1話 星降る朝、ぼくは家を出た
星が、まだ空に残っていた。
12月23日、午前5時。
玄関の引き戸が、ぼくの背中でぴしゃりと閉まった。
「服部家の男なら、黙って行け」
それが、父さんの最後の言葉だった。
ぼくは服部蓮、15歳。横浜のはずれに住む、中学3年生だ。
吐く息が白い。
霜のおりた庭から、土と鉄がまじったような冷たいにおいがした。
リュックの肩ひもが、かじかんだ手のひらに食いこむ。
(なんで、よりによって今日なんだよ)
今日から冬期講習のはずだった。
母さんが申しこんでくれた、受験前の最後の講習。それを父さんは、電話一本で取り消した。
「元服の前には、清めの旅に出る。服部家は、ずっとそうしてきた」
元服というのは、昔の武士の成人式みたいなものらしい。
15歳になった男は、先祖の土地へ行って身を清める。戦国時代から続く、うちの決まりだ。
うちの先祖は、伊賀の忍者だという。
それも、忍者のなかで指揮をとる「上忍」だったらしい。
……らしい、というのが、ぼくの正直な気持ちだ。
忍者の子孫が、模試でC判定を出すだろうか。
≪出すんだよ。おまえは、そういうやつだ≫
頭の奥で、低い声がした。
いつもの声だ。
ぼくが何かを始めようとすると、先回りして笑う声。
いつから聞こえるようになったのかは、覚えていない。
ただ、ぼくがつまずくたびに、その声は少しずつ大きくなる。
◇ ◇ ◇
ゆうべのことを、思い出す。
夕飯のあと、父さんは居間の座卓の前に正座して、ぼくを呼んだ。
「明日の朝、伊賀へ発て」
「は? 明日から講習なんだけど」
「予定が変わった。講習は取り消した」
それで、話は終わりだった。
父さんは、いつもそうだ。
決めたことを、ぼくに伝えるだけ。
ぼくに聞くことは、ない。
「受験、どうすんだよ。願書だって、まだ……」
「服部家の男が、勉強ごときで旅を休むな」
勉強ごとき。
その言葉が、のどの奥に引っかかって、取れなかった。
台所から、母さんが心配そうにこちらを見ていた。
でも、母さんも何も言わなかった。
今朝、玄関でぼくの手に、アルミホイルに包んだおにぎりを二つ押しつけただけだ。
まだ温かい。
リュックの中で、その温かさだけが、ぼくの味方みたいだった。
◇ ◇ ◇
駅までの坂道を下る。
まだ暗い住宅街に、ぼくのスニーカーの音だけが響く。
角を曲がると、中学校の体育館が見えた。
胸の奥が、きゅっと縮む。
夏の引退試合。
相手は、2年生だった。
面を打ちにいった、その一瞬。
がら空きの胴を、すっと抜かれた。
審判の旗が三本、迷いなく上がる。
体育館の床が、やけに冷たかったのを覚えている。
≪先輩なのにな≫
≪だっさ≫
≪三年間、何してたんだよ≫
あの日から、あの低い声は少しだけ大きくなった。
ぼくは剣道部だったけれど、熱心な部員じゃなかった。気が向いたときに顔を出す、いわゆる幽霊部員に近い。
だから、負けて当然だった。
当然なのに、なぜか悔しかった。
悔しいのに、何も変えなかった。
それが、いちばん情けない。
◇ ◇ ◇
もうひとつ、思い出したくないことがある。
11月の進路面談だ。
担任の古川先生は、数学の先生で、白髪まじりの短い髪をしている。
机をはさんで向かい合ったとき、先生はぼくの成績表を見もせずに、こう聞いた。
「服部。何のために、高校へ行く?」
ぼくは、答えられなかった。
「……みんな、行くから」
やっと出てきたのは、それだけだった。
先生は、困ったように少し笑って、「そうか」とだけ言った。
責められたほうが、まだ楽だった気がする。
願書の締め切りは、1月の下旬。
志望校の欄は、まだ白紙のままだ。
好きなことなら、ひとつだけある。
バトルゲームだ。
画面の中なら、ぼくは負けない。
相手の動きのくせを読み、次の一手を先回りする。
何時間やっても、まったく飽きない。
でも、進路の用紙に「バトルゲーム」と書くわけにはいかない。
書いたら、父さんはきっと、ぼくのゲーム機を窓から放り投げる。
◇ ◇ ◇
新横浜駅のホームは、出張のサラリーマンでいっぱいだった。
