」
盲目キャラへの愛をこんなに熱く語るやつ初めて見た。
「あと、あげはさんはすごい巨乳です」
「じゃあ読んでみようかな」
「けっきょくおっぱいで読むのを決めるなんて漫画読みとしては下の下ね!」と咲夜が横からつっこんでくるので僕はあわてて言い訳する。
「いや巨乳で読むのを決めたわけじゃ、だってほら巨乳なのはカバーを見た段階からわかっていたわけだし、たまたま発言のタイミングがね?」
「あと、あげはさんは処女です」
「なんなのその追加情報っ? そういうのなくても読むよ? 読みますよ!」
「それから眼鏡のかわいい女執事が仕えています」
「その追加情報もっ……いや、うん、きらいじゃないですけど」
「女執事は途中で変身ヒーローになります」
「どういう漫画なんだよっ? ますますきらいじゃないけどっ」
* * *
翌日、借りた『笑うあげは』全四巻を持って僕は『一流の漫画読み部』に行った。
ちょうどドアのところで燈子と遭遇する。
「あっ弘夢さん、どうでしたかっ?」
「面白かったよ。思ってたよりずっと田中ユタカだった。すごい好み」
「それはよかったです!」
薦めた漫画を喜んでもらえたときの漫画好きは世界でいちばん幸せそうな笑顔になるのだ。この表情をしょっちゅう見られるのだとしたら、悪くない部活かもしれない……と思いながら僕が燈子に続いて戸をくぐると、燈子は書棚から二段ぶんの単行本をごっそり持ってきて僕の目の前にうずたかく積み上げた。
「じゃあ次は『天牌』ですね! 100巻を超えてなお連載中の、現代を代表する大河麻雀ストーリーです、外伝も37巻あります! 今日中に全部読みましょう!」
悪くないとか思った僕が馬鹿だった……。
『笑うあげは』
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