後編
目を覚まして、まず感じたのは頭痛。
「うう…頭痛い…」
のろのろと身体を起こそうとしたイオリアは、頭重感と痛みと軽い眩暈に苛まれ、弱々しくベッドに突っ伏した。
そこはかとなく、気持ちまで悪い。
「これは誤算だったな。君がそんなに酒に弱いとは思わなかった」
苦笑まじりのその声に驚いて、勢いよく顔を上げる。
途端、世界が回って、上下左右もわからなくなる。殴られたような強烈な痛みに、目を開けていられず、情けない呻き声を漏らしながら、またもやベッドへと懐いた。
「そんな風に急に動くな。余計に辛くなる」
笑みを含んだそのテノールは、間違いなく婚約者のものだ。
あまり考えの纏まらない頭で、消えない疑問を投げかける。
「ここ、は…?」
思っていたように声が出ない。それでも、掠れた声は彼の耳に届いたようだった。
「私の屋敷だ。とりあえず、まずは休みなさい。どうやら、しっかりと二日酔いのようだから」
二日酔い?
お酒を飲んだ覚えはない。
だが、自分のやらかした行動くらいは覚えていた。
「か、えります。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないです、から」
恥をかかせた相手に世話を焼いてもらうなんて、情けないにも程がある。
目を閉じたまま、上半身だけでも必死に起こすと、顔をしかめて目を開いた。
差し込む光が痛い。
頭の上では、ぐわん、ぐわんと大きなシンバルが打ち鳴らされているみたいだ。
船の上にいるみたいに不安定に揺れる世界。
いや、どうやら揺れているのは自分らしい。
知らず倒れ込みそうになった身体を支えたのは逞しい腕だった。
「その状態でどうやって帰ると言うんだ。いいから、これを飲みなさい。少し楽になる」
そのまま薬と水を渡されて、不承不承ながらも身体の辛さには勝てずにその薬を飲み込む。喉の渇きに残りの水も全て飲み干して。
ほっと息つく。
それから、肩を支えるその手を引き剥がそうと、手を添える。
顔を上げるとまだ目が回るから、視線はまぶたの下に隠したまま、イオリアは感謝を口にした。
「ありがとうございます。…けれども。もう、私の世話でしたらしなくても結構ですよ?仮初の婚約にいつまでも縛られている必要もないでしょう」
その声はひどく穏やかに、室内に響いた。
それにほっとする。
イオリアは、自分の言葉が嫌味に聞こえないように願いながら、慎重に言葉を続けた。
「私に婚約を申し込んだのは、…ご友人たちとの賭けに負けたからなのでしょう?」
それはもう、質問というよりは、確認でしかないけれど。
「…知っていたのか」
彼は否定することなく、その声には後ろめたさも、後悔もないようだった。
淡々と事実を肯定するだけ。それが少しだけ悲しい。
でも、それも今更かと、諦観の思いで口元だけで緩く笑った。
「その御友人の一人から聞きました。クレイシオ様と言いましたか。彼は、恩になんて思わず、別れてしまえばいいと」
その言葉に初めて、彼に感情が滲んだ。それは明らかないらだちで、舌打ちまで聞こえてくる。
「その言葉につられてあんなことを?」
「あんなこと?」
「夜会での修羅場さ。婚約者にワインをかけるなんて、嫉妬に狂った女としか思われないよ」
「…ですが、これで、婚約解消しやすくなったでしょう?」
「解消、したいのか」
一音、男の声のトーンが下がった。
頭痛と吐き気と、目眩と失恋の痛みにイオリアは男の変化に気がつかない。顔をしかめつつ、どこか不思議そうに、彼女は言った。
「解消したいのは、アレクシス様、でしょう?私はもう邪魔でしかないのに」
「何を言っている?」
硬い口調にやはり気がつかず、イオリアは続ける。
