第二話 屋号は、推しへのコール
研究棟の自動ドアを出たところで、俺は足を止めた。
植え込みの縁に、男が一人腰かけていた。黒いキャップに白いマスク、度の入っていない眼鏡、どこにでも売っていそうな灰色のスプリングコート。
変装としては、たぶん百点に近い。
顔はほとんど見えない。
だが座り方が違った。
植え込みの縁のような低いところに座っても、背骨が一本の棒のようにまっすぐ立っている。通り過ぎる学生の何人かが、理由も分からないまま振り返っていた。
男が立ち上がり、マスクを顎まで下げた。
「零さん。昨日はありがとうございました」
「……なんでここが分かったんですか」
「戸川さんに、監修のお礼状を送りたいから大学を教えてほしいって頼みました。研究棟は、門のところで学生さんに三人訊きました」
「嘘ですよね」
「半分は」
恭志郎はマスクを戻し、目だけで笑った。昨日の稽古場の笑顔とは、少しだけ形が違った。目のほうが先に動いていた。
「朔夜のこと、もっと聞きたくて。今日の午後、僕、何もないんです。珍しく」
「俺はあります。仕事です」
「どこで?」
答える義理はなかった。けれど黙って歩き出せば、この男はたぶん後ろからついてくる。研究棟の前で梨園のプリンスに追いかけられる大学院生、という図は、研究室の誰かに見られたら半年は言われ続ける。
「歌舞伎座です。三階席」
恭志郎の目が、マスクの上で丸くなった。
*
地下鉄の車内で、恭志郎はドアの脇に立ち、吊り革ではなく手すりの縦の棒を軽く握っていた。揺れても上体がほとんど動かない。俺は向かいのドアにもたれて、トートバッグを足のあいだに挟んだ。
「朔夜って、なんであそこまで家のために戦うんですか」
恭志郎が、車輪の音に紛れるくらいの声で訊いた。
「原作を三回読んだなら、分かるでしょう」
「三回読んで、分からなかったから訊いてるんです」
俺は少し考えた。
「朔夜の家は、剣術の宗家です。朔夜は生まれたときから、その家の剣になるように育てられてる。好きな食べ物を訊かれる場面が、十二巻の中で一回だけあるんですけど、朔夜は答えられないんです。家で出されたものしか食べたことがないから、比べようがない。第四巻の、たった三コマです。あそこを読み飛ばすと、朔夜はただの強い悪役に見える」
言いながら、また声が速くなった。
「朔夜にとって、家のために戦うのは選んだことじゃないんです。それ以外の形を知らないだけで。だから主人公に負けたとき、朔夜は家じゃなくて、自分が負けたことに初めて気づく。あの見開きは、そういう場面です」
恭志郎は何も言わなかった。電車が駅に滑り込み、ドアが開き、人が乗り降りして、またドアが閉まるまで、手すりを握ったまま窓の外の暗いトンネルを見ていた。マスクの上の目は、ガラスに映った自分の顔を見ているようにも見えた。
*
喜多村源蔵さんは、いつもの席にいた。
三階席の最後列、通路側から二つ目。七十八歳。くたびれた茶色の鳥打帽を膝に置き、着古したツイードのジャケットの胸ポケットから、豆絞りの手拭いの端をのぞかせている。五十年、この劇場の三階から役者に声を掛けてきた人だ。俺の修士論文は、この人の聞き書きでできている。
「おう、来たね。……なんだい、今日はお連れさんかい」
「すみません。勝手についてきた知り合いです」
恭志郎は窓口で当日券を買い、俺の隣に座っていた。鳥打帽の下から、喜多村さんの目が恭志郎を上から下まで眺めた。
「お前さん、どっかで見た顔だね」
「よく言われます」
恭志郎はマスクの下で、愛想よく答えた。喜多村さんはそれ以上何も言わず、鳥打帽を膝の上で一度回してから、俺のほうに顔を向けた。
「論文とやらは進んでるかい」
「書いては消してます」
「消せるうちが花だよ。声は消せねえからな」
二列前の席では、藤色の袷を着た年配の女性が、帯揚げの端を指先で整えていた。帯には、もう散ってしまった桜の枝ではなく、これから咲く藤の花が描かれている。季節を半歩だけ先取りするのが着物の決まりなのだと、前にこの席で喜多村さんに教わった。花の盛りを着るのは野暮で、盛りの手前を着るのが粋なのだという。散ったものを惜しまずに、来るものを待つ柄を選ぶ。その女性の背中は、舞台の幕が開く前から、もう何かを待っている背中だった。
開演のアナウンスが流れ、場内の灯りが落ちた。
三階席から見下ろす舞台は、遠い。役者の顔の細かな表情は、ほとんど見えない。見えるのは形と、色と、動きだけだ。その代わり、ここには一階席にないものがある。
