恋敵
花梨とパフェを食べてから二週間ほど後のこと。僕はあまりネットを見ることなく、小説を書いたり、少し作曲をしてみたりして日々を過ごしていた。燐太郎さんの活動は気になったものの、クロシェットのアカウントを見に行けば封印した未練が噴き出してしまう可能性がある。時が経って恋愛感情がもっと風化したら、いつかファンとして彼の音楽を聴こうと思っていた。
桜の時期も終わり、ゴールデンウィークが目の前に見えてくる四月末。少し残業をして、帰りがけに買い物をして。僕が自分のマンションが見える頃には二十一時近くになっていた。ネギが突き出たエコバックを提げながらマンションの玄関へ入ろうとする。
そのときだった。
「――……水城鋭利さん?」
聞き覚えのないような、どこかで聞いたことのあるような声が響く。僕は驚いて振り返った。見れば、道路に停めた車から若い男が降りてくるところだった。
金に近い茶の髪に黒っぽい服装。長身ですらりとして、スタイルがいい。マスクを着けているので目元くらいしか見えないけれど、おそらく整った顔立ちをしているのだろうと察せられる。
どなたですかと尋ねかけて、そこでふと彼の左耳を飾るピアスが目に飛び込んでくる。揺れるシンプルな細い金属の装飾は、よくあるデザインといえばそうだけれど、ついこの間、目にした覚えがあった。
「――もしかして、『リョウスケ』……、……さん……?」
僕の呟きに男はギョッとした顔で足を止めた。きつい目をしてこちらを睨む。
「どうして俺のことを知ってる? 佐々木から何か聞いたのか? ――クロ……燐太郎がお前に連絡したとは思えないが――もしかしてあいつが教えたのか?」
「いいえ」そう応えたものの、僕はそこでリョウスケがこちらに敬語を使っていないことに気づいて、言葉を切り替えた。「……誰からも、あなたのことは聞いてない。ただ、前に動画サイトであなたの姿を見たことがあるだけだ。でも、そのピアスに見覚えがあった」
「ピアス? 別によくあるデザインだと思うけど?」
「でも、僕の周りにそういうピアスをしている人はいないから。……それで、あなたの用件は?」
「聞きたいことがある。ついて来い」
リョウスケは言った。まるで僕が従うと信じている様子で。傲岸不遜な態度だけれど、彼が燐太郎さんの番――つまりアルファなのだとしたら、こうした言動も不思議ではない。アルファは統率力がある性とされているけれど、実際、リーダーになろうとする傾向が強いのだ。同時に周囲の人間もアルファ性の者をリーダーとして扱う傾向がある。それが古い動物としての本能が残っているからなのか、あるいは文化的なものなのかは分からないけれど、アルファはこうした傲岸不遜な態度を許されがちだ。
そのことを理解しているから、同じアルファ性を持つ僕はこのアルファ性を笠に着た振る舞いが大嫌いだ。ほぼ面識のない他人と争うなんて不毛だとは知りつつも、そっぽを向いてしまう。
「どうして僕があなたに命令されなきゃいけない? お断りだよ」
リョウスケを無視して、僕はマンションに入ろうとした。途端、右腕を掴まれる。勢いで食材の入ったエコバックが地面に落ちてしまった。
「何をするんだ。警察を呼ぶぞ」
そう強く言えば、リョウスケも声を低くして応える。
「断るのは自由だが、燐太郎が困ったことになるぞ」
「なっ……。燐太郎さんに何をするつもりだ?」
「とにかく、ついて来い」
リョウスケがぐいぐい腕を引く。僕は慌てて地面に落ちたエコバックを拾い上げ、手を引かれるままに車の方へ向かう。リョウスケは僕を助手席に投げ込むように座らせてから、運転席へ回り込んだ。
車が走り出して、僕のマンションから遠ざかっていく。いったいどこへ連れていかれるのか。不安ではあるけれど、今は弱みを見せたくなくて真正面を見る。途中まで道を覚えていたのだけれど、次第にどういう経路を進んでいるのか分からなくなった。
ただ、途中に出てくる地名の標識を見るに、リョウスケは繁華街の方へ向かっているようだ。やがて、車はあるビルの駐車場へ入っていった。
「俺の部屋……というか、スタジオ代わりに借りてる部屋が五階にあるから」
リョウスケはそう言って、僕を連れてエレベーターに乗った。僕は視線を落としてどこを見たらいいか分からず、自分の提げたエコバックを見つめる。鍋をしようと思って買ったせっかくの長ネギは、落としたときに傷ついてしまったようだ。奮発して買った他の野菜も。あーあ。これから何が起きるのか不安で、それを誤魔化すように僕は傷んだ野菜の使い途を考える。土日は寄せ鍋をして、作り置き用にカレーかシチューでも作ろうか……。