「私との婚約を解消しないと、エランジュ家のご令嬢と結婚はできないのでしょう?」
ズキズキと、痛むのは頭と心と。
なぜ、こんなことまで言わせるのだろう。
鼻の奥がつんとする。潤む目は瞑った瞼で誤魔化した。
私のことなんてもう、放っておけばいいのに。
喉の奥が詰まって、苦しい。それでも、震える唇で、声を搾り出した。
「じゃじゃ馬の扱いには疲れましたので。とでも言っておけば、貴方の面子に傷はつかないわ。貴族なのに市井の者と働く変わり者は、夜会でも大変なことを仕出かす娘だったと、そう言えば貴方に同情はすれども、きっと悪くは言われない」
「君を悪者にしてか?」
「私の悪評なら今更です。私は気にしませんから。どうか、幸せになってください。仮令、賭け事で、遊びであったとしても、貴方が我が家を助け、私を幸せにしてくれたのは事実ですから。感謝しているのですよ?本当に」
好きでもない社交界に積極的に参加していたイオリアは自分が変わり者の自覚がある。
縫製や織物を扱うからこそ、自分がその衣装を着てみせることで、その技術の高さを披露し、顧客確保に勤しんでいたのだ。個人的な感情は二の次で、いつの間にか交渉事にも強くなり、作り笑顔は上手くなった。
貴族令嬢でありながら、ギルドで領民と一緒に働くイオリアには、いつだって嘲笑の言葉や蔑視の目が向けられていた。それに耐えられたのは、きっとそんな自分をいつもエスコートし、さりげなく助けてくれた婚約者のおかげだった。
感謝、しているのだ。本当に。
「…君は、幸せだったのか?」
それに返されたのは、どこか驚いたような、戸惑うような声音。目を閉じて、声だけを聞くからか、いつもより彼の感情がわかりやすい気がした。
少しだけおかしくなって、口元が緩む。
「幸せで、したよ?変わってるって言いながら、貴方は私を否定しなかったから。…嬉しかった」
アルコールのせいで、答えはするすると出てくる。持続する痛みに、思考は停止して、ただ、感情のまま、心のまま隠すこともなく言葉は吐き出される。
「嘘をつけ。君は俺への遠慮の塊だろう。なんでも我慢して。俺が誰に微笑んでも、気にしないフリをする。俺の婚約者は君なのに」
「だって、買われた婚約者じゃないですか。いつだって、貴方に選択権はある。捨てるのも、拾うのも、…きっと貴方だ」
「君に、惚れているといったなら?」
「…そんな嘘、いりません」
「手放さないぞ」
「え?」
「…ようやく、嫉妬の一つでもしてくれたのかと思ったのに、糠喜びとは…無様すぎる。こんなにも人の心を振り回しておいて、今更逃げようなんて許さない」
今まで聞いたことのないような荒々しい口調で、彼は吐き捨てる。
大きな手が、イオリアの手首を捉えた。
ぎしりと音がして、身体が揺れる。
ゆっくりと目を開ければ、男が、ベッドに膝を乗せ、身を乗り出していた。
「何を…」
さっき、水分を含んだばかりなはずなのに、口の中がからからに乾いた。
刺すような視線に、身動きが取れない。
「あいつが賭け事のことを暴露した理由はね。君が欲しくなったからだ。作り笑いでない、破顔した君がどれほどに俺の胸を焼いたのか、知らないだろう。侯爵令嬢のことも、誤解もいいところだ。彼女が好きなのは君だ。覚えていないか?一度助けたことがあるだろう?彼女はいつだって君に夢中だ。俺は防波堤として立ちはだかっていただけで、彼女に恋愛感情など欠片もない」
ずっと欲しいのは君だけだったのに。
絞り出すようなその声に、いつもの泰然とした余裕はない。