売店のほうから、いれたてのコーヒーの苦いにおいがただよってくる。
ぼくは新幹線の指定席に座り、スマホを取り出した。
画面のAIアプリに、指で打ちこむ。
『高校、どこに行けばいい?』
答えは、すぐに返ってきた。
『あなたの興味のある分野や得意な科目、通学時間、将来の目標などを考えて選ぶとよいでしょう。学校説明会に参加するのもおすすめです』
「……それがわかんないから、聞いてんだって」
思わず、声に出ていた。
AIは悪くない。
たぶん、聞き方が悪い。
でも、何をどう聞けばいいのかわからない。
ぼくはスマホを伏せて、ため息をついた。
そのとき、気がついた。
窓側の隣の席に、もう人が座っている。
黒い髪を後ろでひとつにまとめた、若い女の人だった。
座っていても、身長163センチのぼくより背が高いのがわかる。
膝の上には、古い本。
糸で綴じられた、和紙の本だ。
ぼくがちらりと見ていると、女の人はページから目を上げずに言った。
「服部蓮くん、ね」
「え」
女の人が、ぱたんと本を閉じた。
表紙には、墨で書かれた四文字。
『万川集海』
漢字が読めない。
「千代先生から聞いてる」
千代は、ぼくのばあちゃんの名前だ。
「あの……」
「寝てていいよ。名古屋で起こすから」
それだけ言うと、女の人はまた本に戻ってしまった。
(なんなんだ、この人)
窓の外を、まだ青い朝の町が流れていく。
しばらくして、雪をかぶった富士山が見えた。
窓ガラスに額をつけると、ひんやりと冷たかった。
きれいだと思った。
思ったとたん、あの声が言った。
≪どうせ、どこへ行っても負けるくせに≫
ぼくは目を閉じた。
新幹線の揺れが、少しずつ、ぼくを眠りへ引きこんでいった。
2話 伊賀上野、セカンドスキンの夜
「起きて。乗りかえ」
肩をとんとんと叩かれて、目を覚ました。
名古屋だった。
女の人は、もう荷物を持って通路に立っている。
ぼくはあわててリュックをつかみ、あとを追った。
名古屋から在来線に乗り、亀山でもう一度乗りかえる。
二両しかない電車が、山のあいだをことことと走っていく。
ずっと黙っているのも気まずくて、ぼくは思いきって聞いた。
「あの、お名前は」
「神崎美咲」
「ばあちゃんの、知り合いですか」
「弟子。古武術の」
美咲さんは、窓の外の山を見たまま答えた。
「それと、服部家の遠い親戚。あなたから見たら……何親等だろう。数えたことない」
「古武術の先生なんですか」
「本業は大学でAIの研究をしてる。ロボットの体の動かし方とか」
「AIの研究者が、なんで古武術?」
美咲さんは、そこで初めてぼくのほうを見た。
「どっちも、体の動かし方を考える仕事だから」
意味がよくわからなかった。
でも、美咲さんはそれ以上説明しなかった。
◇ ◇ ◇
伊賀上野の駅に着いたのは、昼すぎだった。
観光のポスターには、手裏剣を構えた忍者の絵。
(こっちは本物の子孫だぞ)
心の中で言ってみたけれど、自分でもまったく説得力がなかった。
コンビニ一軒ない小さな駅から、最初に向かったのは、町はずれの古い禅寺だった。
本堂の板の間に座らされる。
和尚さんが、うすい座布団を二枚、ぼくの前に置いた。
「初めての者は、これを使いなさい」
一枚は、そのまま床にしく。もう一枚は、二つに折って、お尻の下にあてる。
お尻が少し高くなると、膝が床に近づいて、背すじが自然にのびる。坐禅に慣れていない人のための、座り方なのだという。
古い木と線香のまじったにおいが、本堂の奥までしみこんでいる。座布団があっても、板の冷たさが、ズボンごしに足へじわじわと上がってきた。
坐禅だ。
和尚さんは、ぼくにひとことだけ言った。
「何もせず、ただ座りなさい」
ただ座る。
それなら、ぼくにもできる。
そう思ったのは、最初の5分だけだった。
足がしびれる。
座布団の上なのに、足の先から、じんじんと感覚がなくなっていく。
背中がかゆい。
頭の中には、いろんなことが浮かんでくる。
冬期講習。願書。引退試合。
≪何のために高校へ行く?≫
≪答えられなかったくせに≫
≪こんなところで座ってる場合か≫
