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【前編】二十三年間の勤務実績

結婚二十三年目。


夫から手紙が届いた。


正確には、夫が依頼した弁護士からだった。


差出人は、聞いたことのない法律事務所。封筒には数枚の書類と、もう一通、小さな封筒が入っていた。


『離婚協議に関する通知書』


「……は?」


妻は最初の一行を読み返した。


夫が朝、仕事に出かけたきり戻らなくなって、四日目だった。


最初の晩は、仕事の都合だと思った。二晩目には腹が立った。三晩目には、どうせ意地を張っているのだろうと決めつけた。


特に喧嘩をしたわけではない。そもそも、喧嘩になるほど話をしていなかった。


通知書には、夫がすでに別居を始めていること、離婚を希望していること、今後の連絡は代理人にしてほしいことが、淡々と記されていた。


妻は夫の携帯を鳴らした。出ない。もう一度。やはり出ない。


「何なのよ、勝手に……」


通知書を置いたところで、同封された小さな封筒に気づいた。


中の便箋には、見慣れた夫の字があった。


『退職届』


「退職?」


ただでさえ給料が減ったのに、会社まで辞めるつもりなのか。


慌てて次の行を追う。


『拝啓、妻へ。結婚以来、二十三年間にわたり夫として勤めてまいりましたが――』


「……ふざけないでよ!」


夫が辞めようとしているのは、会社ではなかった。


夫、そのものだった。


*


二十三年前、男は年上の彼女を心から好きだった。


明るくて、よく喋る。迷っている男の手を引いて、行き先を決めてしまうような人だった。


学生時代から周囲となじめず、就職してからも人間関係に苦労してきたという。


「私、家庭を持つのが夢なの」


ある日のデートで、彼女は言った。


「旦那さんが仕事に行って、奥さんが家を守って。帰ってきたら『おかえり』って言うの。そういう普通の暮らしがしたい」


男はまだ若いエンジニアだった。覚えることばかりの仕事が面白く、一人前になりたいと思っていた。


「じゃあ、俺が頑張らないとな」


彼女は嬉しそうに笑った。


結婚の話を積極的に進めたのも彼女だった。男はその勢いに押されながらも、頼られていることが嬉しかった。


結婚すると、妻は念願の専業主婦になった。家計は妻に任せた。自分は働き、妻は家庭を守る。それでうまくいくと思っていた。


やがて子供が二人生まれた。


妻はよく世話をした。夜泣きに付き合い、熱が出れば病院へ連れて行き、学校に上がれば行事や進路の相談に奔走した。


だが、憧れの暮らしは、穏やかな毎日ではなかった。


眠れない夜。片づかない部屋。言うことを聞かない子供たち。妻は育児に追い詰められ、泣いてしまうこともあった。


男にも覚えがある。子供の行事を仕事で欠席したこと。泣き疲れた妻の横で、眠り込んでしまったこと。


妻には、確かに妻の苦労があった。


だから男は、仕事を頑張った。


経験を積み、後輩を教え、管理職になった。昇進を告げた日の妻の笑顔は、今も覚えている。


給料が増えるたび、家族を少し幸せにできた気がした。


「子供には、できるだけいい教育を受けさせたいの」


妻が塾や習い事の話を持ち出したときも、反対しなかった。


「でも、結構かかるんじゃないか?」


「みんなやってるのよ。子供の将来がかかってるんだから」


妻は学校の事情をよく知っていた。先生の評判も、友達の名前も、受験のことも。男が知らないことまで把握していた。


だから家計についても、妻の方が分かっていると思い込んだ。


その思い込みが崩れたのは、ある休日だった。


*


「あなた、少しは考えてくれない?」


電話口の義母は、挨拶もなくそう言った。


「何のことでしょうか」


「うちだって、もう限界なのよ。年金暮らしなのに、いつまで援助させるつもり?」


援助。


初めて聞く言葉だった。


男は毎月、決められた生活費を妻に渡し、足りないと言われれば賞与からも補っていた。


義母は、塾代も習い事の費用も、何年も補填してきたのだと言った。蓄えは減り、もう続けられない、と。


「もっとしっかりしてもらわないと、娘がかわいそうでしょう」


