【後編】人生、再就職。
それから、紹介で仕事の相談が少しずつ増えた。
知人が知人を紹介してくれる。会社の外にも、自分が必要とされる場所があった。
休日の仕事は相変わらず疲れた。それでも、依頼が終わるたび、次はこうしてみたいと考える自分がいた。
自分の判断で引き受け、経験を活かして解決し、対価を受け取る。
久しぶりに、仕事を面白いと思った。
これを、自分の仕事にできないだろうか。
そんな考えが浮かんだのは、いつだったか。
独立するなら、人脈を広げなくてはならない。資金も、取引先も必要だ。簡単ではないことくらい、エンジニアとして働いてきた男には分かっていた。
それでも、知り合いに連絡を取り、紹介してもらった相手と会い、少しずつ仕事先を増やしていった。
準備を考える時間が楽しかった。
ある晩、机に向かっていると、不意に別の未来が浮かんだ。
もし、うまくいったら。
今より大きな収入を得られるようになったら。
……そのお金も、また妻が管理し、足りないと言われ続けるのだろうか。
事業が成功する場面を想像したはずなのに、胸が重くなった。
男はペンを置いた。
自分は、何のために独立したいのだろう。
もっと稼ぐためか。家計を楽にするためか。
最初は確かに、そうだった。
だが今は違う。
自分で仕事を選びたい。
ときには休みたい。
好きなものを食べ、行きたいところへ行き、自分の時間を自分で使いたい。
小さな望みばかりだった。
ノートを開き、思いつくままに書き出す。行ってみたい町。会いたい人。身につけたい技術。仕事が落ち着いたら取ってみたい休暇。
書き出した項目の中に、妻の名前が一度も出てこなかった。
男はそこで手を止めた。
妻と一緒にいる未来を想像すると、何一つ楽しくなかった。
ずいぶん前から分かっていたのかもしれない。ただ、言葉にする勇気がなかっただけで。
妻とは、もう別れたい。
怒りに任せた結論ではなかった。ほかに好きな人がいるわけでもない。
これから自分の手で築く人生を、これまでと同じように誰かの期待を満たすためだけに使いたくなかった。
男は新しいページを開いた。
『これからの人生』
最初の一行にそう書いた。
*
下の子が二十歳になった。
二人とも、もう大人だった。
父親としての責任が消えるわけではない。子供たちが母親を慕う気持ちも変わらないだろう。
男は、それを恨んでいなかった。
自分が子供たちと過ごせなかった時間は、戻らない。それでも、二人が生まれた喜びまで嘘になるわけではない。
ひとつの区切りが来たのだと思った。
男は弁護士に相談した。離婚の意思と、家計の経緯、別居後の生活について説明し、必要な資料をそろえた。
起業の準備は、妻に相談しなかった。
隠し事を楽しんでいたわけではない。もう何年も、二人の間に相談というものが存在しなかった。
新しい住まいは小さな部屋にした。一人で暮らせて、仕事の準備ができれば十分だった。
そして、ある朝。
男はいつもどおり顔を洗い、着替え、鞄を持った。
玄関で靴を履く。
「行ってきます」
返事はない。
もう慣れていた。
ふと振り返る。子供が初めて歩いた日。誕生日のケーキ。昇進を報告したときの妻の笑顔。
幸せな日がなかったわけではない。
男は、誰もいない玄関に小さく頭を下げた。
「……お世話になりました」
そして、扉を閉めた。
その日も、普通に会社へ行った。
ただ一つ、いつもと違うことがある。
もう、この家には帰らない。
*
妻は、便箋の続きを読んでいた。
夫が家を出て四日目。法律事務所から届いた封書の中の、もう一通。
『退職届』
冗談にしては悪趣味だと思った。
自分だって、二十三年間、家庭を守ってきた。
夜中に熱を出した子供を抱えて病院へ行ったのは誰だ。思春期の子供たちとぶつかりながら、毎日を回してきたのは誰だ。
夫は仕事ばかりだった。
あの人に、私の苦労が分かるはずがない。
妻は唇を結び、便箋に目を戻した。
『拝啓、妻へ。
結婚以来、二十三年間にわたり夫として勤めてまいりましたが、このたび一身上の都合により、夫を退職することにいたしました。
二人の子供を育ててくれたことに、感謝しています。