舞台では時代物の一幕が進んでいた。主役の役者が花道から本舞台へ歩みを進め、ツケの音が板を打つ。その音が速くなるにつれて、喜多村さんが背筋を伸ばし、深く息を吸うのが、隣の空気の動きで分かった。
役者が首を回し、目を剥き、形を決める。その一瞬手前だった。
「朝霧屋っ!」
喜多村さんの声が、三階から一階まで響いた。
大きな声ではない。短く、腹の底から押し出した、乾いた声だ。それなのに、場内の空気がその一声で一段締まる。見得が決まり、拍手が起こる。拍手の波は、声が開けた穴に流れ込むように、一階の前方から広がっていった。
俺は膝の上の手帳に書き込んだ。ツケの最後の一打の直前、半拍。声の長さ、一拍未満。語尾は上げずに切る。
少し遅れて、一階のどこかからまた別の声が「朝霧屋!」と上がった。見得が決まり、拍手が始まったあとだった。声は拍手に呑まれて、誰の耳にも届かないまま消えた。喜多村さんが、鳥打帽の陰で舌を鳴らした。
「あれじゃあ、役者の背中を叩いてるだけだ。間に合わねえ声は、声じゃねえ」
独り言のような低さだった。
俺はその言葉も手帳に書き留めた。
書きながら、隣からの視線に気づいた。
恭志郎は舞台を見ていなかった。俺の手帳を見ていた。正確には、手帳の上を動くペン先を見ていた。マスクで隠れた顔の中で、目だけが動かずにそこにあった。
俺はペンを止め、手帳の向きを少しだけ自分のほうへ傾けた。恭志郎の視線は、そのまま俺の手許を追ってきた。
*
終演後の晴海通りは、日の傾いた光で白っぽかった。
喜多村さんは劇場の前で「じゃあな」と鳥打帽をかぶり直し、杖をついて地下鉄の階段のほうへ消えた。恭志郎はその背中を見送ってから、俺の横に並んで歩き出した。
「あの人、毎日来てるんですか」
「そうです。年金の半分は劇場に消えてるって言ってました」
「子どもの頃、あの声が怖かったんですよ」
恭志郎は前を見たまま言った。
「舞台に出ると、上から屋号が降ってくるでしょう。汀屋って。あれを聞くと、自分が呼ばれてるんじゃなくて、家が呼ばれてる気がして。僕はその家の、着物みたいなものなんだなって」
信号が赤に変わった。俺たちは横断歩道の手前で止まった。
「屋号を叫ぶのって、推しの名前をコールするのと同じなんですよ」
恭志郎がこちらを向いた。
「人が人を信仰する形です。ライブだと、どこで誰の名前を叫ぶか書いたコール表が、ファンのあいだで出回るんです。叫ぶ場所を間違えると、周りから冷たい目で見られる。大向うも同じです。掛けていい間と、掛けちゃいけない間がある。決まりを守るのは、相手を大事にしてるからです」
「……家を呼んでるんじゃなくて?」
「家の名前を借りて、目の前の役者を呼んでるんです。俺の推しは紙の上にしかいないから、名前を叫んでも届きませんけど。そっちは、届くじゃないですか」
信号が青に変わった。周りの人たちが歩き出しても、恭志郎は動かなかった。俺だけが二歩進んで、振り返る羽目になった。
恭志郎は横断歩道の手前に立ったまま、マスクの上の目で俺を見ていた。何かを言いかけて、やめた。代わりに手を差し出した。
「その台本、ちょっと貸してもらえますか。あと、ペンも」
トートバッグから第三稿を出して渡すと、恭志郎はページをめくり、朔夜の最初の台詞があるページを開いた。余白に、俺のペンで十一桁の数字を書き込む。歌舞伎役者の手らしく、数字の一つ一つの払いまで形が整っていた。
「事務所の番号じゃなくて、僕の番号です。汀屋の電話でもないです」
台本とペンが返ってきた。信号はまた赤に変わっていた。恭志郎は軽く頭を下げると、晴海通りを銀座の方向へ歩き去った。灰色のコートの背中は、人混みにすぐに紛れた。紛れたはずなのに、背骨のまっすぐな線だけが、しばらく目で追えた。
*
午前二時、こたつの天板の上でスマホが震えた。
俺はローカライズの仕事の最中だった。海外向けのソーシャルゲームの、季節イベントの台詞が三百行。ゲームの中の少女が「桜餅」と言うたびに、英語で何と言わせるか決めなければならない。
画面には、登録していない番号からのメッセージが表示されていた。台本の余白に書かれた十一桁と、同じ数字だった。
『朔夜の解釈、もっと教えてほしい。俺には、好きなものの話をしてくれる人がいない』
俺はその短い文を、三回読んだ。
そして気づいた。
昼間のあの男は、一度も自分のことを俺とは言わなかった。