男は謝って電話を切った。


知らない間に、義母にまで負担をかけていた。それは申し訳なかった。


ただ、何かがおかしい。


帰宅した妻に尋ねた。


「お母さんから、お金をもらっていたのか?」


妻は目をそらした。


「……お母さん、余計なこと言ったのね」


「いつから? どのくらい?」


「足りないんだから仕方ないでしょ」


「だったら、先に相談してほしかった」


「相談したら、お金が増えたの?」


妻は声を強めた。


「子供に我慢させろって言うの? あなたは外で仕事してればいいから分からないのよ。学校のことも、毎日の買い物も、全部私なんだから!」


男は収入と支出を一緒に確かめたかった。しかし、その話にはならなかった。


家計を任せきりにした自分にも責任はある。それは認める。


だが、知らされていなかった援助について、なぜ自分だけが責められるのか。


家族のために働くことと、家族のすべてに責任を負うことは、同じなのだろうか。


その疑問を口にできないまま、夫婦の会話は減っていった。


*


その後、職場の環境も変わった。


人手が減り、責任だけが増えた。家庭に戻れば金のことで空気が重い。眠れない夜が続いた。


ある朝、出勤しようとして動悸が止まらなくなった。


病院で休養を勧められ、男は休職した。


「……しばらく会社を休むことになった」


テレビを見ていた妻が顔を上げた。


「それで、給料はどうなるの?」


「減ると思う」


「ああ、もう……ただでさえ苦しいのに」


妻は深く息を吐いた。


「私だって毎日辛いのよ。更年期で体はしんどいし、子供たちのこともあるのに。あなたまでそんな調子で、どうするのよ」


妻が辛いのは知っていた。ずっと苦労してきたことも。


だから、男は何も言えなかった。


本当は、一言だけ聞いてほしかった。


大丈夫? と。


休職中、男が横になっていると、妻は言った。


「私は休みたくても休めないんだけど」


やがて復職したが、管理職には戻らず一般職となった。収入も減った。


妻は何度かパートに出たが、長続きしなかった。


それでも、パート勤めの知人の話になると、こんなことを言った。


「旦那さんの稼ぎだけで生活できないなんて、大変よね」


男は黙っていた。


生活費を補うため、休日にも働くことにした。


そのころには、家での食事も用意されなくなっていた。


帰宅すると、流し台には三人分の食器が重ねられていた。


男は買ってきた弁当を温め、自分のワイシャツを洗濯機に入れた。


自分のことを自分でするのは、別に構わない。


ただ、この家には四人で暮らしているはずだった。


食器は、いつも三人分だった。


子供たちは母親と仲がよかった。小さいころから世話をし、学校の話を聞いてきたのは妻だ。父親が家にいなかった時間を、妻は埋めてきた。


ある日、子供の一人に言われた。


「お父さんって、お母さんの大変さ、分かってないよね」


男は否定しなかった。


子供から見れば、母親を困らせる父親なのだろう。


家族のために働いてきた。そのつもりだった。


けれど、いつからか、自分の席だけがなくなっていた。


*


副業は、生活費の穴を埋めるために始めた。


平日は会社。休日も仕事。休める時間は、ますます減った。


あるとき、以前仕事で知り合った人から相談を受けた。


「技術的なことで困ってるんだ。ちょっと見てもらえないかな」


勤務先の業務や機密とは関係のない、小さな依頼だった。


男は話を聞き、原因を整理して、改善方法を提案した。長年やってきたことだ。特別なことをしたつもりはなかった。


数日後、連絡が来た。


「助かったよ。やっぱり経験のある人に相談すると違うね」


約束の報酬が振り込まれた。


男は画面の数字をしばらく見つめた。


会社の看板も、役職も関係ない。


自分が培ってきた経験と技術に、誰かがお金を払ってくれた。


「……そうか」


ふっと笑った。


失ったのは、役職だった。


積み重ねてきたものまで、失ったわけじゃない。



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