第3回 『白暮のクロニクル』
百冊以上ある『天牌』をスーツケースに詰める作業(家で読むよ、と言ってしまったので)の最中に、まだ逢ったことのなかった三人目の部員がやってきた。
「諸君おはよう」
小学生かと見まがうほど小柄な女の子だった。でもうちの高校の制服をたしかに着ている。ヒマラヤン猫を思わせる、くせっ毛で目力の強い少女だった。僕をじろじろとねめつけてから訊いてくる。
「きみが新入部員かい?」
「そうだけど……」
「ふうん」
彼女は意味ありげに目を細め、僕のまわりを何周もぐるぐる回りながら顔を近づけてきたり首を傾けたりして観察した。くすぐったい。
「なるほど。だいたいわかった。分析完了」
「……なにが?」
「きみはラブコメ漫画でいかにも人気のなさそうなヒロインをあえて応援して悦に入るタイプの俗物漫画読みだろう」
「いきなりなんの話っ?」
「たとえば『めぞん一刻』なら七尾こずえ」
「こずえ派なんて金輪際見たことないけどっ?」
「たとえば『ハヤテのごとく!』なら綾崎ハーマイオニー」
「あれは主人公の女装だよヒロインじゃねえよ!」
「たとえば『いちご100%』なら高校生時代の黒川先生」
「映画内にしか出てこない過去キャラ! 攻略不能!」
「たとえば『五等分の花嫁』なら四葉。だが思いがけず正ヒロインに選ばれてびびっている」
「読者の五人に一人はちゃんと四葉ファンだろ! 謝れ!」
「ミュウさんの鋭い分析力、さすがです」と燈子がうっとりした顔で言うのだが全部外れてますからね?
「漫画読みに必要なのはこのような鋭い洞察と分析から生まれる漫画IQだ」
そのちみっちゃい女の子は自分のこめかみを指さして得意げに言う。
「ぼくの名前は鴻野川未優だけれど、ミュータントのごとき高漫画IQを持って生まれたのでミュウと呼ばれている。きみもそう呼んでくれてかまわないよ」
「……ああ、はい。1年6組の塚本弘夢です。よろしく……」
出逢って二分ですでにかなり疲労が声ににじみ出ている僕だった。漫画IQ……。
「ごきげんよう」
涼やかな声が聞こえ、振り向くと咲夜が部室に入ってくるところだった。
「ミュウ、やっと来てくれたのね。せっかく入学してすぐに部を作ったのに、なかなか全員そろわなくてやきもきしたわよ。塚本くんの紹介はもう済んでる?」
「うん。分析も済んでる。彼の漫画IQは3だ」
「サボテン並みじゃない。すごいわね」
「色々と言いたいことはあるけどまずサボテンの漫画IQとやらはどうやって測ったの」
「ラブコメ漫画をたくさん読ませたが、きみ同様に人気ヒロインにまったくなにも反応しなかった。野暮天なんだろうね」
「サボテンなんだよッ」
「弘夢さん、突っ込み方にだいぶ棘があります……」
「サボテンだからねッ」
「サボテンだって認めるわけね?」
「ああ言えばこう言う!」
わめく僕を尻目に、ミュウはやれやれと肩をすくめてソファに向かった。
「これは教育に骨が折れそうだね。ほんとうにぼくらの部に入れるの? ぼくらのハイレベルな漫画読み活動の邪魔にならないかい?」
咲夜が首を振って答える。
「邪魔どころかわたしたちに必要な人材なのよ。知識や技術は使わなければ意味がないでしょう。わたしたちがどれほどの高みに達したのか、客観的な下からの視点が求められているの」
めっちゃ上からの視点で言われてしまった。
「わたしも燈子も塚本くんにそれぞれ一流の漫画読みとしてのお薦めを叩き込んで、かなりステージを引き上げたわ。ミュウ、あなただけ成果がまだだけど?」
挑発されてミュウはむぅっと頬をふくらませ、「いいだろう!」と立ち上がってブレザーを脱ぎ捨て腕まくりした。
「咲夜や燈子がきみにどんな手管を用いたか、まずは分析してみせよう。咲夜は――」
ミュウは僕と咲夜をじっと見比べて言う。
「きっと巻数がまだあまり出ていない無名漫画家の隠れた傑作を薦めたにちがいない。これはぼくら漫画読み界ではブルーフィールドバイヤーと呼ばれるありふれた技だ」
「技名ついてたのっ?」
「漫画読み界は一流を志す読み手たちが日夜虚栄心をぶつけ合い切磋琢磨しているからその技術は日進月歩、新しいテクニックはすぐに普及し深化するんだ」
「ブルーフィールドバイヤーってどういう意味?」
「青田買いだ」
「青田買いって言えよ!」
なんの芸もない直訳だった!