やがて五階に到着すると、リョウスケは僕の腕を掴む。僕はその手を振り払った。「ここまで来て逃げやしない」そう言えば、彼はこちらを一瞥してから歩き出す。その後について、一角にある部屋に入った。
リョウスケのスタジオだという部屋は、普通のマンションの一室のように見えた。家具を入れたらそのまま生活できそうだ。もの珍しさにキョロキョロしたくなるのを我慢して、神妙な表情を作るよう努める。
そのまま奥へ進むと、ソファと作業用らしいテーブルのある広い部屋に出た。どうやらリビングにあたる一室のようだが、作業用の部屋として使われているらしい。フローリングの床には応接用らしいソファと作業用の広めのテーブル、それに窓際にデスクトップPCを置いた机があった。さらに少し奥へ入ったあたりに、キッチンのシンクが垣間見えている。オフィス用なのか、居住用なのか何だかよく分からない間取りだ。
リビングのソファには燐太郎さんが目を閉じて座っている。顔色が青白く、目の下には隈ができていて、体調が悪そうだった。
「燐太郎さん……!」
僕は思わず彼に駆け寄った。床にひざまずいて、彼の顔をのぞき込む。膝に投げ出された手を取って、意識の有無を確認するために小さく揺すった。
「大丈夫ですか? 燐太郎さん、起きて!」
「ん……? ――えーり……くん……?」
燐太郎さんは居眠りしていただけのようで、僕が呼びかけるとすぐに目を開けた。寝起きのぼんやりした視線が僕の上をゆらゆらする。僕はひざまずいて彼を見上げたまま、その青白い頬に触れ、目の下の隈をなぞった。
「顔色が悪いです。体調がよくないんですか?」
「そんなことはない、けど……」
曖昧に答えながら、燐太郎さんは僕が彼の膝の上で重ねたままだった左手の甲を指先でなぞった。無意識の戯れのようなその接触に、なんだか切なくなる。
と、そのときだった。
「離れろ。俺の番だ」
リョウスケが僕の腕をつかんで強引に立たせる。僕は非難の眼差しでリョウスケを一瞥した。番ならこんな青白い顔のパートナーを放っておくな、と言い掛けたところで、リョウスケの顔も同じくらい不健康な色をしていることに気づく。
「リョウスケ、どうして鋭利君を連れてきたんだ? 彼は何も関係ないって言っただろう」
「関係なくはない。燐太郎は俺の番だ。二年前にお前は勝手に去っていったけど、俺は認めたわけじゃない。オメガからは番を解消できないんだから、お前はまだ俺の番だ。番がいるにもかかわらず、他のアルファと寝ようとするのは不倫と同じだ」
不倫の言葉に僕はぎょっとした。燐太郎さんは信頼できる人だと分かっているけれど、遊ばれたのではないかという不安がこみ上げてくる。そんな表情の揺らぎを見て取ったのか、リョウスケが勝ち誇ったような視線をこちらに向けてきた。まるで、僕なんかただの間男だと言いたげに。
「……リョウスケ、俺のことは傷つけてもいい。鋭利君を巻き込まないでくれないか」そう言う燐太郎さんの表情は暗い。
「いや、同じアルファとして、聞かなくちゃならない。水城鋭利、お前は俺の番に手を出した。いったいどういう了見でそんなことをしたんだ」
その問いに僕は唇を噛んだ。燐太郎さんは、リョウスケと婚姻関係にあるわけではない、と思う。だけど、アルファとオメガの番の約束は婚姻に準じる効力を持つ。付き合っていたとき、燐太郎さんは僕に誠実だっただろうと思うけれど、こうして番の相手に指摘されたら、僕は燐太郎さんの不倫相手ということになってしまう。そのことが悔しかった。
「……燐太郎さんは、番がいると言わなかったから、知らなかったんだ」
「お前、燐太郎に騙されたわけだ。俺から見ればお前はしょうもない浮気男だよ」
「番だって言うなら、なんで燐太郎さんをこんな状態にしてる? 顔色も悪くて、まるで眠ってないみたいな状態に。――好きな相手がちゃんと食べられてるか、眠れてるか、心配できなくて何が番だよ」僕は思わずそう言った。
「ハッ、そうやって燐太郎を気遣う素振りを見せたところで、所詮、お前は番じゃない。何の約束も、法的根拠もない関係じゃないか」
リョウスケが僕をあざ笑う。燐太郎さんが「やめろっ」と鋭く叫んだけれど、リョウスケは止まらない。ニヤニヤしながら、なおも侮蔑の言葉を吐こうとする。
――僕を貶めようとしているのか。
苛立ちを越えて、強烈な怒りがこみ上げてきた。自分でもちょっと戸惑うくらいの激情だ。目の前が赤く染まって、自分でも訳が分からなくなってくる。リョウスケを攻撃したい。傷つけて、屈服させたい。そんな衝動が止まらない。
僕はギリリとリョウスケを睨んで、臨戦態勢に入ろうとする。燐太郎さんが心配そうに制止の声を上げるが、意識に入ってこない。僕はリョウスケを打ちのめすための言葉を吐こうと息を吸う。
そのときだ。
グゥ、と間抜けなお腹の音がした。