第一話 零点から始まる出逢い
通用口の警備員は、俺の顔を見るなり名簿を指で叩いた。
「お嬢さん、見学の人はここに名前ね。稽古場は四階だから」
「監修の仕事で呼ばれた野際です。あと俺、男です」
警備員の指が名簿の上で止まった。電話口で間違えられたことは一度もない声だ。顔だけで判断した相手は、たいていこの声を聞いて目を泳がせる。警備員も例外ではなく、「失礼」と短く言って、来客用の入館証を差し出した。首から下げる紐は、誰が使っても同じ灰色だった。
訂正するのは面倒だが、しないともっと面倒になる。二十三年生きて身についたのは、その損得の線引きだ。
エレベーターの扉に、自分の姿が映っていた。黒いパーカーの下に、古着屋の段ボール箱から三百円で掘り出したバンドT。解散して十年経つバンドのツアーの日付が、胸のあたりでひび割れている。後ろで一つに結んだ髪は、切りに行く時間を惜しんでいるうちに肩甲骨まで伸びた。眼鏡を外して髪をほどけば、警備員の判断にも理屈はつくのかもしれない。でも理屈がつくことと、正しいことは別だ。
肩にかけたトートバッグが重かった。中には原作漫画の全十二巻と、公式設定資料集の日本語版と英語版が入っている。英語版のほうは、去年俺が訳した。正確に言えば、ローカライズ会社の下請けのさらに下請けとして、三百十二ページのうち二百ページ分の訳文を作った。ちなみに奥付に俺の名前はない。
そんな俺がなぜ今日ここにいるのか。
新作歌舞伎『廻天ノイグナイト』の制作陣が、現場で動きを見ながら台本を直すための監修協力を探していた。
原作者の先生は新連載の佳境でカンヅメ状態の上、「現場には口を出さない主義だが、キャラの芯だけは曲げないでほしい」と編集部に監修を丸投げしたらしい。
そして現場の大胆な脚色と原作設定のバランスに頭を抱えた担当編集者が、「資料集の翻訳時、日本版の誤植や設定の矛盾を四十箇所も指摘して直してくれた、いちばん原作を記憶している人間」として、俺を監修者として原作者にお伺いを立てたところ、「その人が見てくれるなら任せる」と鶴の一声が出たのだという。マジかよ。
大学院の研究室で依頼のメールを読んだとき、俺は三回読み返して、四回目に件名の「歌舞伎」の文字を思わず指でなぞってしまった。
四階の扉を開けると、まず板の匂いがした。
稽古場は体育館を半分に切ったくらいの広さで、床には色の違うテープが何本も貼ってある。本番の舞台の寸法を写したものだと、出迎えてくれた制作の戸川さんが早口で教えてくれた。
紺のパンツスーツに、踵のない黒い靴。歩くたびに、首から下げた二台のスマホと胸ポケットの一台がぶつかって鳴る。この人はたぶん、この床を一日に何十往復もするのだろう。ヒールを選ばない理由が、靴の爪先の擦り減り方に出ていた。
「初日は八月なので、今日はまだワークショップです。五月の頭まで何回かに分けて、動きを見ながら台本を直していく段階で」
「はい」
「先生のご意見も、ぜひ。率直に」
先生と呼ばれる筋合いはないが、訂正するほどのことでもない。俺は壁際のパイプ椅子に座り、配られた第三稿の台本を膝に置いた。
稽古場の中央では、浴衣姿の男たちが立ち回りの段取りを確かめていた。素足ではなく白い足袋で、何人もの足がそろって床を擦ると、波が引いていくような音になる。その中心に、一人だけ浴衣の柄の違う男がいた。
汀恭志郎。
顔は知っていた。というか、知らないでいるほうが難しい。
駅の柱の広告で、コンビニの雑誌の棚で、スマホのニュースの通知で、この男はいつも同じ角度で笑っている。歌舞伎の名門の次男で、俳優で、モデルで、梨園のプリンス。そういう肩書きの束が、今は実体となって、紺地に白い千鳥の浴衣を着て、角帯をきつく締め、片足を引いて立っていた。
戸川さんが俺の椅子の横にしゃがみ込み、台本で口許を隠して囁いた。
