15話 はぐれた一匹
3日目の朝。
谷は、ミルクを流したような濃い霧に包まれていた。
5メートル先も見えない。
鎧の表面に、細かい水滴がびっしりとつく。
吸いこむ空気が、しめっていて冷たい。
『前方、霧ノ中ニ、他リンクスノ足音、複数』
ネオの声に、ぼくは耳をすました。
ずしん、ずしん、と重い足音が、霧の向こうを通りすぎていく。
ぼくたちは、また抜かれていた。
今、14位。
足首の痛みは、ゆうべの休憩で、少しましになっていた。
それでも、霧の中では、自分の足もとさえよく見えない。
アーマーのライトをつけても、光が白い壁にはね返されるだけだった。
そのとき。
足音とはちがう、小さな音が聞こえた。
がさ。がさがさ。
草をかきわける音。
それから、ひゅう、ひゅう、と、のどの奥で空気がもれるような音。
「美咲さん、今の……」
美咲さんも、足を止めていた。
ぼくは、音のするほうへ鎧を向けた。
道をはずれた草むらの中に、白いものがうずくまっていた。
◇ ◇ ◇
羊だった。
いや、羊に似ているけれど、ずっと大きい。
大型犬くらいの体に、もこもこの白い毛。
くるりと巻いた、二本の角。
こはく色の目が、霧の中で、おびえたようにぼくを見ていた。
『魔物、羊型。……群レカラ、ハグレタ個体ト推測ス』
羊の魔物は、口を大きく開けて、何度も鳴こうとしていた。
でも、声が出ない。
ひゅう、ひゅう、と、空気がもれるだけ。
鎧のライトで口の中を照らすと、のどの奥に、何かが光った。
黒い、とげだった。
草のとげじゃない。金属の破片のような、細長いとげ。
(これのせいで、鳴けないんだ)
(鳴けないから、群れを呼べないんだ)
霧の向こうで、また足音が通りすぎていった。
これで、15位。
≪行け≫
ジャッジが言った。
≪魔物なんか、ほっとけ≫
≪最下位から抜け出すチャンスは、今しかない≫
≪一匹のために、全部を捨てるのか≫
一匹。
ぼくは、羊の魔物を見た。
群れから、ひとりだけはぐれて。
声も出せなくて。
霧の中で、誰にも気づかれずに。
(……ぼくみたいだ)
そう思ったら、もう、足が前に動かなかった。
◇ ◇ ◇
「美咲さん」
ぼくは、振り返った。
「助けたいです。遅れるのは、わかってます」
美咲さんは、何も言わなかった。
言わずに、アーマーから降りた。
羊の魔物の首を、両腕でそっとかかえる。
「あばれないように、おさえておく。……やるのは、あなた」
ぼくも、アーマーから降りた。
鎧の指では、太すぎる。
素手でやるしかない。
羊の毛に、そっと手を入れた。
あたたかい。
日なたの草のにおいがした。
羊の魔物が、びくりと体をふるわせる。
「だいじょうぶ。……だいじょうぶだから」
口の中に、指を入れた。
ぬるりとした、熱い舌。
奥のとげに、指先がふれる。
羊がもがく。美咲さんが、しっかりとおさえる。
ぼくは、息を吐いた。
力を、引く。
指先に、いらない力を入れない。
とげの向きを、指の腹で感じとる。
すっと、斜めに。
抜けた。
次の瞬間。
――メェェェェ……ン。
澄んだ、高い声だった。
鈴を百個まとめて鳴らしたような、透きとおった声。
霧が、ふるえた。
ほんとうに、目の前の霧が、声に押されて、さあっと波打ったように見えた。
「……すげえ」
羊の魔物は、ぼくの手のひらに、しめった鼻先をぐいぐい押しつけてきた。
ぼくは、思わず笑った。
「おまえ、モコモコだな。……モコ」
勝手に、名前がついた。
美咲さんが、モコの首から腕をほどいた。
その指先に、ちいさな血のあとがついていた。モコがもがいたときに、角でこすったらしい。
「美咲さん、手……」
「平気」
美咲さんは、手を軽くふって、モコの頭をなでた。
その横顔は、谷に来てから見たどの顔より、やわらかかった。
◇ ◇ ◇
モコの声に、こたえる声があった。
霧の奥から、メェ、メェ、と、いくつもの声。
やがて、白い群れが、霧の中からぞろぞろと現れた。
十頭以上いる。
いちばん大きな、角の欠けた羊が、モコの顔をなめた。
そのうしろから、ひとまわり小さな、やさしい目の羊が駆けよってきて、モコの首に、自分の首をこすりつけた。
(お父さんと、お母さん……かな)
角の欠けた、えらそうなほうは、グラン。やさしい目のほうは、シルク。
ぼくは、また勝手に名前をつけた。
それから、ぼくたちのほうを見て、くるりと向きを変えた。
数歩進んで、また振り返る。
「……ついてこい、って言ってる?」
『推測ス。コノ魔物ハ、賢イ。……コノ先ニ、地図ニナキ獣道アリ』
群れが歩きだしたのは、地図にのっていない、細い谷底の道だった。
けわしい近道じゃない。
山をのぼらずに、谷の底をぬって進む道。
電池をほとんど減らさずに、尾根の向こう側へ抜けられる道だった。
ぼくたちは、群れのうしろを歩いた。
モコが、ときどき振り返っては、ぼくの鎧の足にすり寄ってくる。
◇ ◇ ◇
獣道の出口で、群れとは別れた。
別れぎわ、群れのリーダーのグランが、もう一本、さらに細い道のほうへ鼻先を向けて、短く鳴いた。
モコは、最後まで振り返っていた。
順位は、15位のままだった。
獣道で取りもどしたぶんと、モコに使った時間が、ちょうど同じくらいだったらしい。
コメント欄は、まっぷたつに割れていた。
『いい話すぎて泣いた』
『モコかわいい』
『はい、感動の演出w』
『レース中に魔物助けるとか、なめてんの?』
『偽善者』
画面の文字を見ていると、耳の奥で、ざらりと音がした。
砂をこすり合わせたような、たくさんの笑い声をこね合わせたような、あの音。
――いいひと、ぶって。
ぼくは、首を振った。
手のひらには、まだ、モコの毛のあたたかさが残っていた。




