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……――――バサッ!
空気を孕み派手な音をさせて朱色の布が花開いた。
アリが早く入れと言わんばかりにこちらを睨みつけている。
暗い空に明るく映えるそれは、ヒトが何人入れるのか検証したいくらいの大きさをしていて持ち柄も太く、さぞかし重いだろうに平然と涼しげな顔をしているのが何だかしゃくにさわる。
結局、有無を言わせないバルの技法にあい、出掛けることになった。
所々に出来た水溜まりを避けるよう、はしたなくならない程度にドレスを摘まみあげる。
靴を気遣いながら入り込んだ傘の下は、外よりも冷たい気に満ちていた。
ここはバルの城宮の玄関。
馬車が置かれてるところまでは少しの間歩くことになる。
前を行く衛兵の背中を追いかけ、後ろから漂ってくる不機嫌な気を意識しないよう努力する。
同じ不機嫌さでもザキのそれとは全く異質なもので、背中に氷をあてがわれたように感じるのだ。
居心地が悪いことこの上ない。
「私としては、同行するなど非常に大変不本意な訳ですが。貴女様には理由がお分かりでしょう」
パシャパシャと水を含む足音と傘に雨が当たるパタパタ音に混じり、むっすりとした低音が斜め後ろから聞こえてくる。
「加えてこの天候です。貴女様も愉しさが半減するでしょう。お断り頂けば良かったのです」
急に予定が変わったのはアリも同じなのだ。
几帳面に立てた自身の計画を崩され、急な指示に衛兵の手配からルートの確認まで朝から忙しい思いをさせられていた。
おかげですこぶる機嫌が悪い。
本人は無意識だが、ユリアに冷たい気を全開にして放っていた。
更に雨による気温の低さも手伝って、どんどこ冷えてく体は震えて感覚が無くなり、足元がおぼつかない。
濡れた石畳に脚をとられないよう懸命になる。
もっと厚着をさせてもらえば良かったと後悔しながら脚を前に進める。
「あぁ、先に申し上げておきます。そこの黒い石の道は滑ります。お気を付け下さい」
「はい、気を付ける…わっ」
言われたそばから斜めになってる石に踵を取られ、ツルンと滑って体が宙に浮いてしまう。
手をばたつかせてもどうにもならず、体はどんどん地面に向かっていく。
支えを期待できる腕は、傘を持つため両方塞がっている。
転べば折角のドレスもセットした髪もびっしょりと濡れてしまい、もし体に傷の一つでも作ればバルが心配して外出を取りやめると言いかねない。
ただでさえ皆が振り回されてるのに―――――
もうダメだと目をぎゅっと瞑れば、いつまでたっても期待する衝撃はなく。
目を開くと素早く動いたアリの腕に受け止められていた。
ということは、傘は?と見れば、衛兵がしっかりと持っていた。
事なきを得るも、ドレスの裾が水溜まりに入ったのに気付き、心の中で思い切り悲鳴を上げる。
「ふぅ…まったく。そうですね、うっかりしていました。貴女様は歩くのが苦手でしたね。ドレスは濡れませんでしたか」
「裾が、ほんの少しだけ濡れたわ。でも出掛けるには支障がなさそうよ。アリ、どうもありがとう」
濡れた裾を絞ると、水分が指の間からじわーっと出てくる。
「仕方ないですね。衛兵、宜しいですか。今から聞くこと見ることに対しては目を瞑っていて下さい」
「―――っ…承知致しました」
「全く、だからこんな日に出掛けるなど反対したのです。貴女様に申し上げておきますが、そこを通り過ぎるまで、です」
宜しいですね、と指差す方向を見れば、黒い石が雨に濡れ艶々と光ってる。
「……はい?」
見るからに滑りそうなあれを、アリはなんとかしてくれるというのだろうか。
いつもの無表情な瞳をぼーっと見つめてると、それがスッと下に沈み込み脚が浮かされ視界が横転し朱色に染められた。
「な……アリ?」
「静かに。騒がないで頂くよう願います。急がなければ。衛兵行きますよ。しっかりついてくるように。濡らしては元も子もありません」
この衛兵に目を瞑っていろと言っても、他からはまる見えじゃないのだろうか。
などと、心配する間もなく、耳に風の音が届いたと思ったら、すとん、と地面に下ろされた。
見れば黒い道は遥か後方にあって……。
今、走ったの?