「汀さん、昨日も夜中の二時までCMの撮影だったんですよ。なのに今朝、誰より早く来て床のテープを貼り直してて」
俺はもう一度、稽古場の中央を見た。恭志郎は若い役者の肩を叩いて何か言い、相手が笑うと、自分も声を立てて笑った。寝不足の気配はどこにもない。目の下にも、声にも、肩の位置にも。どこにもないことのほうが、俺には引っかかった。人間の体は、二時まで働いた翌朝にそこまで何も残さないようにはできていない。
あの男が演じるのは、朔夜だ。
原作の朔夜は、主人公の宿敵として登場する。家に縛られ、家のために剣を振るい、最終盤で主人公に敗れる。それでも最後まで膝をつかない。俺の最推しで、十二巻を通して一度も報われない男だ。
演出家が手を叩くと、立ち回りが始まった。
巧かった。
それは認める。
恭志郎が刀に見立てた木の棒を返すたびに、浴衣の袖が半拍遅れてついてくる。袖の遅れまで計算に入れて動いている体だった。周りの若い役者たちが一人ずつ斬られて床に転がり、最後に主人公役の男と向き合う。二合、三合。打ち合うたびに、恭志郎の足袋の裏が床のテープの上を正確に踏んでいく。四合目で、恭志郎の棒が弾かれた。棒は床を転がり、壁際の誰かの足元で止まった。
そこで恭志郎は、ゆっくりと主人公に背を向けた。
肩が落ち、首がわずかに傾ぐ。負けた男の背中としては、文句のつけようのない形だった。稽古場の隅で見ていた若い女性スタッフが、息を呑む音がした。
俺は台本を閉じた。
演出家の先生――梶さんと言うらしい――がこちらを振り返ったのは、段取りがもう一巡してからだった。白髪を短く刈った、声の大きな人だ。
「どうでしょう、原作の先生から見て」
稽古場の空気が、俺のほうへ少しだけ傾いた。求められている答えは分かっている。素晴らしかったです、朔夜がそこにいました。そう言えば戸川さんは胸をなで下ろし、梶さんは次の段取りに移り、俺は交通費を受け取って帰れる。
だが――。
「朔夜はそこで背を向けません」
梶さんの眉がぴくりと動いた。
「解釈違いです。0点」
足袋の擦れる音が止まった。誰かの手から台本が落ちて、紙の束が床で開く音がやけに大きく響いた。戸川さんが三台のスマホを胸の前でまとめて握りしめているのが、視界の端に見えた。
沈黙を破ったのは、恭志郎だった。
「勉強になります!」
満面の笑みで、きれいに頭を下げる。腰から折る角度まで決まっているような礼だった。顔を上げると、恭志郎は軽い足取りで俺の前まで来て、膝を折り、パイプ椅子の俺と目の高さを合わせた。近くで見ると、額の生え際に汗の粒が並んでいた。
「ちなみにどこで、背を向けないって分かるんですか。僕、原作は三回読んだんですけど」
三回読んでこれか。
俺は眼鏡を押し上げた。
「第十一巻の第五十八話、見開きの右ページです。主人公に敗れたあと、朔夜は一度も相手から目を逸らしません。コマの中の朔夜は、最後まで正面か横顔で描かれています。後頭部が描かれるのは、主人公が先に立ち去ったあとの一コマだけです」
恭志郎の笑顔は動かなかった。
「台詞もあります。『俺は誰にも背中を見せない。見せたら、それで終わりだ』。英語版では I don't show my back to anyone と訳されていて、後半は That's when it ends です。ここで朔夜が背を向けたら、その台詞も、そこまでの十一巻も、全部嘘になります」
喋りながら、自分の声が速くなっていくのが分かった。好きなものの話になると、いつもこうなる。だが止める気はなかった。
「背を向けて肩を落とすのは、負けを受け入れた人間の動きです。朔夜は最後まで負けを受け入れない。だから読者は朔夜を憎めないし、許すこともできない。さっきの立ち回りだと、朔夜はただの、いい負け方をした男になります。それは朔夜じゃないです」
言い終えて、口を閉じた。