僕の憤激をさらっと無視してミュウは続ける。
「燈子はおそらく、ある一作品でとても有名な作者の、イメージに反するような意外なジャンルへの意欲的な挑戦作を薦めたにちがいない。これはぼくら漫画読み界ではメタルメルトダウンと呼ばれる常套テクニックだ」
「メタルメルトダウンってどういう意味?」
直訳してもそれっぽいのを思いつかない。
「特に意味はなくジューダス・プリーストの曲名から採った」
「意味ねえならつけるなよ!」
「きみは同じせりふを荒木飛呂彦にも言えるのかい?」
「んぐっ」
「さすがミュウさんです、脳の中身まで精査されたような完璧な分析です」と燈子が熱いため息交じりに言う。
「では、ぼくは熟達の漫画読みにだけ使いこなせる超絶技巧、ホーリー・サー・ゲイルをお見せしよう!」
「ホーリー・サー・ゲイルってどういう意味……?」
一応儀礼的に訊ねる。
「掘り下げる、だ」
「日本語で言えよ!」
「これは押しも押されもせぬ巨匠の、いまいちメジャーにならなかった作品を掘り下げることで漫画読みとしての格式をアピールする高等テクニックだよ」
「高等……なのかそれ」
「さて、どの大先生にするか」とミュウは部屋の全面の壁を埋め尽くす書棚の前をぐるぐる周回し始めた。
「現役で活躍している巨匠といえばやはり少年サンデー系じゃないかしら」と咲夜。
「たしかにサンデーは息の長い人多いけど」と僕も書棚を見渡す。「高橋留美子とか?」
「高橋留美子にいまいちメジャーにならなかった作品などない!」とミュウがいきり立つ。「あれは巨匠ではなく化生! 時代を超えて活躍し続ける化け物だよ!」
なんで怒られるの……?
「ゆうきまさみはどうでしょうかっ?」と燈子が声を弾ませる。
「うん。その線で行こう」とミュウもうなずく。
「ゆうきまさみといえば私はやはり『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』ですね!」
燈子は顔を紅潮させて熱弁する。
「競馬漫画の金字塔です、競馬場を舞台にしたジョッキーたちの苛烈な闘い、身を削って人生のすべてを馬券に託す破滅的な勝負師たちの生き様……胸が熱くなります」
「『じゃじゃグル』そんな漫画じゃないよねっ? 牧場が舞台のハートウォーミングヒューマンドラマでしょっ?」
咲夜がふんと鼻で笑って話に入ってくる。
「ゆうきまさみと聞いて『あ~る』か『パトレイバー』を挙げるのは安易すぎて漫画読みとしては二流以下よね。わたしは当然、最新連載の『新九郎、奔る!』を推すわ。北条早雲の生涯を少年期から実直に描く歴史もの、まだまだ世間から注目されていないから一流の漫画読みとしては推し甲斐がありまくりよ!」
「咲夜はブルーフィールドバイヤー一本槍だね。ぼくはそういうギャンブルには走らない。推すのは完結済み作品に限る。完結していればランキングで取り上げられてにわかどもが群がってくるようなことも起きないし、途中でクォリティが落ちてがっかりする事態も起こりえない。自信を持って推せる。ということで」
ミュウは書棚の一角に近づいたけれど、天井近くの段を見上げ、それから振り向いて涙目で両手をばたばたさせる。
「新入部員! 早くこっちへきて、ぼくの踏み台になるんだ!」
えええええ……。ちみっちゃすぎて上の方の棚に手が届かないのか。
そんな役を咲夜や燈子にやらせるわけにもいかないので、僕はミュウの言う通り床に四つん這いになった。上履きを脱いだミュウは僕の背中に乗る直前に低い声で言う。
「上を向いたら絶対にゆるさないからね!」
スカートの中なんて角度的に見えるわけないだろ。ていうか気になるならおまえが踏み台になれ。……と言いたかったけれどぐっと呑み込んだ。
両手で抱えるほどの冊数の単行本を棚から抜き取ったミュウは、僕の背中から飛び降り、テーブルの上にそれを並べて置いた。
「『白暮のクロニクル』だ。これを読まずにゆうきまさみは語れない」
僕は立ち上がり、肩や首を回して背中の痛みをごまかし、テーブルに近づく。
「……こんなの出してたんだ。完結済みってことは古い作品なの?」
「この大傑作を知らないなんて漫画IQが低いにもほどがあるね!」
「あのさ、薄々思ってたけど、紹介された漫画を僕が知らないって言うとみんな密かにうれしそうになるよね?」
僕の指摘にミュウはぎくりとした顔になり、燈子は「まあ」と顔を明るくし、咲夜はふふっと笑みをこぼした。
「うれしいに決まっているじゃない」と咲夜。「わたしたちは知識をひけらかして優越感に浸りたいから一流の漫画読みを目指しているのよ。薦めた漫画を相手がすでに知っていたらがっかりでしょ。これからも塚本くんには良い塩梅の無知でいてほしいわ」
素直な女どもだなあ、とあきれるのを通り越して感心してしまう。
「それにしたって『白暮のクロニクル』を知らないのはひどい」とミュウは怒る。「完結したのは三年前だよ。ほぼ最新のゆうきまさみと言っていい作品だ」