少し息を乱した衛兵に対して、アリのそれは平静なもの。
「いつの間に通りすぎたの?」
「それは、以前秘密だと申し上げました。そこの角を曲がればバル様がお待ちしています。さぁ、行きましょう」
アリの言う通り、角を曲がってすぐのところに馬車が止めてあり、バルが此方の傘よりもさらに大きな紺色の下で待っていた。
柄は四隅に配置されていて、どうやって畳んで持ち運ぶのだろうかと疑問に思う。
「お待たせいたしました」
そこの隅に立つバルに対し裾を摘まみあげて挨拶すれば、形のいい眉根が寄せられ低音の声で命じられる。
「こちらへ来い。濡れたか……慣習に従わず、私が迎えに行けば良かったな。そうすれば、全行程こうしてあげられた」
再び視界が揺らぎ、抱き上げられたことを知る。
「アリ、これからは私を呼べ」
―――もしかしなくても、これはご機嫌斜めよね。
ふわふわと揺れる柔らかそうなブラウンの髪と一緒に、軽く馬車までもを覆ってしまいそうな大きな紺色の傘が目に映る。
そもそもこれを傘と言っていいのだろうかと迷うそれの下で、しっかりと抱えてスタスタと歩く腕の主を見る。
眉間に皺を寄せていて唇は真一文字。
漂ってくる気はちくちくと尖ってて、どう考えても怒ってるように見える。
ドレスを濡らしてしまったのがそんなにいけなかったのかと考えると、こんな日に出掛けようと言い出したのは貴方じゃないのと文句を言いたくなる。
この天候で貴方は暇になってしまったかもしれないけれど、皆はやるべきことがあったのよ?と。
反対意見を聞かず我儘を通すところは、ある意味王子様らしいといえばそうだけれど……。
「アリは十分に役目を果たしてくれたわ。彼のお陰で被害は少なかったのよ。だから叱らないで下さい。それに、私は歩きたいわ。バル、下ろして?」
「駄目だ。俺には、とても見過ごせん」
下ろして貰えるどころか却って腕に力が入ってしまい、グィッと寄せられた目の前に逞しい胸が迫る。
ちょっと押してみると更に力がこもり、バルは何も言わないけれど腕は絶対に下ろさないことを主張していた。
―――見過ごせないって、何のことかしら。
やっぱり、あれのこと?
城に来たばかりの頃に階段で起こったことが思い出される。
あの時はまだ治ったばかりだった。
確かに、怪我をして以来歩くのが下手になった自覚はある。
お部屋の中から出ずに過ごしていたせいか、長い距離を歩く自信はもうない。
ゆっくりともたついてるから、イライラしてしまうのも分かる。
でもだからと言って抱えられてばかりいては、ますます歩くのが下手になってしまう。
―――全行程―――
ってことは。まさかお出掛け中もずっとってこと?
困るわ、バル。それは、過保護というものだわ―――
つらつら考えてるうちに、馬車の乗降口はどんどん迫ってきてる。
何事も最初が肝心。
今歩かなければ、行く先々事あるごとに抱えられてしまいそう。
折角の城下だもの、雨とはいえども地に足を付けてしっかり満喫したいと考えるのは、私の我儘なのかしら。
「お願い、待って。バル、ここなら濡れないでしょう?折角の外出だもの。自分で馬車に乗り込みたいわ。だから―――」
「すまんが、その願いは却下する」
お願いすればすかさず返ってきた厳しめの声。
威厳が含まれたそれに少し怯むけれど、ここで負けてはいられないから頑張って食い下がってみる。
「どうして?出掛けるのもバルの馬車に乗るのも初めてなのよ。自分の脚でしっかりと味わいたいわ。ね、お願い」
「お前がこれに乗るのは二度目だ。頼む、もう黙ってくれ。でないと、今必死に我慢してることを、するぞ。嫌われるのは覚悟の上だ。どうする?」
そう言って、ピタッと止まって見下ろしてくるバル。
そんな風に言われると、何も言えなくなってしまう。
…嫌われることをする…って、誰に?
なんとも怖い意味を含んだこの言葉、以前もどこかで聞いたような……。
というか、それよりも。
二度目だなんて全く覚えがないんだけど。
馬車なんて、ラヴルと夜会に行った時乗ったきりで、あとは……。
どう考えても身に覚えがなくて、首を傾げながら聞いてみた。
「それって、いつのことなの?」
考えているうちに歩みは再び進んでいて、いつの間にか乗り込む寸前のところまで来ていた。
ドアのところで、馭者が畏まった姿勢でバルの命令を待っている。
「―――開けろ。一度目は、お前は眠っていたから覚えてないのは当然だ」
「ぇ、それなら」
初めても同じじゃないの。というのは、ギラリと光るブラウンの瞳を見て黙っておくことにした。
どうにも迫力がありすぎる。
どうしてこんなに怒ってるのかよくわからない。
“ただし、道中は必ず俺の言うことを聞け”
やっぱり、この言いつけを守ってないからなのか。
馬車の中で何事も起きないことを、願っておこう。
しとしとと降り続く雨の中をゆるゆると進む車列。
先頭を行くのは、着飾った馬に乗った武装した騎士団長ルガルド他3名。
しっかり専用の雨合羽を着込んでいて、懸念していたようなずぶぬれは避けられている。
続くは、バルとユリアの乗る焦げ茶色の馬車。
大きな車体に旗と同じ狼の絵が描かれ、一目で王族のそれとわかる風体。
その後ろに再び騎士団員が並び、どこかそわそわしてる様子の医師ジークが乗る小さめの医療馬車が後に続いた。
最後方には先頭と同じ格好をした衛兵達がずらりと並んで守りを固める。
不機嫌さ満開だったアリはどこにいるかと言えば、皆と同じく雨合羽を着こんで馬に乗っていた。
武器は持っていないが、今は馬車のすぐ隣にいて絶えず周囲に目を光らせている。
必要あれば前後を飛び回り、いつでも指示を出せるようにしていた。
なんだかんだ文句を浮かべつつもきっちりと職務をこなす姿は、流石にバルの信頼を得る側近といったところだ。




