エピローグ
こつん、と。
セシリアは窓に頭を寄りかからせるようにして、外を見る。雨がさぁさぁと降っていて、なんだか心のもやもやを増長させられているようだ。
窓から見えるのは、雨だというのに朝の鍛錬をしているオリヴェルの姿だ。
彼は雨でも、雪でも、嵐でも鍛錬を怠ろうとはしない。一日の始めは体を動かしたいんだと以前言っていたことを思い出す。
「……すごい筋肉」
タンクトップ姿の上半身は、鍛え抜かれた男の体だ。
セシリアは自分の腕に力を入れて――ふにっとした感触を感じる。手で揉んでみるが、力を入れても入れなくてもまったく同じ触り心地だ。
――筋肉、ない?
ふにふにと自分の腕を触って、セシリアはため息をつく。
どうあがいても、オリヴェルのような肉体を手に入れることはできないだろう。
「……はっ!」
――どうして勇者を見ていたのでしょう。
いつかセシリアを殺す人間だから、無意識に観察をしてしまったのだろうか。
「…………」
それでも、なぜかオリヴェルがセシリアの視界に入るのだ。
勇者という男の存在が、自分の中で日に日に大きくなっているのを感じている。
間違いなく、オリヴェルが毎日セシリアに可愛いとか、好きだよとか、甘い言葉を告げながら撫でたりするのが原因ではあるのだが、セシリアはそのことに気付いてはいない。
自分のことには無頓着なため、変化というものをあまり感じないのだ。
魔王城にいたころは、ゴブリンなどお世話をしてくれる配下の魔物がいたため、ここまでは酷くなかった。
ぽけぽけしたセシリアを心配している魔物たちは、それはもう彼女を大切にしていたのだ。何かあれば逐一報告をしたし、気を使った。
……けれどここには、その配下もゴブリンしかいない。
恋愛方面で鈍いゴブリンは、セシリアとオリヴェルがすでに両想いであると思っているために、見守り体勢に入っている。
魔王城で侍女をしていたセイレーンがそれを見たら、雷のようなお叱りをゴブリンに飛ばしたことだろう。
「……ふぁあ」
まだ朝が早いために、セシリアの口からは欠伸がもれる。
目元をこすって、もう少し寝ようかなという考えが頭をよぎる。もしくは、ソファに座ってゆったりとするのもいいかもしれない。
さて、どうしようか。そう悩んでいれば――ふいに、鍛錬をしているオリヴェルと目が合った。
「…………!」
よく自分に気付いたものだと思い、セシリアはぱちぱちと瞬きをする。
ダークレッドの髪を雨が濡らして、その雫は頬を伝う。雨が降っているのに、綺麗な青の瞳はしっかりとセシリアを捉えて離そうとはしない。
――どうして、あんなにも私を見るのか。
「……………………オリヴェル」
雨の音よりも小さな声で、セシリアは勇者の名前を呟いてみる。
いつも勇者と呼んでいたから、オリヴェルの名前を口に出すのは初めてだ。
「……?」
庭にいるオリヴェルが、大きく目を見開いた。
セシリアがいるのは二階の自室で、オリヴェルとはとても距離が離れている。そのため、セシリアが名前を呼んだということに気付いてはいないはずだ――と、セシリアは思っている。
しかし、あれはオリヴェルなのだ。
こんな絶好の機会を逃すような男ではないということを、セシリア以外は全員が知っているだろう。
鍛錬のためにもっていた木刀を近くの木へ立てかけて、オリヴェルは満面の笑みをセシリアに向ける。そしてそのまますぐ屋敷へと入っていった。
ぞくりとしたものが、セシリアの背中を駆け抜けていく。
「……え?」
何か嫌な予感がして仕方がないとセシリアは焦る。しかし、どうしたらいいのかがわからない。
オリヴェルは鍛錬を終わらせていつものようにシャワーを浴びにいったんだと思いたいのだが、今はまったくそうだと思えない。
嫌な予感は当たるもので、誰かが階段を上がってくる気配を感じた。
ゴブリンは市場へ朝の食材を買いにいっているため、不在だ。だから、気配の主は一人しかいない。
いや、そもそもセシリアは気配でその人物が誰なのかがわかる。認めたくないけれど、今の気配は間違いなく――。
部屋の扉が開き、先ほどまで庭で鍛錬していたオリヴェルが姿を見せた。
「セシリア」
「……な、なんですか」
「もう一度、俺のこと呼んでみて」
「…………勇者」
――聞こえてた?
あんなに距離が離れていたうえに、口だってほんのわずかにしか動いていなかったというのに。もはや人間ではないのではと、セシリアは思う。
俯きながら、「何のことですか」と言ってみるけれど、オリヴェルは誤摩化されるようなことはしない。
「嘘。俺の名前、呼んでくれたでしょう?」
「……………………呼んでません」
「頑なだなあ」
苦笑して、オリヴェルはセシリアに近づく。
雨に濡れた髪から、ぽたりと雫が垂れて床を濡らす。
窓に背を向けているセシリアの左右に両手をついて、逃げられないように閉じ込める。
覆い被さるようなオリヴェルの姿勢は、セシリアのことも伝う雫で濡らしていく。頬にたれた雫が冷たくて、セシリアが体をすくませる。
その様子がまた可愛くて、オリヴェルは濡れた手で顎をすくいあげるようにして頬を撫でた。
「可愛い」
「…………」
いつものように、オリヴェルはセシリアを可愛いという。
いったい一日の間に何回自分のことを可愛いと告げるのだろうかと、セシリアは思う。数えきれないその可愛いという声を聞くと、まるで洗脳されいるのではとすら……思ってしまう。
――何十回、私を可愛いと言えば収まるの?
慣れてしまいそうな自分がいて、それも怖い。
一度ゴブリンが数えてみたのだが、可愛いという単語が三百を超えたところで諦めてしまったので実際に言われた回数は定かではない。
「本当、可愛い……」
「……しつこい、です」
「だって、可愛いんだから仕方ない」
「…………」
いったい何が仕方ないのかはわからないけれど、言っても言っても言い足りないのだとオリヴェルは言う。
青い瞳が、セシリアを見つめる。
「ねぇ、セシリー。俺の可愛い人――キスしても、いい?」
「…………っ、セシリア、です」
これにて完結&本日書籍の発売日です!
無事にこの日を迎えることができてほっとしております~!
感想、ブックマーク、評価などをいただきありがとうございました。
やっぱり何か反応をいただけるのが、一番モチベーションアップになりますね。ほら、私単純なちょろ人間だからさ…。
小説はこれにて完結なのですが、コミックは続いております。(原作という形でやらせていただいております!)
気になった方はぜひコミックをお手に取っていただければと思います。2023年3月現在、コミック4巻まで発売中です。