「婚約破棄なんてさせない。夜会で、あれほど濃厚なラブシーンを演じたんだ。誰も、俺たちの間に割り込もうとはしないし、彼らは派手な痴話喧嘩だとしか思っていないだろうね。…こんなにひどい二日酔いでなかったなら。心も身体も全て今、奪ってやったのに」
そう言って、苛立たしさを隠しもせずに、それでも体調に気を使ってやんわりと腕の中に引き寄せられた。
「もう遠慮なんてしない。早々に結婚の準備をさせる。3ヶ月もあれば式を挙げられるだろう」
「な、な…」
「ん?」
「なんで。突然そんな…」
「婚約では縛り足りないと気づいたからな。婚姻で結んで、俺の子を孕みでもすれば、流石に逃げられないだろう?」
怖いぐらいに凄みのある笑みを浮かべる男から逃れるために、イオリアはその胸に手をついて突っ張った。
「結婚を遅らせようとしても無駄だ。
純白のウエディングドレスを纏うのが先か、身籠るのが先か…。できれば君も大きなお腹でヴァージンロードを歩きたくはないだろう?」
甘く注がれる囁きに、力が抜ける。
秘めたる情熱が情火の焔だなんて、気が付かなければ、良かった。
好きな人に求められて、本気で抵抗できる女の子がいるものか。
どこか、不貞腐れるような思いで彼を見上げれば、アレクシスは無邪気なほど嬉しそうな顔をしている。
「オルヴィスタム家の男は元来、愛する者への執着心が強いんだ。君も諦めて、俺のものになりなさい」
仮初の婚約者だったはずの男に、いつの間にか捕らえられていたらしいイオリアは、がんがんと痛む頭に深いことを考えるのを諦めた。
ぽかぽかとその厚い胸板を叩いて逃げ出すと、ふて寝するようにベッドの中に潜り込む。
シーツを頭まですっぽりと被って、蓑虫のように丸くなった。
男の狡さに理不尽な文句を言いながら…誤魔化しようもなく、顔が緩む。
諦めようと思っていた恋心は、…どうやら諦めなくて良いらしい。
シーツの上から優しい手が、とんとんと背中を叩く。
それが心地よくて、イオリアはいつしか眠りの中へと沈み込んでいった。
****
シーツの中で子供のように丸くなる婚約者に、男はふっと微笑んだ。
可愛いらしい拗ね方が愛おしくて仕方がない。
心臓の音と同じリズムで掛物の上から背中を叩いていると、身を固くしていた少女の身体から力が抜けていく。
どうやら眠ってしまったらしい娘の顔を、そっとシーツを剥いで覗き込む。
起きている時には凛として少しきつめの表情も、そうしていればあどけなく柔らかい。
まだ幼い少女が諦めに丸まった領民の背中を叩き、叱咤激励しながら、一生懸命に前に進む姿をずっと見ていれば、応援もしたくなるだろう。辛い思いをすれば、家の中で泣いたり怒ったり盛大に吐き出して、空元気も元気のうちだと、貴族の女性のような控えめな微笑みではなく、にっと、口角を自分の指で引き上げて不格好でも笑おうとするそんな女の子からどうして目を離せると思うのか。
いつの間に適齢期の女性となった彼女のはにかむ姿、嬉しそうに笑うその明るい笑顔に、落ちずにいられるわけがない。
悪戯な男はかすめ取るように唇を奪い、その柔らかい頬を撫でる。
「頑張り屋さんの君に俺は骨抜きなんだ。気付いていなかったとしても、逃がさないよ。…愛してる」
苦労性のお人よし。
けれど、精一杯に生きる少女を今更手放そうとは思わない。
「さて、まずは、湧いた害虫の駆除が先だな」
そう言うと、彼は名残惜しげに彼女の元を離れ、静かに部屋を出て行った。
その後、彼女に余計なことを吹き込んだ男は言うに及ばず、彼女にちょっかいをかけていた男達が、片っ端から片付けられたのは言うまでもない。
END
クレイシオは横恋慕。
でも、リュージュ嬢は、純粋にイオリアとにお友達になりたいだけの、良い子です。
本当に悪い男は、アレクシスでしょう。