頭の奥の低い声が、次から次へと押し寄せる。
ただ座るのが、こんなに難しいなんて知らなかった。
隣を見ると、美咲さんは目を半分閉じて、まるで置物みたいに動かない。
息をしているのかどうかも、わからないくらいだった。
◇ ◇ ◇
夕方、山の中腹にある墓地へ行った。
服部家の墓は、いちばん奥にあった。
杉の落ち葉が、足もとでかさかさと鳴った。
苔むした古い墓石がいくつも並び、刻まれた文字はほとんど削れて読めない。
線香に火をつけ、手を合わせる。
何を祈ればいいのか、わからなかった。
(えーと……受験、なんとかなりますように)
ご先祖さまに頼むことじゃない気がした。
目を開けると、美咲さんが墓石をじっと見つめていた。
夕日が、その横顔を赤く染めている。
「あなたのおばあさんもね」
美咲さんは、ぽつりと言った。
「15歳の冬に、ここに来たの」
「ばあちゃんも、元服の旅を?」
「女の子だから、元服とは言わないけど。……まあ、似たようなもの」
美咲さんは、それきり何も言わなかった。
カラスが一羽、杉の木から飛び立った。
◇ ◇ ◇
その夜は、駅の近くの古いホテルに泊まった。
窓の外を、遠くの電車がことことと通りすぎていく音がした。
美咲さんとは別の部屋だ。
ドアを開けると、ベッドの横に見覚えのあるスーツケースが置いてあった。
ばあちゃんのだ。
ふたの上に、白い封筒が貼りつけてある。
中には、毛筆で書かれた短い手紙が一枚。
『蓮へ
けふは、人生の最初の日。
ねむるときは、これを着なさい。
千代』
「……けふ?」
ぼくは首をかしげた。
けふ。ケフ。
ばあちゃん、誤字かな。
それとも、ばあちゃん流の暗号だろうか。
スマホのAIに聞こうとして、やめた。
なんだか、疲れていた。
画面には、母さんからのメッセージが一件だけ届いていた。
『着いた? おにぎり、食べた? 体に気をつけてね』
ぼくは『着いた。食べた』とだけ返した。
父さんからは、何もない。
わかっていたのに、画面を閉じるとき、少しだけ指が重かった。
リュックの底から、くしゃくしゃになったアルミホイルが出てきた。
亀山駅のベンチで食べた、おにぎりの包みだ。
ぼくはそれを、きれいにたたんで、リュックのポケットにしまった。
なぜそうしたのかは、自分でもよくわからなかった。
スーツケースを開けると、黒い布がきれいにたたんで入っていた。
広げてみる。
首から足首までつながった、オールインワンの服だ。
薄くて、よく伸びる。
縫い目が、どこにも見当たらない。
(パジャマ、これ?)
部屋を探したけれど、ホテルの浴衣もパジャマも置いていない。
まるで、最初から取り上げられていたみたいに。
しかたなく、言われたとおりに着てみた。
足を通し、腕を通し、胸元を閉じる。
その瞬間、布がすうっと体に吸いついた。
冷たくない。
むしろ、ほんのり温かい。
まるで、もう一枚の皮膚を手に入れたみたいだった。
◇ ◇ ◇
ベッドに横になる。
天井の小さなしみを見つめた。
何のために、高校へ行く?
わからない。
何がしたいのか、わからない。
何が好きなのかも、よくわからない。
画面の中の相手なら、何手先でも読めるのに。
自分の未来は、一手先も読めない。
≪だから、おまえはだめなんだ≫
低い声が、いつものように響く。
そのときだった。
いつもの低い声とは違う声が、聞こえた気がした。
……きみは、何を選びたい?
小さな声だった。
遠くで鳴る鈴みたいに、やわらかい声。
(え?)
ぼくは体を起こしかけた。
その瞬間――
ふわり、と体が浮いた。
ベッドが、なくなった。
上も下も、わからない。
胃のあたりが、ひっくり返る。
人生で初めての、めまいだった。
黒い服が、ぼんやりと青く光っている。
(なんだ、これ――)
叫ぼうとした声は、音にならなかった。
光が、ぼくを飲みこんだ。
◇ ◇ ◇
どれくらい時間がたったのだろう。
背中に、固い感触があった。
かすかに、石と土のにおいがする。
ぼくは、ゆっくりと目を開けた。
天井に、見たこともない太い木の梁が走っていた。