稽古場の誰も、何も言わなかった。窓の外を、救急車のサイレンが近づいてきて、遠ざかっていった。梶さんが咳払いをして、腕時計に目を落とした。
「……まあ、参考にしましょう。十五分休憩」
役者たちが散っていく。戸川さんがこちらに駆け寄りかけて、梶さんに呼ばれて方向を変えた。俺はパイプ椅子から立ち上がり、トートバッグを肩にかけた。原作十二巻の重みが、鎖骨に食い込んだ。
恭志郎はまだ、俺の前に膝をついたままだった。
「ありがとうございます。すごく、参考になりました」
また笑う。さっきと寸分違わない笑顔だった。
主人公役の若い役者が、俺たちの横を通り過ぎざまに、聞こえる大きさで舌打ちをした。原作者でもない素人に、主演の段取りを潰されたのだ。気持ちは分かる。恭志郎は膝をついたまま、その背中に明るく声をかけた。
「藤巻くん、ごめん、休憩明けに四合目からもう一回合わせてくれる? 僕の返しが遅かったから、藤巻くんの見せ場が死んでたよね」
藤巻と呼ばれた役者は足を止め、振り返り、少し迷ってから「……はい」と頷いた。舌打ちの棘が、その一言で抜けていた。相手の顔を潰さず、自分の非にすり替えて、場を元に戻す。三秒もかからなかった。俺には一生かかってもできない芸当だった。
*
廊下の突き当たりに、自動販売機が二台並んでいた。
四月の初めの稽古場は、窓を閉め切っていても足許が冷える。温かいお茶のボタンに指を伸ばしかけて、俺は手を止めた。
自動販売機と窓のあいだの細い隙間に、恭志郎がいた。
壁に背を預けて、床に座り込んでいる。浴衣の裾から出た足袋の裏が、床の埃で灰色になっていた。手にはスマホがあったが、画面は暗いままだった。さっき稽古場で見た顔とは、輪郭からして違っていた。頬の線が落ち、目の下に薄い影がある。口は少しだけ開いていて、呼吸をするたびに肩が上下していた。何時間も同じ形を保っていた顔の筋肉が、ようやく解放されて、どこへ戻ればいいのか分からずにいるような顔だった。
恭志郎がこちらに気づいた。
次の瞬間、顔が組み上がった。口角が先に上がり、頬が持ち上がり、最後に目が細くなる。順番まで決まっている。目尻の皺だけが、ほんのわずか遅れてついてきた。
「あ、先生。さっきはありがとうございました」
立ち上がって、浴衣の膝を払う。その手つきまで、稽古場で見たものと同じ速さだった。
「野際さん、でしたよね。受付の名簿で見ました。下のお名前、なんて読むんですか」
「レイです。ゼロの零。あと俺は先生じゃないです」
「零さん。きれいな名前ですね」
名前を褒めるのは、初対面の相手との距離を最短で詰めるやり方だ。営業の本の三章あたりに書いてありそうなことを、この男は呼吸のようにやる。あと俺の先生じゃない発言は完全に無視された。
「お茶ですか? 僕、おごりますよ。さっきのお礼に」
恭志郎が浴衣の袂から小銭入れを出そうとするのを、俺は手で止めた。自分で百円玉を二枚入れて、温かいお茶のボタンを押す。ペットボトルが落ちてくる音が、廊下に響いた。
屈んで取り出し口からボトルを拾い、掌で温度を確かめてから、体を起こした。ラベルに刷られた季節限定の桜の柄が、指の腹にざらついた。
「あと、今さっきの笑顔も0点です」
恭志郎の笑顔が止まった。
崩れたのではない。
動画を一時停止したように、その形のまま固まった。
「疲れてる顔のほうが、まだ人間っぽい」
俺はそれだけ言って、稽古場とは反対の方向へ歩き出した。エレベーターホールは右の角の先だ。休憩のあとの段取りを見る役目は、たぶんもう俺にはない。交通費の精算のことは、戸川さんにあとでメールを送ればいい。
背中のほうで、何かが床に落ちる音がした。スマホかもしれない。拾う気配はなかった。
「……もっと言って……ほしい……」
低い声だった。テレビで聞いたことのあるどの声とも違った。
俺は振り返らなかった。
朔夜なら、絶対ここで振り返らない。




