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ゾルグが城からの書状を受け取り、驚きに目を丸くした、ちょうどその同じ頃。
国は変わり、こちらはラッツィオの空。
相変わらずに瑠璃の森の護りは手厚く、空気は清々しい。
雲一つない、青くすみわる空がひろがっていた。
だが、ここもロゥヴェルほどではないが、気温は低い。
森の意思の力により守られてはいても、この国の陽も魔王の創ったものだ。その影響を受けない筈はない。
バルの城宮の屋根上で風にはためく狼の顔は、寒さに震えているように見える。
部屋の中では、滅多に使われることのない暖炉に火が入り、道行く民たちは身を縮めて足早に歩いている。
城の衛兵達も雨の日に着込む上着を羽織り、寒さに耐えていた。
城宮の中で、執務中のラッツィオの王子バルリーク。
溜まった書類に目を通し、次々に押印していく。
眉間にしわを寄せたその表情はイライラとして見え、あの穏やかな風貌はすっかり影を潜めていた。
進まないユリア奪還計画。
腹心とも言える側近のアリは、ジークの懸命な治療により一命を取りとめるも、未だ政務に復帰できていない。
今は医療宮から離れ、より環境の良い瑠璃の森で静養しているところだ。
ジークはもちろん、ザキまでも付き添いと称し、瑠璃の森に行ってしまった。
バルは誰にも相談することが出来ず、頭の固い大臣たちを相手に孤軍奮闘といったところだった。
焦りが募り、いっそのこと城を抜け出し単身ロゥヴェルに向かい、リリィと合流して奪う期を窺おうかとも考える。
だが、ユリアを襲った事件も未解決のままで、摘み取っていない危険な芽を放置することはできず、おいそれと城を離れるわけにはいかなかった。
「困ったものだ。アリさえいれば――――」
ため息を吐き眉間に指を乗せて、寄った皺をぐりぐりとほぐしていると、ノック音が響いた。
「―――何だ?」
「失礼致します。王様がお呼びで御座います」
「うむ、すぐに伺う」
ガタンと椅子の音を立てて立ち上がり、足早に王の城宮に向かう。
謁見の間に着けば、玉座に座った王が独りで待っていた。
傍らの台には赤い布の上に書状らしきものが置いてある。
「お呼びにより、伺いました」
「うむ……そなたに、ロゥヴェルの城より書状が届いておる。これを、取るが良い」
「ロゥヴェルから、私に――――?はい、失礼致します」
前に進み出て書状を取り、中身を一読した手がプルプルと震える。
「これは―――――まさか……」
「うむ。それをどうするかは、そなたに任せる。この機会だ、要請があれば―――――貸す」
王の瞳をじっと見つめれば、僅かに金色に光った。
バルの瞳にも決意の色が宿る。
「――――はい、有り難いお言葉、まこと感謝致します」
「そなたの御心のままに―――」
去り際に言われた王の言葉を噛みしめ、ドアを開け退室の礼を取る。
書状を握り締め、廊下に出てすぐに命を飛ばした。
「占師サナを呼び、ザキを呼び戻せ!」
今すぐだ――――
***
“―――その方は、吸血族の王族のようですよ。……誰なのか、じきに分かると思いましてよ――――”
創始の森から帰った夜。
知らされたいくつかの事実を思い返して、小さな興奮を覚えつつ眠りにつくと、再び記憶の夢を見る事が出来た。
幼い私と、あの優しい男の子の夢を――――……
――――――……穏やかな風が吹いて、周りの草がさわさわと動いてる。
ここは、セリンドルの森の草原―――?
小さな手の中には、妖精さんからもらった種がしっかりと握られている。
向かいあって立ってる男の子の黒髪はサラサラと揺れてて、黒い瞳はきらきらと輝いていた。
それをじっと見つめたままの私は、彼の薄い唇から紡がれる言葉を、一生懸命に理解しようとしていた。
「―――わかったね?きっと、待ってるんだよ。うん―――そうだ、な。約束の印を残していくよ」
何を思いついたのか、男の子の優しい笑顔が近づいてくる。
何のことだか分からなくて、じっと顔を凝視したままで首を傾げて尋ねた。
「やくそくの、しるし?」
それって、なに?