あなたが苦労してきたことも、知っているつもりです。
家計を任せきりにしたこと。仕事を理由に、子供たちと過ごす時間を十分に取らなかったこと。私にも責任があります。
ただ、私にも限界がありました。
辛かったのは、働くことではありません。
働けなくなったとき、家の中に休める場所がなかったことです。
あなたにも、あなたの苦しみがあったのでしょう。
それを否定するつもりはありません。
けれど、私の苦しみも、確かに存在していました。
子供たちは成人しました。これからも父親であることに変わりはありません。
しかし、夫という役割は、ここで終わりにしたいと思います。
私にも、まだ人生が残っています。
残りの時間を、自分自身のためにも使ってみたいのです。
離婚の手続きについては、代理人を通じて誠実に対応します。
二十三年間、ありがとうございました。
なお、退職後の再雇用につきましては、固く辞退申し上げます。
敬具』
「……ふざけないでよ」
妻は便箋をテーブルに置いた。
何が退職だ。何が再雇用だ。
私だって苦労した。辛かったのは、あの人だけじゃない。
『働けなくなったとき、家の中に休める場所がなかったことです。』
もう一度、その一行が目に入った。
そんなに辛かったのなら、どうしてもっと早く言わなかったのか。
あの人はいつもそうだ。黙って抱え込んで、最後になってこちらを悪者にする。
言わなければ、分からないではないか。
妻は便箋を畳んだ。
けれど、末尾の一文が頭から離れなかった。
『退職後の再雇用につきましては、固く辞退申し上げます。』
「……勝手すぎるわよ」
電話をかけようとして、手を止める。
通知書には、連絡は代理人を通すようにとあった。
妻は、もう一度封筒を見つめた。
自分が間違っていたとは思えない。なのに、夫は本気で戻らないつもりらしい。
それだけは、分かった。
*
妻は離婚を拒んだ。子供たちも母親の味方だった。
「お母さんを一人にするの?」
そう聞かれても、男は妻の悪口を言わなかった。
子供たちを育てた妻の働きを、否定するつもりはなかったからだ。
ただ、離婚の意思は変えなかった。
協議はまとまらず、調停へ進んだ。
妻には、最後まで納得できないことが残った。
男もまた、晴れやかな気持ちではなかった。
時間をかけて条件がまとまり、離婚が成立した。
二十三年間の夫婦生活が、静かに終わった。
男は、知らせを受けても万歳はしなかった。
勝ったとは思わなかった。長い仕事が一つ終わったような、静かな気持ちだった。
*
離婚が成立して、最初の日曜日。
男は小さな部屋で、目覚ましより早く目を覚ました。
今日は、知人から紹介された人と会う約束がある。新しい仕事につながるかもしれない。
契約が決まったわけではない。独立も、まだ準備の途中だ。会社員としての仕事も続けている。
それなのに、朝からそわそわしていた。
湯を沸かして、コーヒーを淹れる。
少しだけ高い豆を買った。自分のために使う数百円を、以前の男なら無駄だと思ったかもしれない。
窓辺で一口飲む。
苦い。だが、うまい。
机の上には、使い込んだノートがあった。
紹介された仕事先、連絡する人、これから必要な準備。まだ白いページも多い。
やることはいくらでもある。失敗するかもしれない。
それでも、今日の予定を書き込む手が弾んだ。
スマートフォンが鳴った。これから会う知人だった。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」
声が、自然と大きくなった。
通話を終えると、男は時計を見た。
打ち合わせのあと、どこで昼を食べよう。
行ったことのない店に入るのもいい。帰りに本屋へ寄ってもいい。
仕事以外の予定を考えて、思わず笑ってしまった。
「……まったく、忙しくなるな」
その言葉が、少しも嫌ではなかった。
男はノートを閉じ、鞄を手に取る。
「さて、行ってくるか」
返事はない。
今度は、それでよかった。
夫という仕事は、退職した。
だが、人生そのものを辞めたわけではない。
扉を開けると、朝の光が差し込んだ。
明日が待ち遠しい。
そんな日々が、これから始まる。