「雑誌はあんまり読まなくて単行本派だから、そういうの疎くて……」
「『白暮のクロニクル』は吸血鬼ものでミステリ、とてつもない意欲作だよ。しかもゆうきまさみの安定感はまったく失われていない。なにを描いてもゆうきまさみになるゆうきまさみのゆうきまさみたるゆえんがこのゆうきまさみでは」
「ちょっちょちょちょっと意味わかんないんだけどっ? そもそも僕そんなにゆうきまさみに思い入れがないから名前連呼されても困る」
「じゃあもう少し具体的に話そう。『白暮のクロニクル』は、不死の人外種が人間社会に溶け込んで暮らしている設定の物語だ。人外の存在は社会的にも認知されているし、公的な管理体制もある。人外だということを隠して人間のふりをして生きている者も大勢いるし、人間側からの偏見、忌避、排斥もある」
「……『東京喰種』みたいな?」
「うん、いい比較対象だ。『白暮のクロニクル』は『東京喰種』がやっていたことを全部やらず、やらなかったことを全部やった作品だといっていい。つまり両者の関係は物質と反物質、ぶつけ合わせれば膨大なエネルギーが放出されて世界が滅びる!」
「滅びないよ。まだ意味わかんないからもう少し詳しく」
「なんだい、のりが悪いね。つまり、『白暮のクロニクル』はバトルもほとんどなし、人外を狩る専門機関なんてものもなし。吸血鬼を管理するのは厚生労働省のお役人だ。謎めいた研究機関とか社会全体を巻き込んだ大パニックとかもなし。地に足の着いたキャラが地に足の着いた活動でもって色んなトラブルをさばいていく」
「……それ、めちゃくちゃ地味なんじゃないの。聞いた限りだと吸血鬼ものから派手なところ全部抜いたようにしか――」
「ゆうきまさみを地味とは、いかにも漫画IQの低い表面的で浅い発言だね!」とミュウは僕を笑い飛ばした。「それではきみに実体験させてやろう。こっちへ来て」
ミュウに手招きされ、僕はソファを迂回して彼女のそばに寄った。実体験? ミュウは僕の目の前に背中を向けて立つと、両腕を軽く持ち上げ、首をひねって僕を見て言った。
「持ち上げてくれ」
「……は?」
「ぼくの身体を後ろから抱えて持ち上げるんだよ」
「な、なんでそんなこと」
「いいからさっさと言う通りに! 新入部員だろう!」
しかたなく僕はミュウの細い胴体に手を回し、腰を落としてぐっと腕に力を込めた。
「高く持ち上げなくていいよ。ぼくの足の裏が床に触れるか触れないかの高さでいい」
「……それ……かえってつらいんだけど……ぐぎぎ……」
たしかにミュウは小学生なみの小柄さで体重も軽かったけれど、それでも人ひとりぶんの重さだ。
「ほら、ぼくの足下を見てみるがいい」とミュウは言うのだけれどそんな余裕はない。「一見足の裏が接地しているように見えるが、体重がかかっていないため両足とも自由に軽々と楽に動かすことができる」
絨毯からわずかに浮いたミュウの両足が自在に滑って動く。軽々と楽に動かせるのはその背後で僕が歯を食いしばって浮かせているおかげなのだけれど。
「これがゆうきまさみの漫画だ。わかるだろう。足が地に着いてはいるが、重力からは自由でいられる。なぜなら絵もキャラもネームもすべてが軽妙で洒脱だからだ! これを《地味》とはけっして呼ばない、強いて呼ぶなら《天味》だ!」
「……そ、そんな例え話するためだけに持ち上げさせたの……?」
「はっ。なんできみはさっきからぼくに抱きついているんだいっ?」
「おまえがやれって言ったんだろうが!」
僕はミュウを放してソファに倒れ込んだ。疲れた……。
「とても仲睦まじい光景だったので動画に撮っておきました」と燈子がスマホを持ち上げてみせる。「でも弘夢さんが幼女を背後から襲っているようにしか見えませんね……」
「今すぐ消せ!」
「あんなこと、やれと言われたからって素直にやるなんて、塚本くんは女の子に触るためならなんでもやるのね……」と咲夜も引いている。なぜ僕がこんな目に。
ブレザーにまた袖を通したミュウが不機嫌そうに言う。
「とにかく、ぼくがここまで骨を折ったんだ」
「骨を折ったのは主に僕だけどっ?」
「さっさと今ここで『白暮のクロニクル』を読むように。これは構成的にも見事でね、単行本1巻ごとがちょうどひとつの事件を解決するエピソードとしてまとまっている上に全11巻を通して大きな事件が扱われラストには胸を打つサプライズが待ち受けているミステリとしても完璧なできばえなんだ。一気読みできる幸せを噛みしめるといい」
そういうまともな紹介を最初にしてくれないかな、と思いつつ単行本に手を伸ばした僕だけれど、さきほどの無理な重量挙げがたたって手が萎えきっており、しばらく本一冊すら持ち上げられない状態だったのである。
『白暮のクロニクル』
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