「守る印だ。目をつむって、顔を上げて前を向いてて」
笑顔が消えて、急に真剣な顔つきになった男の子を見て、小さな胸に不安がよぎった。
印というものは、消えないようにペンで書いたり縫い込んだりするものだ。
「それって、いたくないの?」
男の子は好きだけど、痛いのは嫌だ。
おずおずと聞くと、彼は、目を見開いたあとに、くすくすと笑った。
「まだやっとことないから下手だけど。痛くしないから大丈夫だよ、安心して。ほら、目を閉じて」
「―――うん、わかった。えっと……こうでいいの?」
目をぎゅぅっと瞑って前を向く努力をする。
何をされるのかわかんなくて怖いけど、この子なら信用できると思ったのだ。
「そう。いい子だね、そのまま。じっとして動かないで―――」
何かが額にあてられて、じんわりと体が温かくなる感覚がした。
頭も体もほわほわと浮かび上がるように軽くなって、なんだかすごく気持ちがいい。
―――ねむい……このまま、ねむってもいい?
そうしたら、もうすこし、いっしょにいてくれる?
よる、おはなししてくれるひと、だれもいないの。
だから、いつも、ねむれないの―――
おばば様は、私が眠るまでいろんなお話をしてくれた。
誰もいない今は、ベッドに入っても寂しくて冷たくて寒くてとても辛い。
がらんどうの部屋。
隙間風の音だけが聞こえて来る独りぼっちの夜。
怖くて、哀しくて。
いつもちっとも眠くならなくて。
―――はやくあかるくならないかな。
どうして、くらいよるがくるのかな。
あかるくなれば、とりのこえがする。
ちっちゃいどうぶつだって、おきてくるもん。
そしたら、あのこたちはきっと、わたしとあそんでくれるもん―――
朝までの我慢。
毎晩、そんな風に自分を励ましながら膝を抱えて過ごしているのだ。
明るくなるまで。ずっと――
ふらり…と意識が遠くなって、倒れそうになる。
それを、男の子の腕がしっかりと支えてくれた。
「こら、眠っちゃ駄目だよ。ほら、その妖精の種を植えるんだろう。目を開けて」
揺さぶられながらぼんやりと思う。
―――そうだった。
たね、うえなくちゃいけないんだった。
はやくうえないと、またなくなっちゃうもん―――
降って湧いた危機感に、重い瞼を一生懸命に開ける努力をする。
と、ぽやぁとする視界に男の子のやさしい笑顔があった。
頭を撫でてもらってとても嬉しくなる―――――……
―――約束の印―――
黒い瞳に黒い髪。
とても不思議な力。
吸血族の方だと言われれば、そうだと納得できる。
“大きくなったら、迎えに来る”
彼が、生きてるなんて。
優しい笑顔。
幼い私の心に温かな灯りをともしてくれた男の子。
小さくて、脆くて壊れやすい心は、あの後のあまりの辛さと哀しさに負けて川に入ってしまった。
けれど、救いあげられて城で生活を始めた私にとっては、あの約束は強い心の支えになってた筈だわ。
時が経って少女になっても、彼を待ち続けていたのだから。
男の子は、気まぐれにした約束かもしれない。
ただの同情かもしれない。
印がなんなのかは分からない。
もう、約束自体忘れてしまってるかもしれない。
けれど。
彼が誰なのかわかったら、もしも会うことが出来たのなら、この感謝の気持ちを伝えたいと思うのだ。
―――孤独な私に、希望をありがとう……って――――
ふと思い立って、宝石箱を取り出した。
細かな金細工で飾られた蓋を開ければ、不可抗力にも持って来てしまったあの指輪が入っている。
光にあたりキラキラと輝く石を見ると、胸がきゅぅと締め付けられる。
―――あの花は、今でも咲いているのかしら―――
想いと共に、自然に頭の中に思い浮かんだのは、いつか夢に出てきた一面に咲く青い花の群れ。
“今年も、綺麗に咲きました”
もしかしたら。
儚い花弁の……あの美しい花が、妖精の……。
だとしたら、毎年セリンドルの森に見に行ってたんだ。
エリスと一緒に。
彼に、会えるのを、期待しながら。
“クリスティナ。私を、思い出せ”
私の頬に触れながら出されたセラヴィの声は、消え入りそうに小さかった。
まさか――――まさかとは思うけれど……。
あの男の子は、彼は……セラヴィ、なの?




